先週はヒロシマ・ナガサキの62周年だった。今年の「平和宣言」については、起草前の段階で、秋葉忠利広島市長との有識者懇談会メンバーとして関わったので、特別の思いがある。平岡前市長時代の1994年にも、同じような形で平和宣言に関わったので、13年ぶりである。懇談会の議論も踏まえて、秋葉市長はよく練られた宣言を起草されたと思う。
今回の宣言は、62年の時の経過から、「原爆の悲惨さ」も自明ではなくなったことを踏まえ、あえて「その日」の詳細かつ具体的な描写から始めている。白血病などの直接の苦しみから、結婚差別などの心の傷にまで言及し、原爆のもたらした悲劇をリアルに描く。そして、核をめぐる21世紀の国際社会の状況を的確に描写しつつ、そのなかで、特に「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という視点を押し出し、平和市長会議の活動など、世界の都市が核兵器廃絶のために具体的に行動を起こしている事実を強調する。米国の自治体やチェコやゲルニカの市長の行動も具体的に挙げているので、「平和の担い手とつくり手」という観点からも説得力があった。
日本政府に対しては、被爆の実相と「被爆者の哲学」を謙虚に学ぶように求め、「世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり『ノー』を言うべきです」と切り込んだ点が重要である。「あるがままに遵守し」という表現が新鮮だった。被爆者援護策の充実や伊藤前長崎市長への追悼の言葉も加えて、充実した宣言になったと思う。
続く「平和への誓い」も感動的だった。懇談会の席上、市長から、「平和への誓い」は子どもたちが自主的に用いた言葉を尊重し、大人はそれに手を入れないと伺った。「私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。 私たちは、ヒロシマを『遠い昔の話』にはしません」という言葉は胸をうった。
だが、続いて行われた安倍首相の挨拶は、これらに比べてひどく軽く感じられた。心がこもっていない、というだけではない。「この人がこの言葉を使うか」というむなしさ。不釣り合いな言葉を心にもなく使うからこそ、そこに違和感が生まれる。「今後とも、憲法の規定を遵守し、…非核三原則を堅持していくことを改めてお誓い申し上げます」と述べたときは、耳を疑った。せいぜい「憲法の精神を尊重し」と述べるにとどめると思いきや、「憲法の規定を遵守し」ときた。「規定」という以上、具体的な条項、例えば9条2項についても「遵守」せねばならない。「私の任期中」に改憲を実現すると豪語する安倍首相、戦術・小型の核兵器の保持について前向きな考えをもつ安倍首相。それなのに「非核三原則」の「堅持」と合わせ、どちらも「お誓い申し上げます」と。前日に、会わない予定だった被爆者団体代表と突然会ったことといい、原爆症認定基準の見直しを唐突に表明したことといい、これも参議院選挙での大敗への場当たり的対応の一環で、極端な迎合姿勢に転じたものか。
なお、8月9日の「長崎平和宣言」で田上富久長崎市長は、政府に対して、「非核3原則の法制化」を要求した。安倍首相は長崎でも、「憲法の規定」の「遵守」と、「非核三原則」の「堅持」を繰り返した。式典後のぶらさがり記者会見で、法制化について質問された首相は、「非核三原則は不変ですから」と答えた。ずれている。安倍首相のような権力者がいるから法制化が必要なわけで、「不変ですから」はないだろう。改憲を任期中にやりたい人間は、 「憲法の規定」の「遵守」とは決して言わないはずである(もっとも、それ以前に、憲法99条で、首相は「憲法尊重擁護義務」を課されているので「憲法の規定」「遵守」は当然である)。
まもなく62年目の「8.15」である。下記は、7月19日に早大小野記念講堂で行われた映画「TOKKO-特攻-」の「先行試写会とトークセッション」について、7月下旬に書いておいたものである。先週のヒロシマ・ナガサキと、「8.15」を明後日に控えた今回、これをUPすることにしよう。
それは不思議だった。すべてが自然に、ある方向を目指して動いていった。
5月30日、シネカノンという映画配給会社からメールが届いた。映画「TOKKO-特攻-」についてコメントしてほしいというのだ。すぐに編集済みビデオテープが郵送されてきた。しかし、授業や会議で忙しく、ゆっくり映画という気分になれなかったこともあるが、正直、疲れて帰宅し、「特攻映画」でさらに重い気分になりたくない、という「普通のサラリーマン」的日常感覚と、「特攻映画」というものに対する思い込みもあった。かくして、それは封も切られず、机の横に放置されるままとなった。
2週間ほどして、広報担当から催促のメールが届いた。さらに1週間がすぎた。そして、6月25日、たまたま時間ができたので、ようやくビデオをスタートした。最初は横になってみていたが、途中から起き上がり、そして気づけば正座をしてみている自分がいた。終わったときには、「しまった!なぜもっと早くみなかったのか」と後悔した。ビデオが届いてからすでに3週間以上が経過していたのだが、すぐに広報担当のHさんの名刺をみて、携帯へ電話。映画の感想を熱く語った。
そして同じ頃、シネカノンの別の担当者Aさんが早稲田大学本部の教務課を訪れ、この映画を学内で「先行試写会」できないかを相談していた。話を聞いたオープン教育センターの担当職員Fさんの頭には、真っ先に私の顔が浮かんだようで、メールを送ってきた。私にしてみれば、 Hさんと携帯で話したあとに届いたメールだったので、私の電話を受けてから、Aさんが大学に依頼したものとばかり思っていた。
しかし、あとでわかったことだが、この二つの動きは別々に進んでいたのだった。私のところで偶然一つになり、オープン教育センターの担当職員がポスターやチラシをつくり、学生への宣伝を開始した。学期末も近く、試験の時期なので、学生が集まるだろうか。そういう不安もあった。しかし、私は何万人も学生がいれば、上映前の「先行試写会」と開けばやってくる猛者は必ずいると思い、7月19日という試験ど真ん中の企画実施ではあったがGOを出した。数日のうちに予定の座席はうまってしまった。試写会は、映画館での上映開始の2日前に行われた。
この作品は、ニューヨーク生まれの日系二世のアメリカ人監督のリサ・モリモト(1967年生まれ)が、日本にいた大好きだった叔父が特攻に関わっていたことを知り、特攻の生き残りの人々にインタビューをしていく過程がメインである。アメリカ人である自分の抱く特攻のイメージと、何も語らずに死んだ叔父、その心を知りたいという思いが、彼女をつき動かしていく。そんな彼女を前に、江名武彦、浜園重義、中島一雄、上島武雄という4人の特攻生存者たちが、特攻出撃の体験を実にリアルに語っていく。この作品の白眉である。
他方、カミカゼ攻撃で沈没した米駆逐艦ドレックスラーの生存者たちへのインタビューは特筆すべきだろう。そこに、特攻を「した側」と「された側」の複眼的な視野が開かれる。長らく「狂信的な自爆攻撃」と思ってきたが、自分たちと同じ人間であることを知って、ドレックスラー号の生存者たちの「カミカゼ」たちへの印象は変わる。このあたり、従来の特攻モノにない、本作品のすぐれた特徴といえるだろう。
そして、何よりも、特攻生存者たちが驚くほどはっきりと、率直に、心の奥底から「人間の声」を発している。「生きたかったよ。死にたくはなかったよ」と。
作品中には、実写フィルムやニュース映像(米国のプロパガンダフィルムも)がふんだんに使われている。私個人としては、フィリピンの第四航空軍司令官・富永恭次中将が、陸軍の特攻隊を見送るシーンに久々に怒りが沸いてきた。ちょうど20年前に出した拙著『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年、絶版)のなかで、この富永のことを書いている。富永は、特攻機を送り出す際には、「最後の一機には予が乗っていく」と訓示していた。だが、ルソン島への米軍上陸が迫るなか、司令部要員も連れずに、99式襲撃機に乗って台湾に逃げてしまったのである。陸軍刑法75条は敵前逃亡は死刑と定める。陸軍中将の軍司令官の敵前逃亡は前代未聞だが、これが表に出ることをおそれた軍は、富永を予備役編入の軽い処分で、直接の責任追及はしなかった(拙著169~170頁)。東条英機の腰巾着といわれ、陸軍次官までのぼりつめたが、東条失脚とともに現地軍司令官に飛ばされた富永の姿は、特攻隊員に訓示をする場面で、映画にはっきりと出てくる。
さて、この映画の批評については、すでに何本かある。ある大学院生が執筆した映画評を参考までにリンクしておく(法学館憲法研究所<シネマ・DE・憲法>映画『TOKKO-特攻-』)。私のコメントは、映画会社のホームページに出ている。下記に短いものだが載せておこう。
映画「TOKKO-特攻-」推薦文(「各界からのコメント」)
水島朝穂さん(早稲田大学法学部教授)
とても重いテーマなのに、なぜか明るい光を感じた。高校生の時に「雲ながるる果てに」(鶴田浩二主演)を観て以来、「特攻」に関する映画やドキュメンタリーは二桁になる。志願とは名ばかりで、国家によって強制された死。人生の真昼前にいた若者たちが、「何のために死ぬのか」を己に納得させるためにもがき、苦しむ姿は、いつも胸に迫る。だが、この作品は従来の「特攻」ものとはちょっと違う。そのすぐれた特徴は、日米双方の「特攻」当事者から、驚くほど率直な言葉で「本音」を引き出すことに成功した点にある。「おめおめと生き残った」という意識に半世紀以上呪縛されていた彼らが、「帰ろうや」「生きたい」という言葉を素直に発した。「家に帰ってこい」と送りだす父親のこと。軍法会議を覚悟して、「この機はひどすぎます。いつでも戻ってきてください」といった整備兵…。一人ひとりの「人間の声」に満ちているのが、重苦しいテーマの向こうに光を感ずる所以だろう。他方、「特攻」で撃沈された米駆逐艦の生存者たち。その心の変化も注目される。狂信的軍人と思い込んでいた「カミカゼ」パイロット。彼らの実像を知るにつれて、自分たちと同じ人間として共感を覚えるようになる。特に、一人の生存者が同僚に向かってもらした言葉が印象的だった。「彼らは政府の厳しい情報コントロールによって何も知らなかったのだ。我々だって同じかもしれない」と。この変化の背景には、62年という時間的経過とともに、「9.11」とイラク戦争の影響がある。いま、日米の当事者たちが、国家の呪縛を解かれ、「心の軍服」を脱いで、同じ人間・個人として向き合う。それを可能にしたのは、1967年生まれの、日系二世アメリカ人女性監督の「目線」である。年代、日系二世、アメリカ人、女性。これらの要素が化学反応を起こして、この奇跡のような作品を生み出した。特に若い世代にお薦めしたい映画である。
先行試写会当日、小野講堂は学生たちでほぼ満席になった。メディア関係者や一般市民も一部参加した。トークセッションでは、ゲストの上島武雄さん(海軍飛行予備学生14期)に対する質問を学生から求めた。何人かの学生が質問した。冒頭、上島さんは、14期生3323人のうち、早大生は389人、そのうち35人が特攻で死んだと語った。海軍と陸軍の違いや、リサ監督が英語で質問してきたので、英語で自然に本音を答えたことなどを語った。
参加者の4分の1にあたる79人が、感想を残してくれた。少し紹介する。
「まず感じたことは死でつながれた友情は悲しいものだなということです。今でも離れることが、逃れることができない呪縛のように私には感じました」(法4年)
「明日からの生き方が大きく変わりました」(一文3年)
「私の祖父も海軍で、キスカ〔島〕の生き残りで、半年前に他界したのですが、もっと話を聞いておけばよかったと本当に心残りです」(政経1年)
「『国』『世代』というヨロイを脱いで対話することの大切さを改めて感じます」(法5年)
「すべてを理解することはできなくても、知ろうとする、歩みよろうとする姿勢が今の時代を変えると思った」(商3年)
「一人の人間として同じように生き、戦争の中で生きたいと願っていたと感じて、もっと遠い存在だった人々が近くに思えてきました」(一文3年)
「悲劇を美化したり、憎悪をむき出しにするのではなく、淡々と事実が述べられていたので逆にストレートに胸をうった。私が知りたかった『生の声』があったように思う」(政経3年)
「私も平成生まれですが、世代を超えた対話を行いたいと強く感じました」(政経1年)
「私は祖父から戦争体験を聞いたことがあったのですが、あまり話したがらない祖父に対してそれ以上深く聞くことができませんでした。今回、特攻隊の方々の顔が見られて、心の本音が聞けたこと。心に響いてきました」(法4年)
「単位よりも大切なものを頂いたような気がします」(二文3年) 等々。
試験中のため、この企画に参加するのには相当な覚悟がいる。私も「賭け」に出たが、ほぼ満席の参加者に満足した。「単位よりも大切なものを」と、試験と映画を天秤にかけて、映画をとった学生もいた。私は冒頭の挨拶のなかで、「戦争体験者の人間の声に対して、若い世代の感性は決して鈍感ではないと信ずる」と述べた。学生たちの感想文は、それにこたえてくれるものだった。
なお、航空自衛隊と米空軍との日米合同演習(共同訓練)が2005年にグァム島で行われた際、その際の訓練コードが「神風」であった。これを記念するワッペンをみると、何とも違和感がある。もしも10年前や20年前ならば、こういうワッペンは控えるべきだととめる幹部が必ずいたはずである。いまの将クラスは私と同じような年齢の人々であり、「戦争を知らない世代」である。
日米共同訓練もかつての抑制はとうにはずれ、より実戦的なものになりつつある。 『ニューヨークタイムズ』紙2007年7月23日付は、グァム島付近で自衛隊が500ポンド爆弾を投下する訓練をやったと報じた。これを韓国の『朝鮮日報』紙7月24日付が後追い記事を出して紹介。「日本の爆弾投下訓練は北朝鮮を想定」と書いた。同紙はステルス性能をもつF22Aラプター戦闘機を航空自衛隊が導入する動きにも着目している。「日本初」の爆弾投下訓練について、国内の報道はなかった。安倍内閣は、米軍との軍事関係をより実戦的なものにしようとしている。この日系二世のつくった映画「TOKKO-特攻-」を普及する意味が大きい所以である。