9月12日の昼。書斎で原稿を書いていて、ふと新聞に手をやりテレビ欄をみる。午後1時から「国会中継(代表質問)」。鳩山由紀夫(民主)、麻生太郎(自民)、長妻昭(民主)の名前がある。スイッチを入れる。何やら様子が変だ。アナウンサーが緊張した表情で「安倍首相が辞意を表明」と繰り返している。その日が近いとはかねてより聞きしかど、今日の今日とは思わざりしを、という心境だった。「トップバッターとしてバッターボックスに入ったら、ピッチー(投手)がいなくなってしまった」。代表質問を準備していた鳩山幹事長は、「投手」を党首=総裁にかけて、安倍首相を皮肉った。野球だったら、控えのピッチャーが出て、試合は続く。しかし、内閣総理大臣に「控え」はいない。
思えば1年前の9月26日。安倍晋三氏が第90代首相となり、安倍内閣が発足した。就任直後の記者会見で、「美しい国、日本」を押し出し、最初の世論調査では、73.4%という高い支持率を獲得した。それが就任3カ月で支持率は急下降。ナショナリズムの濃厚な香りと不自然な饒舌さで膨らませ、高く上げられた「美しい国」バルーンは、本年9月12日、しぼんで落ちた。
9月10日の所信表明演説全文が各紙に掲載されているが、「100年後のあるべき日本の姿を見据え、原点を決して忘れることなく、全身全霊をかけて、内閣総理大臣の職責を果たしていくことをお誓い申し上げます」と明言した、そのわずか2日後の辞意表明はあまりにも唐突である。
「美しい国」、「教育の再生」、「戦後レジームからの脱却」、「私の任期中に憲法改正を」…。彼の言動については、この「直言」でもそのつど批判してきたが、政治家としての経験もキャリアも乏しいなかで、その「存在の耐えがたい軽さ」を自覚しながら懸命に自分を大きく見せようと無理を重ねてきたために、1年足らずでポキッと折れてしまったのかもしれない。ある意味では気の毒だが、そんな人物をバスの運転席に座らせてしまったのは誰か。それを持ち上げてきたメディア(特に、みのもんた氏の過剰な肩入れ)。運転席にしがみつき、急ハンドル、急加速を繰り返して迷走する安倍バス。周囲にぶつかり、乗り上げ、乗客も鞭打ち症になりながら、その残した「被害」の大きさを思う。教育基本法に手をつけたあと、教育現場に吹き荒れているのはまさに「嵐」である。防衛庁から防衛省になるやいなや、強引な姿勢がもう目立つようになった(写真左の建物は庁舎A棟[内局、統幕・3幕が入る]。その右に220メートルの通信鉄塔をもつB棟が見える)。強行採決などの「不正常な採決」を繰り返した国会運営の荒れをどう修復するのか。結論から逆算したような無理な国会運営で成立した法律の数々。とりわけ、「国民投票法」の、法律の不十分さを告白するような附帯決議の多さは記憶に新しい。これ以上、バスの運転席に座らせておいたらどこまで暴走しただろう。それにストップをかけたのが、7月末の参院選挙の結果だった。
「私は職責にしがみつくということはない」(シドニーでの記者会見)という奇妙な日本語を使ったのも、彼が「職席」と思い込んでいたからかもしれない。日本語としては、「職責を全うする」という。安倍氏は結局、首相という「職席にしがみつく」ために無理をしすぎたのではないか。
参院選で与野党が逆転し、「ねじれ国会」が誕生した結果、衆参両院の関係を規定する憲法の条文が注目されるようになる。国政調査権の活用など、国会の変化も期待できる。しかし、安倍内閣が残した「消極財産」の克服には、相当な時間とエネルギーが必要となるだろう。
以下、12日の辞意表明直後に北海道新聞社から原稿依頼され、その日のうちに執筆した原稿を転載する(『北海道新聞』9月14日付夕刊文化欄掲載)。その直後に書いたため、やや筆が走っているところもあるが、ご容赦いただきたい。次回の直言は、安倍内閣送別の第2回として、すでに脱稿してストックしてある安倍内閣批判の原稿を掲載し、「在庫一掃」をはかりたいと思う。
安倍政権が残したもの
――重ねた無理と不可解さ――
13日午前7時。パソコンを開くと、「安倍内閣メールマガジン」第46号が届いていた。巻頭言「こんにちは、安倍晋三です」のタイトルは「改革、テロとの闘いを前に進めるために」。だが、編集部がつけた全体タイトルは「安倍総理辞意表明」というものだった。ちなみに、第1号(創刊準備号)は、06年10月5日7時受信。巻頭言は「『美しい国創り内閣』の発足」だった。「小泉内閣メールマガジン」最終号は250号だったから、安倍メルマガはその5分の1にもとどかなかった。
誕生から352日で瓦解した安倍内閣。過去、政権を投げ出した首相は何人もいた。参院選で大敗した時点で辞めていれば、一応筋が通った。宇野内閣、橋本内閣という先例もある。海部内閣、細川内閣の幕切れも唐突だった。だが、国会で所信表明演説を行い、各党の代表質問を受ける段になって辞意を表明した首相は、さすがにいなかった。衆院は流会となった。これは究極の国会軽視だろう。というよりも、議院内閣制のあり方を傷つける辞め方といえる。
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議院内閣制とは、政府の成立・存続が議会に依存する仕組みである。その本質は、内閣が議会に対して政治的責任を負うことにあるとする学説もある。最後のメルマガには、「無責任と言われるかもしれません。しかし、国家のため、国民のみなさんのためには、私は、今、身を引くことが最善だと判断しました」とあった。安倍氏自身が「無責任」という言葉を使っている。これには正直驚いた。
年金問題や経済問題など、国民生活に密接な課題について、国会は審議不能に陥った。質問を準備していた議員は出鼻をくじかれた。そのことへの謝罪の言葉はない。きわめて無責任なやり方である。
思えば、安倍内閣成立以降、かつてない強引で恣意的な国会運営が行われた。先例や慣行は破り放題、「不正常な採決」が続出した。十分な議論もないまま、「改正」教育基本法、防衛庁「省」移行関連法、国民投票法など、戦後憲法体制の変更につながる重要法律が次々に成立した。
一方、与党の審議拒否で、衆院決算行政監視委員会が流会に(7月4日)。質問者は、この時も長妻昭議員だった。参院選直前で、年金問題で首相が不利になる場面を減らすという「作戦」だったようだが、官邸指示で与党国対が動く国会運営は異様だった。かくて、無理に無理を重ねた結果が、所信表明演説直後の辞意表明となったわけである。
憲法上、「内閣総理大臣が欠けたとき」、内閣は総辞職する(70条)。「欠けた」といえるのは、首相死亡の場合などのほか、首相不在という事実の発生である。首相の自発的辞職もまた、「欠けたとき」にあたると解される。憲法上、自発的辞職により首相不在となれば、内閣は総辞職となる。国政の停滞は避けられない。安倍氏は、首相の地位と責任の重さを本当に理解していたのだろうか。
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何よりも辞める理由が不可解である。「テロとの戦いを継続させるため、局面の転換をはかる」という。だが、インド洋上における給油活動の継続を「国際公約」として、首相の地位にまで連動させてしまったところに無理があった。
そもそもテロ特措法は、「9.11」直後の臨時的・応急的法律で、そうした法律の延長を繰り返すことは、立法作法として望ましくない。これ以上の延長は許されない。法律の狙いは、海自イージス艦のインド洋派遣だったが、政治の力学で、洋上給油となったものである。最近、イラク戦争に向かう艦艇にも給油されている可能性が指摘されている。となると、アフガンやイラクで行われている米軍や有志連合軍による民衆の殺戮に、ひたすら「油を注いでいる」のが日本ということになる。給油活動は直ちに中止すべきである。
「9.11」から6年が経過し、米国内にも冷静な眼差しが生まれている。国際社会もブッシュ政権の「対テロ戦争」とは距離を置きはじめている。ここで日本が自主的に判断して、米国の軍事戦略との絡みではなく、真のテロ対策やアフガニスタン再建への協力のため、仕切り直しをする時期にきていた。しかし、安倍氏は、「ブッシュ政権=国際社会」という狭い視野で、給油継続に「職を賭した」わけである。何とも愚かで、悲しい結末だった。
改正教育基本法などの法律が成立し、たくさんの置き土産が残された。これとどう向き合うか。まずは、責任ある政府の樹立のため、衆議院の解散が不可欠だろう。
(『北海道新聞』2007年9月14日付夕刊文化欄より転載)