梅雨の頃だった。机の下を掃除していたら、奥の隙間に、クリップでとめた2枚の新聞切り抜きをみつけた。何かの拍子で落ちてしまい、そのままになっていたようである(右号外とともに保存しておこう)。
1枚目は、『朝日新聞』2007年3月7日付(1外)の切り抜き。見出しは「ボリビア大統領『新憲法で戦争を放棄する』」。モラレス・ボリビア大統領が3月6日に都内で講演。「戦争は解決策にならない」「唯一の良かった戦争である独立戦争でも、混血の人たちや先住民の人命が失われた」と語り、「軍隊なしで人命を救える。武装放棄しながら、社会的な〔たたかい〕を続ける」と述べた。同日、モラレス大統領は安倍首相と会談。その際に、「ボリビアは日本のような大国ではないが、似た点もある。人々が手を取って平和に生きる社会。そういう観点から、戦争放棄を憲法改正で掲げたい」と語ったという。記事には、安倍首相がこの言葉に反応したという記述がない。何か語れば記者は書く。おそらくは「馬耳東風」。9条改憲に燃える安倍首相には、「猫に小判」であったのか。
もう1枚は、ブリュッセルのNATO理事会で、今年1月に安倍首相が演説したという記事(『朝日新聞』2007年1月13日付)である。読み返して、なぜ切り抜いたかを思い出した。そのなかの一言が妙に気になったからだ。「憲法の諸原則を遵守しつつ、日本人は国際的な平和と安定のためなら自衛隊が海外で活動することをためらわない」。
憲法を「遵守」したら、自衛隊の海外派遣はありえない。最も気になったのは「日本人は」と「ためらわない」という言葉の結びつきである。主語はきわめて抽象的で、安倍氏特有の国家主義的思い入れが強すぎる。「日本人」という括り方も、少なくとも私のように自衛隊海外活動に反対し、あるいは、ためらう日本国籍者が含まれないことになるので、正しくない。それに、「ためらわない」という言い切りには、不自然な「力み」を感じる。『朝日新聞』1月16日付は、「首相は気負いすぎだ」という社説を出してたしなめたが、そもそも日本の首相がNATO理事会で演説するのは初めてだし、そこにおける内容もこのように異例である。「日本とNATOが別々に行動するような無駄は許されない」という結びの言葉からは、NATOが行う海外ミッション(後述アフガニスタンのISAFなど)に日本も積極的に参加する決意を表明したものと、NATO加盟国は受け取るだろう。だが、これは憲法9条をもつ日本がすることではない。
注意すべきは、ヨーロッパの安全保障システムは、NATOだけではないということである。欧州連合(EU)、全欧安保協力機構(OSCE)、北大西洋条約機構(NATO)、西欧同盟(WEU,2000年にEUに統合)など。それぞれの組織は、目的も異なるし、制度設計も違う。EUは政治、法、経済、文化、外交などを包括する、ヨーロッパの最も基本的な連合体である。OSCEは、「仮想敵」をもつ「集団的自衛権」システムではなく、「仮想敵」をもたない「集団安全保障」の地域版である。紛争地に監視団などを送り、非軍事的な紛争解決を追求する。軍事力よりも、非軍事的なシビル・パワーを目指すヨーロッパがそこにある。
他方、冷戦後、国境を守る組織としての軍隊や、複数の国家同士で国境線を守り合う「同盟」(集団的自衛権システム)はその生き残りをかけて、「国境」から「国益」(「死活的利益」)の確保にシフトしている。まず、WEU(西欧同盟)の枠内で、90年代に、独仏合同旅団や欧州合同軍など、米国と距離をとる西欧の軍事協力関係が進んだ。他方、NATOの「域外派兵」(“out of area”)が頻繁に行われるようになった。ただ、NATOには、米国と、イスラム国のトルコが入っている。トルコ加盟は、冷戦時代、米国が軍事的に必要としていたからである。
米国とトルコを除いた、純粋にヨーロッパだけの連合体であるEUは、共通の防衛・安全保障政策を構想して、独自の緊急対応部隊(介入軍)をもつようになった。ブリュッセルのNATO本部の通りを挟んで向かい側には、2004年7月から欧州防衛庁がある。EU部隊がボスニア、マケドニア、コンゴなどに派遣されている。なお、これをヨーロッパの平和運動は「EUの軍事化」と批判している。
冷戦仕様の集団的自衛権システムであるNATOは、90年代にやや影が薄くなった。コソボ紛争では、OSCE監視団の地道な活動が、成果をあげていた。そうしたなかで、1999年4月のNATO創設50周年を祝えないかもしれないという危機感から、NATO軍はその前月に、「存在証明の花火」のごとくに、旧ユーゴ空爆を開始した。OSCE監視団は空爆の危険から撤退を余儀なくされた。コソボにおいて、非軍事的な紛争解決の可能性がつまれた瞬間だった。
その後もNATOの存在主張はきわめて派手で、「9.11」で集団的自衛権行使の「同盟事態」を宣言してからは、アフガンでの平和安定化活動(ISAF)などを展開している。NATOは、旧ワルシャワ条約機構と対峙する集団防衛システムから、アフリカや中東などヨーロッパの「死活的利益」=権益を守るための「欧州介入同盟」へと変質したとされる。「領域防衛から利益防衛への転換が、NATOの歴史における重大な転機を表現する」とされる所以である(H. Reiter, KJ 2/2007)。なお、ドイツが海外派遣を「本務」化していることはすでに書いた。
軍備支出も増大し、ストックホルム平和研究所(SIPRI)の最新の報告書によると、世界の軍備支出は1兆2040億ドルを超えたという。その半分は米国が占め、NATO全体で世界の70%以上になる(AG Friedensforschung an der Uni. Kassel vom 28.8.2007より引用)。
安倍首相は、ヨーロッパの安全保障システムのなかでも、この軍事中心のNATOに肩入れしすぎているように思う。NATOへの過度の思い入れ(思い込み)は、「片務的」な日米安保条約を、「双務的」なNATO型条約に変えたいということもあるだろう。「日米安保のNATO化」ということも80年代からいわれてきた。これは祖父の岸信介元首相の「見果てぬ夢」だった。NATOの「介入同盟」化に照応して、日米安保のグローバル化をはかるのが狙いだとすれば、安倍首相がブリュッセルで行った、「無駄は許されない」という主張は、NATOの首脳陣には実にたのもしく聞こえたに違いない。「日本にもっと分担してもらえる」という期待は、従来の金銭的負担だけにとどまらず、文字通り「金だせ、人だせ、血も流せ」という水準になりつつあることを、市民は知るべきであろう。
日本は、OSCEを軸とする「シビル・パワー」としてのヨーロッパともっと連携すべきだろう。アジアも、かつては東南アジア条約機構(SEATO)、米比、米韓などの軍事同盟におおわれていたが、いまでは、アジアの国々はそれぞれの仕方で米国との距離を微妙にとりはじめている。アセアン地域フォーラム(ARF)など、地域的な集団安全保障の枠組に向けての過程にある。安倍首相がNATOにあまりに過度にコミットすることは、「日米同盟」(「同盟」という言葉は日本国憲法のもとでは使えないので、括弧を付ける)盲進の姿勢とあいまって、アジアにおける平和と安全保障の発展にとって、決してプラスにはならないだろう。
上記の文章は、「ナトー好きの安倍首相」というタイトルで、再び安倍氏がNATO関連の発言をしたらUPしようと思ってストックしておいたものである。結局、その機会もないまま、安倍氏は官邸を去った。「ためらわない」「無駄は許されない」といわれたNATOの関係者は、「あれは一体なんだったのか」と、1月のNATO理事会にやってきた日本の首相の挨拶のことを思い出す…、ということはまずないだろう。APEC首脳会議のときの安倍氏の威勢のいい発言も忘れられかけているので、一国の首相が行う発言の重みと、その賞味期限はますます短くなっているように思う。
さて、「在庫一掃」ついでに、あと二つ挙げておこう。これは安倍氏の発言をきっかけに、教育問題などについて書こうとストックしておいたものである。
……安倍首相は、いじめ対策のなかで、学校教育法に定められている「出席停止措置」の活用を、文部科学相に指示した(『毎日新聞』2007年1月23日)。学校教育法26条1項1号から4号に掲げる行為をおこなった「性行不良」の児童について、出席停止を命ずることができるのは、市町村教育委員会である。当然、学校現場との連携の上での判断であろう。最後の最後の手段であり、教育関係者にとっては辛い決断だが、そのことを首相がもっとやれと上から指示するのは筋が違う。教育現場における具体的方法にまで、首相が口をはさむのは異例である。これは、子どもたちと直接向き合う現場のことを考えての発言というよりも、「教育再生会議」の議論向けに、とにかく「断固たる姿勢」を示したかっただけのようにも思える。教育の問題はデリケートである。首相が強権的な方法を指示することが、かえって現場の対応を萎縮させる場合もある。発言にはもっと慎重さが求められる。……
……松岡農水相が自殺したとき、安倍首相は、松岡大臣について捜査の予定はないと言い切った。この言葉は非常に気になった。5月28日の「ぶらさがり」でのことである。「故人の名誉のために言っておきますが、緑資源機構に対する捜査があったという話は聞いていません。今後も捜査の予定はありません」(『朝日新聞』2007年5月29日付など)。 会見では、感想を問われた冒頭で、「慙愧に堪えない思いです」とやってしまった。日本語の使い方として??であるが、ここでは問わない。むしろ、「今後も捜査の予定はない」といったことが問題である。『朝日新聞』ではその下りは、「関係者の取り調べを行っていた事実もないし、行う予定もないという発言があったと聞いている」になっている。別の新聞で、「捜査の予定はありません」という要約を見て、穏やかでないと思った。
検察庁法14条は、法務大臣は検事総長を通じて、個々の事件で検察官を指揮できると定める。いわゆる「指揮権発動」である。造船疑獄事件において、安倍首相の大叔父の佐藤栄作自由党幹事長を強制捜査しようとした検察庁に対して、当時の犬養法務大臣が指揮権発動を行った。このケースはあまりにも有名である。
他方、総理大臣は行政各部への指揮監督権をもつ(憲法72条)。ロッキード事件では、機種選定をめぐって、旧運輸大臣に対するそれが問題となった。実際にはまず考えられないが、安倍首相は、やろうと思ったら、法務大臣を動かし、指揮権発動をさせることも可能である。「捜査の予定はない」と言い切ることが、捜査側に思わぬプレッシャーとして作用する場合もありうる。それだけ総理大臣というのは強い権限をもつという自覚が、安倍首相にあっただろうか。……
書きかけになってしまったストック原稿、実はまだまだ続くが、これくらいにしておこう。「9.12」(突然の辞意表明)を体験してしまうと、この人の発言はあまり深読みすべきではなかったという反省も出てくる。つまり、単に言葉を知らなかったり、単に「言語明瞭にみえて、実は不明瞭」「意味明瞭にみえて、実は意味不明瞭」ということもありうる。1月のNATO理事会の発言も、熟慮の上での発言ではないと考えると合点がいく。あまり過大評価しすぎても、過小評価しすぎてもいけないということである。ただ、首相である以上、その言葉は、一般人とは比較にならないほどの影響があることはもっと自覚すべきだった。とにもかくにも、辞め方も含め、「首相」という地位と権能と「職責」からはことごとくズレのある人物であったことは確かである。
『毎日新聞』の全国世論調査によると、安倍政権の1年を「評価しない」と答えた人は74%に達する(『毎日新聞』9月13日付)。自民党支持者ですら過半数にあたる51%がそう答えている。無党派層では80%に達する。ここまで低評価の内閣も珍しい。首相のやったことで評価できるとするのは「天下り規制」24%がせいぜいで、国民投票法制定を挙げる人は7%にすぎない。でも、教育基本法、防衛省移行法、国民投票法など、かつてならそれぞれに一内閣が必要だった法案をサッとあげてしまった。勢いでやれてしまったところに怖さがある。
安倍晋三「送別の辞」はこれで終わる。マンガ好きの総理大臣が生まれ、「オタクの皆さん!」なんて所信方針演説でニコニコ呼びかける場面を想像したが、一夜にして逆転した。昨日、9月23日投開票の自民党総裁選において、福田康夫元官房長官が総裁に選出された。今度の「総理=総裁」は、これまでに比べればはるかに慎重で、「突っ込みどころ」は相対的に減少するだろう。しかし、彼には、森内閣、小泉内閣の官房長官として、「構造改革」で国を歪めた責任がある。ここは、速やかに衆議院を解散して、国民に信を問うべきだろう。30年後の「第二の福田内閣」の任務は、第45回衆議院議員総選挙の選挙管理内閣に徹すべきである。