「ナチ時代にもよい面があったか?」という問いかけに対して、ドイツ人の4分の1が肯定的に答えたという。ナチ第三帝国崩壊から62年半近くたった時点での、ややショッキングな数字は、この「直言」でもよく引用する『シュピーゲル』誌より大衆向けの週刊誌、『シュテルン』が、フォルザ世論調査研究所に委託して行った調査の結果である(Stern vom 16.10.2007)。それによると、ドイツ人の25%がナチズムは「よい面」をもっていたと回答した。その理由として、高速道路(アウトバーン)の建設や家族の振興などが挙げられている。教育を受けた程度で、回答には違いがある。義務教育までしか受けていない人の44%が肯定的で、大学入学資格(アビトゥーア)を取得した人では12%にとどまっている。年齢別にみると、60歳以上の37%が肯定的で、平均よりも12ポイントも高い。これに対して、45歳から59歳では15%、それ以下の若い世代では20%という。政党支持別では、保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)支持者の28%、社会民主党(SPD)支持者の25%、自民党(FDP)支持者の20%がナチ時代に肯定的な面を見いだしたのに対して、緑の党と左翼党では、それぞれ7%にとどまった。東西ドイツの比較では、東は25%と平均値だが、西では26%とわずかに高かった。『シュテルン』発売翌日には新聞でも、「4分の1のドイツ人がナチ時代を一部肯定的にみている」として記事にしている(Die Welt vom 17.10.2007)。
昔から、ヒトラーがやった「よいこと」、あるいはナチ時代の肯定面としていわれてきたことがある。それは、女性の社会参加、失業や犯罪が少なかったこと、アウトバーンの建設、フォルクスワーゲン(民族の車という意味)などである。だが、これは「神話」であると批判されている(Vgl. W. Ben, NS-Mythen, …, in: Die Welt vom 21.10.2007, usw.)。その指摘などを参考に述べれば、次の通りである。まず、4人以上の子どもを生んだ母親に名誉勲章が与えられ、470万人がこれを受けたのだが、ユダヤ人や他人種の母親には与えられなかった。3K(育児Kind、家事Küche、教会Kirche)中心の女性が、工場で働き、社会進出できたのは、男性が戦場に出て、国内の労働人口が減少したからだった。また、1932/33年は財政支出の7.5%が軍事費にあてられたが、1938/39年は60%に跳ね上がっている。失業率が下がったのは、国家的な軍需動員のせいである。労働市場の成果にみえることでも、その副産物は、労働者の団結権やストライキ権、労働市場の選択の権利の喪失だった。犯罪が少なかったというのも、神話である。殺人や強盗などは1939年から著しく増えている。軍事裁判所や特別裁判所の判決は犯罪統計には載らないから、政治犯や思想犯の処罰はカウントされていない。そもそも、ナチスは自由を圧殺し、ユダヤ人を虐殺するという行為を行っていたわけで、「犯罪が少なかった」という評価は疑問である。アウトバーンはヒトラー独裁の成果という見方もあるが、「指導者の道路」は、雇用創出の役割を果したとされるが、その建設が失業保険によってまかなわれていたという事実もある。最後に、フォルクスワーゲン。ヒトラーの肝入りでつくられた小型車で、当時990マルク(RM)で購入できる大衆車だった。その生産は、ドイツ労働戦線のプロジェクトだった。
このように、「神話」となっているものを冷静に「構造的」にみていけば、とても肯定できるものではないものも含まれるし、かといって万年筆でも時計でも、ヒトラーが好めばすべて「ナチ的」といって排除するのは「坊主憎けれゃ、袈裟(けさ)まで憎い」の類になってしまうわけで、「ヒトラー時代にもよい面があったか?」という安易な設問の仕方にまず問題があるだろう。
いま、ヨーロッパでは、ドイツのみならず、ポーランドなどでもネオナチ的傾向の動きがある。ドイツでは、7年ぶりにネオナチ党禁止の動きが再燃する兆しもある。日本でも、沖縄における「集団自決」(強制集団死)に対する軍の関与を相対化する動きがあるが、ナチ体験や戦争体験の継承には不断の努力が求められるというのが実感である。そういうとき、その当時のさまざまな「現物」を紹介することは、それなりの意味があると思う。私は、「わが歴史グッズ」シリーズを不定期に掲載してきたが、24回目の今回は、私が所蔵するヒトラー時代の「歴史グッズ」を取り上げよう。すでに紹介したものもあるが、今回初めて公開するものもある。
私が最初に入手したナチ時代の「グッズ」は、ナチスの暴力装置の「かけら」である。1988年5月に、故・小田実氏と高橋武智氏(最新刊『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…』〔作品社〕は貴重な歴史ドキュメント)の誘いで「日独平和フォーラム」に参加した。そのとき、ベルリンの旧プリンツ・アルブレヒト通りにあるゲシュタポと親衛隊(SS)、親衛隊国家保安部(SD)の本部跡にも行った。そこは「テロの地形学」(Topographie des Terrors)という名の野外記念館になっているが、そこにあったゲシュタポ本部の煉瓦の一片を、管理者の許可を得て、一個入手した。20年近くにわたり、この記念館のパンフレットとともに、授業などで回覧している。
これは、ゲシュタポの名で知られる秘密国家警察(Geheime Staatspolizei)の構成員の認識票である。1021と番号もうってある。次は、ナチ時代の通貨である。ヒトラー内閣が誕生したときの大統領、フォン・ヒンデンブルクの横顔が使われている。ヒトラー関係の切手も何枚かあるが、これはあまり珍しくないので省略する。
私のナチ・グッズのなかで特に珍しいのは、シュトットゥホーフ(Stutthof)強制収容所で使われたユダヤ人の腕章だろう。ダビデの星とJUDE(ユダヤ人)の文字。赤で地名が書いてある。シュトットゥホーフ収容所は、旧西プロイセンのダンツィヒ(ポーランド地名グダニスク)の近くに1939年につくられた。1944年6月に、ここで「ユダヤ人問題の最終解決(Endlösung)」が遂行され、アウシュヴィッツ=ビルケナウのような「絶滅収容所」ではなかったが、ガス室による殺戮が行われた。1940年には12ヘクタール、収容者3500人の小さな施設だったが、1944年には120 ヘクタール、57000人に増大した。1945年5月9日にソ連第48軍により解放されるまでに、11万人(東欧やバルト諸国などを中心に23カ国の男女、子ども)が収容された。
最近入手したのは、1936年11月25日に「日独防共協定」が締結され、これにイタリアが加わり、1937年11月25日、後楽園球場で、「日独伊防共協定記念国民大会」が開かれ、提灯行列も行われたが、これは、その際に使われた提灯である。大変高価なもので、閉じると弧の形になり、裏側からみてもハーケンクロイツが浮き出ている。
2000年秋、ベルリン北東110キロにあるツェルニコフの森が奇妙な形に紅葉(黄葉)した。メディアが上空から写真を撮影した写真がこれである。見事なまでにナチ型に黄葉している。自然の悪戯にすぎないが、これがニュースになるのは、やはりドイツである。誤解のないようにここで紹介しておくが、長野警察署が1936年3月に出した「善光寺様御開帳」の注意事項のチラシにあるのは、正真正銘のマンジである。ナチスは「逆マンジ」なのである。
ボンに滞在したとき、ライン河畔のフリーマーケットで、怪しげな古道具屋からヒトラーの『わが闘争』(Mein Kampf)の実物を高値で買った。発行年は1937年、246/247版とあり、それまでに296万部が売れたとある。見返しをみると、結婚した若いカップルに対して、区長がお祝いの品として送ったものであることがわかる。日付は1937年10月29日。区長の直筆サインもある。なお、これは70年前のものなのになかをあけるとパリパリという音がする。もらった人は一度も開けなかったようだ。
ナチスの党員章のオリジナルもある。ナチ党の綱領と党則もある。これは1932年版で、権力獲得以前のものである。なお、ナチスとはNationalsozialismusを縮めたもので、「国民社会主義」と訳す。世界史の教科書などでは、「国家社会主義」とあるが、これは正しくない。ナチ党もNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)で、「国民社会主義ドイツ労働者党」である。私は「国家社会主義」(Staatssozialismus)とは、旧ソ連や旧東独などの体制を指す場合に使う。石川準十郎『ヒトラー「マイン・カンプ」の研究』(国際日本協会、1943年刊)も、ナチスのことを「国民社会主義」と訳すべしと強調している。
米国製のナチ関係ワッペンもある。ナチ党員章や記章のイミテーションが出回っている。もし、これをドイツで売れば犯罪である。ドイツ刑法86a条は、「違憲の政党や団体の表章(旗、記章、制服、合言葉、挨拶)を集会や文書のなかで使用したり、流布した場合には、3年以下の自由刑に処せられる。
なお、ドイツの極右のワッペンには、ポーランド、旧ソ連、バルト3国、チェコのズデーデン地方までが「わが祖国」としてドイツ国旗と、「ドイツはドイツ人に」という文章がそこに書かれている。91年に東ベルリンに滞在したとき、駅のキオスクで買った極右「国民新聞」を読んでいて、「東ドイツ」という意味が一般とは異なっていることに気づいた。我々が「東ドイツ」と考えているのは彼らにとっては「中部ドイツ」で、「東ドイツ」とは旧ドイツ帝国領のポーランドなどを含む。その主張をワッペンにしたものである。「日本国」として、朝鮮半島や旧満州、台湾を同じ赤色にしてワッペンにしたようなものだろう。
ドイツ国防軍のヘルメットも2個所蔵している。そのうちの一つは、これまたボンの怪しい古道具屋から買ったもので、弾丸の貫通痕が5箇所ついている。これをかぶっていた兵士は確実に死んでいる。私は研究室に来ると、このヘルメットの下に置いてある香炉で香を焚いている。純日本製の香りだが、亡くなったドイツ兵の魂に届けばと思って、毎回やっている。
最近、ドイツ軍のガスマスクも入手した。WA416とハーケンクロイツの刻印がついている。研究室のガスマスクコレクションに加わった。
大変珍しいリーフレットもある。タイトルは「V-1」。ナチ・ドイツが開発した巡航ミサイルの先祖にあたる兵器である。ロンドン空襲に使われた。1000キログラム(1トン)の火薬が弾頭部分に入り、後方からの噴射で目標に突入する。第二次大戦に登場した兵器のなかでも、最も「先進的」なものの一つである。「英国に対するドイツの秘密新『報復兵器(Vergeltungswaffe)』」とある(頭文字をとって「V-1」)。「『ロンドンを17時間で完全に破壊し尽くす』『英国を戦争終結へ追いやる』であろう兵器」とある。なお、このリーフレットには、これを入手した人のメモが付いている。「イタリアにいるビルからの1944年7月20日付手紙で7月29日に受く」。ヒトラー暗殺未遂事件と同日という戦況から、ビルという米兵がこれを入手して、家族宛の手紙に入れて送ったようである。封筒に入れるため、細かく折った痕がついている。
まだまだあるが、このくらいにしておこう。なお、ドイツ軍とソ連軍の伝単については、北朝鮮や米国などと一緒に、このシリーズの25回で紹介する予定である。
【2017年9月19日追記】:この「直言」を読む方が増えておりますので、スタイルを改めて読みやすくしました。――管理人