ビルマ(ミャンマー)のサイクロン災害と中国四川省の大震災によって、たくさんの命が失われている。冒頭にそのことに対して一言述べたい。大変痛ましい被害である。その国の抱える深刻な問題は、大災害という「例外事態」において、くっきりと見えてくる。そしてそれは、犠牲になるのがいつも民衆であるという点でも共通している。ビルマ軍事政権の本質は、被災者救援よりも新憲法草案の国民投票(賛成92.4%!)を優先し、外国の救援やメディアを拒否するところに集中的に表現されている。その軍事政権を支えてきた中国。その中国自身が今回の大震災によって、政治・社会体制の矛盾をあらゆる面で露出せざるを得なくなった。ただ、いまはこのことを論ずるよりも、被災者救援が優先されるべきである。私もささやかな金銭的支援から始めている。
人的救援という点では、一度中国政府に拒否された国際緊急援助隊の派遣が決まり(5月15日)、東京消防庁や川崎市消防局などのレスキュー隊が、懸命の救出作業を展開している。これまで私は、知人の消防関係者などから情報提供を受けながら、その活動について論文等や「直言」でも触れてきた。日本のレスキュー隊の能力はきわめて高い。以前からこれを常設の本格的な「国際救助隊」にしていくことや、災害発生後72時間が被災者にとって決定的に重要であることから、各国と事前の災害救援協定を結び、要請なしでも活動を展開できるようにすることなどを提言してきた。また、インドネシアの津波大災害の際にも同様の指摘をした。国際緊急援助隊の規模と活動態様については、これをより本格的なものにしていく必要があるだろう。なお、大災害とその救援の問題については、上記二つの直言を参照していただくことにして、今回は先週に引き続き、早稲田大学における「事件」について書き残しておく。
5月8日はドイツの敗戦63周年にあたる。この日は、早稲田大学にとって、「大学の自治」が大きく揺らいだ日として記憶されるだろう。先々週の「緊急直言」は、胡錦濤主席の早大訪問前日の5月7日に執筆し、翌日早朝にUPしたものだが、さまざまな方面で反響をよんだ。ただ、ブログなどに抜粋・引用されていくうちにニュアンスが変わり、私の述べたことがやや誇張されて一人歩きした感もないではない。とはいえ、胡錦濤講演会の問題性について、早大の学内でも、教員組合が見解を発表するなど、さまざまな立場から批判的な発言が生まれている。今回の直言では、とりあえず私が目撃した当日の風景を描写し、そこにおける問題点について、とりわけ機動隊の学内導入について述べておきたい。
その日、早稲田の杜は、朝から異様な雰囲気に包まれた。近辺に機動隊の各種車両が停車している。私は午前中から夕方まで講義やゼミのある日だったが、休憩時間や移動の合間をぬって、大学内の動きを観察し、必要に応じて携帯電話付属のカメラで撮影した。
昼前後から、大隈講堂と27号館(法科大学院)の間の広場では ※大学のキャンパスマップをリンク※ 、チベットの旗をもった人たちと、中国の国旗をもった留学生らしき人々が対峙し、時間とともに数を増していった。右翼の旗もみえ、大学外の人々がかなり集まっていることがうかがえた。機動隊が間に入るなどして、それを規制する。時間の経過とともに、両派の周囲にはたくさんの学生たちが見物に集まってきた。大隈講堂に面した27号館の教室で授業をやった同僚教授によると、その喧騒のためかなりの大声を出さなければならず、授業に支障をきたしたという。
チベット旗をもった学生らは、閉鎖された正門の柵の向こう側(大学キャンパス内)で「フリー・チベット」と叫び続けた。12時50分頃、機動隊の指揮官車(コマンドカー)が退去勧告を行う。大隈講堂周辺は騒然とした空気に包まれた。私は授業に向かうため南門方面に戻ろうとしたが、南北の門と西門以外はすべて閉鎖されていたため、大隈講堂前から大きく迂回して、北門にまわらざるを得なかった。教室に向かうとき、2号館と3号館(政経学部)の西端のラインに、ブルーの柵が設置されたのを確認し、歩きながらこれを撮影した。その後は教室で授業をしていたため、学内の動きは直接見ていない。ただ、喧騒は私の教室にも聞こえてきた。
3限の授業が14時30分に終わり、8号館(法学部)前に行ってみると、異様な光景がそこにあった。13時過ぎに目撃したブルーの柵の線まで、警視庁機動隊によって、正門のところにいた学生らが押し込められていたのだ。警察官とチベット旗をもつ学生らが長時間、大隈銅像前で対峙して、騒然とした状態が続いた。8号館と7号館を中心に、授業は喧騒のなかで行われた。教室に向かう一般の学生たちは、正門を封鎖されて迂回し、さらに南門から教室に向かおうとしたものの、この柵の周辺での騒乱に、一時的に教室へのアプローチに困難をきたした。
ほどなく胡錦濤主席らを乗せた高級車が大隈講堂に到着。その光景を、私は3・4年ゼミの最中だったので目撃していない。大隈講堂に停車している写真は、16時26分に、ゼミの休憩時間に撮影したものである。すでに講堂内では講演が始まっていた。講演とすべての行事が終了すると、17時50分頃、機動隊の車両は撤収を始めた。慌ただしい一日が終わった。この日、急な教室変更や、門の閉鎖を知らずに登校した学生など、早稲田キャンパスでの研究・教育に関わる人々の大半が、何らかの形で影響を受けた。生協の一部施設や、周辺商店(特に成文堂)が閉店を余儀なくされた。
胡錦濤講演会が、教職員や学生のまったくあずかり知らないところで決まり、実施されたことは、前回の直言で問題にした。「教職員の皆さんへ」として、「胡錦濤特別講演会実施に伴う入構制限について」というお知らせが出たのは、当日の朝7時30分だった。「本日13時から、正門・通用門・東門・第三西門の各門を封鎖し、南門・北門・西門(第二西門を含む)のみを開放します」。大隈講堂に近い門はすべて封鎖である。しかも、「入構に際しては、教職員証による本人確認を行う場合があります」という異様さ。授業期間中にここまでやったことはかつてない。「一部号館・エリアも、状況に応じて封鎖します」とも。
大学主催の重要行事ならば、事前に教務関係の会議でそのことを周知徹底して、教職員の協力を得るのが筋である。ところが、今回の講演会とその警備対策は、学部(学術院)の教務・学生担当には、まったく情報が与えられないという、驚くべき理事会主導の措置だった。「国家元首の警備のため、直前まで手の内をあかさないのは当然である」というのは警備側の事情・論理であって、大学側はギリギリまで大学としての「守るべきもの」(研究・教育)の観点からすり合わせを行うべきだった。少なくとも影響を受ける学部(学術院)の教務担当などには情報を開示して、協力をあおぐべきだったのである。
しかも、この講演会は大学の単独主催ではなかった。外務省と中華全国青年連合会、そして早稲田大学の三者の共催。「早稲田大学が」胡錦濤主席の講演会を行ったのではなく、「早稲田大学で」講演会が行われたわけである。授業期間中に、このような外部の団体に大隈講堂を提供して行った講演会により授業に著しい支障が生じたわけで、これは重大な問題である。
とりわけ私が問題にしたいのは、13時過ぎから、胡錦濤氏が早大を去るまでの間、「フリー・チベット」と叫んで抗議していた学生ら(学外者を含む)を、ブルーの柵のラインまで押し込んだ措置である。二列横隊で圧迫していく警備手法だが、これを実施したのは警視庁機動隊だった。早大対策は昔は市ヶ谷の「鬼の4機」(いまは立川市に移駐)が常連だったが、今回は「近衛の1機」(第1機動隊・北の丸公園)のようだった。国家元首クラスなので、精鋭を投入したのだろう。その一部(1個小隊〔25名〕規模?)を大隈銅像の目前まで入れる決定を、誰が、どの時点で行ったのか。柵が事前に準備されていたことなどから、胡錦濤氏の到着までに、学生らをそのラインに封じ込める戦術があらかじめ決まっていたとみていいだろう。外務省や警察の提案なのか、大学側の自主的判断なのかはわからない。ただ、チベット旗を振り、スローガンを叫ぶだけで、暴力行為の発生などの明白かつ現在の危険も存在せず、緊急の必要性もないのに、警察力を安易に学内に導入することを認めた総長の責任は重い。
この問題について、5月14日、私は学内の会議で直接、総長に質問する機会を得た。「学外者もおり、早稲田を守るためには必要だった」というのが総長の回答だった。今後もそうしていくともとれる発言だった。これには驚いた。周知のように、大学自治の歴史は、警察力導入をめぐって大きく揺れ動いてきた。その時々の大学の責任者は、悩ましい決断をすることも少なくなかった。今回の件でも、「熟慮の結果やむを得ない決断だった。理解してほしい」というような悩ましさを含んだ説明になると思っていた。たが、「早稲田を守るため」という抽象的な理由では、予防的・先制的な警察力投入の説明になっていない。
正門を閉鎖することで、チベット旗を振る学生らはそのラインで阻止されており、胡錦濤氏の警備上も問題はなかった。いな、むしろ、そうした批判的意見の存在をありのままに見せることも、大学としての一つの見識だったのではないか。しかし、正門付近にチベット旗がみえたら「みっともない」という判断が働いたようである。機動隊導入は、正門付近の抗議の学生らが胡錦濤氏の目に触れるのを避けようとした配慮によるものだろうが、さまざまな意見が存在するのが大学である。歓迎ムード一色を強引に演出するため、大学が失ったものは大きい。安易に警察力を導入して、チベット旗をみえないところまで押し込んだことの方が、大学人としての見識が問われる、それこそ「みっともない」ことではなかったか。
なお、右翼団体をはじめ学外の人々が、ネットを通じて集合場所まで指定して早稲田に集まってきた。私はネットやテレビの報道でそれを知った。チベット問題で批判の集中している人物が講演をする以上、そこにさまざまな抗議グループがやってくることは十分予想された。警備当局は当然、それをできるだけ手前で阻止する戦術をとるだろう。そもそも、チベットの「人権問題」について問題になっている以上、それに
ついての大学としての見識が求められていた。そうしたことをすべて総合的に判断すれば、この時期、このタイミングにおける学内施設を使った講演会を受け入れることに対しては慎重であるべきだった。当初講演会の開催が予定されていた別の大学はこれを断ったという報道がある。もしそれが本当だとすれば、その大学は一つの見識を示したといえるだろう。
「大学の自治の具体的内容として考慮されるべきは、大学は、警察権力による無制限な警備活動を拒否する正当な権利を有するということである。警察権力の警備活動の絶えざる監視下にある学問・教育活動は、十全の機能を発揮することはできない。大学の自治すなわち学生・教員の学問・教育活動の核心に関連を有するものである限り、大学内の秩序維持は、緊急やむをえない場合を除き、第一次的には大学の自治の下に自律的に行わなければならない。それが困難ないし不可能な場合に、大学当局の要請により、警察当局が出動する。…」(東京地裁判決1954年5月11日、判例時報26号3頁)
上記判決は最高裁により破棄され、学生らは最終的に有罪が確定した。しかし、それは最もまとまった「学問の自由」や「大学の自治」についての言及を含む判例として、今日もなお、その意義は失われていない。このポポロ事件東京地裁・高裁の判断からみえてくるのは、大学の自治と警察権力との緊張関係の歴史であり、警察権力の介入を安易に認めない大学人の強い期待である。
この観点からすれば、例えば1998年の江沢民主席の早大講演の時は、警備についても事前に学部や教務・学生担当の教員たちとの綿密な協力関係のもとに行われたのであり、今回の理事会主導のやり方とは明らかに異なっていた。総長・理事会は、大学キャンパス内への警察力の導入を含めて、まったく無定見で無責任な対応をとったといわざるを得ない。この責任は今後、明確にされる必要があるだろう。