自民党の麻生太郎幹事長は、8月4日、江田五月参議院議長と国会内で会い、就任の挨拶をした。その際、民主党が参院第1党としての自覚を持つべきだという脈絡のなかで、「かつてドイツはナチスに一回(政権を)やらせようとなって、ああいうことになった」と述べた。民主党をナチ党に例えたと受け取れるとして、「許しがたい暴言だ。撤回を求める」(鳩山由紀夫民主党幹事長)との反発が起きた。麻生氏は、審議を軽視するとナチスのような勢力が台頭しかねないという懸念から、「きちんと参院で審議をすることが大事だという話をしただけだ」と説明し、民主党とナチスを重ね合わせる意図はなかったと述べた(『山梨日日新聞』2008年8月5日付)。
この問題を、ドイツ政治史の専門家二人のコメントで構成したのが、『東京新聞』8月6日付「こちら特報部」である。望田幸男氏(同志社大名誉教授)は「国民がナチスを選んだのは、食えない民主主義か、食える独裁政権かという難しい選択に直面したから」だが、それでも「ナチスの得票率は40%程度で、阻止する可能性はなかったとはいえない」。共産党の力が増すことを恐れた保守派が、反共の防波堤としてナチスを利用しようとして、逆に利用された。「大きな経済不安と、政府のリーダーシップの弱体化。慢性的な政局不安という意味では、今の日本と社会状況が似ている。こうした事態が続けば、ナチ的な勢力の台頭を誘発しかねない」と指摘している。一方、熊野直樹氏(九州大)は、当時のドイツと日本の政治の制度も状況もまったく異なることに触れながら、「今、ドイツで、ナチのレッテルを他党にはるような発言をしたら、政治生命を失うくらいの大問題になるでしょうね。それでも、あえて口にする麻生氏の本心は…」と語っている。
ヴァイマル共和政は徹底した比例代表制で、常に連立政権だった。ドイツ社会民主党 (SPD) と中央党 (Zentrum) 、ドイツ民主党 (DDP) の連立政権で始まる。民主党は当初は75議席もっていたが、選挙のたびに議席を減らし、1932年7月選挙でドイツ国家党 (DStP) と改称したが、4議席しか得られなかった(同年11月選挙では2議席に転落)。かわって、ナチスとスターリン直系のドイツ共産党 (KPD) が議席を増やし、政治は安定しなかった。14年間に23の内閣ができて、一内閣の平均存続期間は8カ月半ともいわれた。シュライヒャー内閣に至っては8週間しかもたなかった(ちなみに、1994年の日本の羽田孜内閣は64日間)。国民は政治への不信感を高めていく。そこにナチスが付け込み、しだいに勢力を強めていった。そして、1933年1月30日、ついにヒトラーが首相(宰相)となる。だが、その政権も連立政権であったこと、1932年総選挙でナチスは議席を減らしていたことを忘れてはならない。ナチスは相対多数を占めていたにすぎなかったのである。
だから、「ナチスに一回やらせようとなって、ああいうことになった」という麻生氏の言葉は、いくつもの点で、歴史認識として怪しい。まず、多数のドイツ国民がナチスに政権を与えることを選択したわけではない。相対多数のなかで、連立の組み合わせが、ヒトラー内閣を可能にしたのである。その際、ナチスの権力獲得を阻止できたなかったのには、さまざまな要因が重なっている。共産党が「社会ファシズム論」(社民主要打撃論)をとって社民党攻撃にやっきとなり、また中間政党がヒトラーを過小評価して、ナチスとつるんだこと等々。ナチスの権力獲得は阻止できたのである。
さらに、現在、日本で民主党はナチスと最も遠いところにいる政党である。ナチスの三本柱である、強烈なイデオロギー、宣伝(プロパガンダ)、指導者への絶対服従・忠誠と中央集権的組織形態。そのいずれも、日本の民主党には縁遠いものだろう。
いつも「フフン」という発信音だけで、きちんとした言葉やメッセージを伝えられない福田康夫首相のもと、政治はますます劣化しており、国民の政治不信は極限にまで達している。既存の政党では何も変わらないという無力感のなか、「政党嫌い」はやがて、「民主主義嫌い」へと至る可能性なしとしない。その時、強烈なカリスマ性をもつ指導者がメディアやインターネットを駆使して、権力獲得を目指すということがあり得ないわけではない。麻生氏は、「自民党以外の党に政権を委ねると危ない」ということを強調するため、不用意にナチスという言葉を持ち出すことになったが、これは単なる「舌足らず」ではすまない。麻生氏の「ナチ発言」は、私のみるところ、ヴァイマル共和政におけるナチス台頭の背景や条件などについて、麻生氏が十分な知識をお持ちではないということを推知させる。確かに「民主党=ナチス」といったわけではないだろうが、ナチスを持ち出しただけで、欧米ではアウトである。あまりにも不用意といわざるを得ない。
「ナチスもよい面があった」とするドイツ人がけっこういるとの調査もあり、ナチスについての評価に「多様化」がみられるものの、それを何かとの対比に用いるだけでも、仕事や政治生命を失う場合がある。例えば、ホテルの宿帳に冗談で「アドルフ・ヒトラー」と署名しただけで、オーケストラ団員の地位を失った人がいたし、ブッシュ大統領をヒトラーと対比させたドイブラーグメリン法相(ドイツのシュレーダー政権)は辞任に追い込まれた(2002年9月)。麻生氏は、歴史認識には必ずしも鋭敏でない日本国民のおかげで助かっているともいえる。こんな人物が総理大臣にとりざたされている日本という国は何なのだろう。
政治家の歴史認識の貧困は、決して歴史の問題にとどまらない。対外政策において、重大な損失を招き得る。この国には、周辺諸国との関係で、それらの国々についてすぐれた見識と識見をもち、かつそれぞれの国のなかに多彩で深い人脈やチャンネルを有する政治家がきわめて少ない。これでは、自動車の運転技術だけ自前で勉強し、道路交通法や交通ルールについて一切学ばないで、無免許で道路を走るようなものだろう。本当に危ない。とりわけ危ない宰相、小泉純一郎元首相については、靖国参拝を過剰に目立たせる手法を、ヴァイツゼッカー元大統領の早大訪問の際、これと対比して論じたことがある(「『心に刻む』ということ」)。麻生氏の「失言」問題を横目でみながら、この小泉氏の「遍歴」をフォローしてみよう。
小泉氏はこの5月に、『音楽遍歴』(日経プレミアシリーズ)という本を出版した。ほとんど個人的体験の語りをまとめたもので、ここでコメントするまでもない。雑談シリーズ「音楽よもや話」で紹介するほどのものでもないとは思う。ただ、今回テーマの関連で、ごく簡単に触れておくことにしよう。
結論からいえば、「小泉は国家主義者ではない。国家趣味者である」と、私はかねてよりいっている。彼に政治哲学があるわけではない。音楽も趣味である。それ自体は別に彼の自由である。ヴァイオリンを自分で弾いていたことから、ヴァイオリンの曲にはこだわりがある。ポーランドのマイナーな作曲家についてうんちくをたれて、ポーランドで驚かれたことを、得々と語っている。ただ、この本には、彼が首相在任中、音楽にかかわるある動き方で気になることが二つある。
まず、オペラの殿堂バイロイト音楽祭に、ドイツのシュレーダー首相(当時)と一緒に連邦軍特別機で出かけたこと。それから、ブッシュ大統領と、エアフォースワン(大統領専用機)で、歌手エルビス・プレスリーの墓参りをしたことである。
実はシュレーダー首相は、戦後60周年を前にした2004年に、周辺国に相当に気をつかった行動をとった(「それぞれの『記念日』」)。6月6日のノルマンディー上陸作戦60周年の記念式典に、シュレーダーはドイツ首相として初参加。シラク大統領との親密ぶりを顕示するなど、「ドイツの戦後は終わった」を強くアピールした。また、8月1日の「ワルシャワ蜂起60周年」記念式典にもドイツ首相として初めて参加し、「和解と友好」を呼びかけた。さらに、8月11日、ドイツ領南西アフリカ(現在のナミビア)におけるヘレロ族とナマ族の虐殺事件100周年記念式典に、開発担当大臣を派遣した。ヴィルヘルム二世時代のドイツが、植民地のヘレロ族6万人とナマ族1万人を殺害した過去について、開発担当相は、ドイツの「道徳的責任」を認めつつ、補償のかわりに多額の開発援助の提供を申し出た。
こうやって、歴史上の記念日を上手に使って、ドイツは戦後60年の前年に、「ドイツの戦後は終わった」ことを強く印象づけることに成功したのである。その年に小泉首相がやったことは、靖国神社参拝でメディアに露出し、周辺諸国の反感をかったことくらいである。戦後60年を前にした、周辺諸国へのアピールではドイツに圧倒的に先を越されることになる。
さて、『音楽遍歴』に出てくるエピソードのうち、2002年夏にバイロイト音楽祭に行って、シュレーダー首相と「タンホイザー」を鑑賞したときのことである。2階正面のバルコニーのようなスペースで、小泉氏は聴衆の盛んな拍手にこたえて、たいそうご満悦だったようだが、シュレーダーはそこに行かなかった。ヒトラーがそこに立ったからだ。小泉氏は、「現職のドイツ首相が同じ“お立ち台”で手を振ると、ヒトラーの写真とだぶる恐れがある。『だから、シュレーダー首相はあそこへ出ない』のだろうと周囲の人は解説していた」と書き、「ヒトラーがたまたまワーグナーを好きだったから、ワーグナーが嫌いだという人々がまだいるのかと思った」(78~81頁)と述べている。ヨーロッパやイスラエルなどには、ヒトラーとワーグナーの結びつきをめぐる悩ましい問題は依然として存在する。小泉氏にかかると、それはすべて趣味の世界になってしまう。歴史認識を踏まえた政治家の言葉は、この人には無縁である。
もう一つは、2006年6月の訪米の際、エアフォースワンに乗って、歌手エルビス・プレスリーの墓参りのため、ワシントンからメンフィス(テネシー州)まで飛んだことである。当時の新聞は、「歌って踊ってエルビス気分」という見出しで、大統領とその娘の前で陽気にはしゃぐ小泉氏の姿を掲載した。『音楽遍歴』にこの写真を収録し、「エルヴィスの“聖地”で生のバンドを従えて歌うのはなかなか面白かった。結構歌えるんだな、覚えているんだなと思った。バンドも歌に合わせて演奏してくれた」と、得意気に書くあたり(119頁)、なかなかの神経の持ち主ではある。
この本の「新たな遍歴の旅へ」という節では、「総理大臣の職責から解放されて、もう数多の敵と戦う必要はない。これからは埋もれている名曲や新しい名曲を求めて遍歴の旅に出かけようと思っている」と結んでいる。いま、この国が大変なことになっているのは、小泉氏が首相のときに、長年にわたるさまざまな仕組みを「構造的に」ぶち壊したからではなかったか。田中真紀子氏は小泉氏を「変人」と例えたが、その「変人の遍歴」は、庶民の犠牲の上に成り立っているのである。
政治家の言葉が軽くなって久しい。「国会『議事』堂はどこへ行ったのか」でも触れたが、ヴァイマル共和政は、その敵(ナチスと共産党)によって滅んだだけではない。「幾百万人の無関心」によっても失敗したのである。「無関心」が民主主義にとって一番危険な要因であることは、現代の日本においても同様である。もっと人々が政治に関心をもって、歴史認識を含む政治家の言動を監視していくことが大切だろう。