「首相ポイ投げ」についてはすでに書いた。メディアは相変わらず、総裁選垂れ流し報道に終始している。もちろん、随所に批判的な論評もみられるし、番組中にも批判的コメントはある。だが、個々の候補者を取材し、報道すればするほど、自民党総裁選一色となる。これは、「ポイ投げ」のご当人の狙い通りなのかもしれない。
新総裁が決まったタイミングで衆院解散となり、「11.9総選挙」になりそうである(10月26日説もある)。「郵政民営化の国民投票」としてねじ曲げられ、ゆがめられて行われた「9.11総選挙」から3年。「11.9」とは「ベルリンの壁」崩壊の日付である。日本のよどんだ政治の壁を打ち破る日になるかどうか。
さて、今回は、首相ではなく、「人間ポイ捨て」の話である。1年半前に書いた「人間使い捨て時代を問う」のパート2をこの機会にUPする。
あの秋葉原・無差別殺傷事件から3カ月が過ぎた。「誰でもよかった」を合言葉のように、その後も同種の事件が続く。家族への、職場への、社会への、そして自分自身への苛立ちを、不特定多数の人々への殺意に変換して、かろうじて自分の存在を確認する。このような人々による犯罪は、何ともやりきれない。
この事件の背後には、「ユーザーの意向次第で職場が確保されるかどうかが決まってしまうという力関係に翻弄されて、将来の生活を展望することができなくなった労働現場の閉塞感がある」(中野麻美弁護士「派遣労働は規制すべきか」『山梨日日新聞』(共同通信配信)9月8日付「争論」)。
こうした事態を打開する目的をもって、労働者派遣事業法が改正されようとしている。1986年に制定されたこの法律は、当初は通訳やシステムエンジニアなど専門性の高い業務について、派遣先と対等に取引条件を交渉することを条件に、登録型派遣が導入されたものだった。だが、小泉内閣のときの2004年改正により、人件費削減に重点を置いた運用に法的な根拠を与えることになった。その結果、日々派遣(日雇い派遣)が急速に増えていった。そのなかには、一日の午前と午後で別の契約を結び、その数が年間400本もあるという「超細切れ派遣」もあるという(中野氏)。
人の生き甲斐、働きがいというものを過小評価して、単なる「部品」のように扱うことで経費を削減し、グローバルな競争に対応しようという安易で簡易なやり方こそ、社会を根っこから腐らせていく要因となる。事件後の、とりわけ若者たちの反応のなかに、通常ならば「そんな奴、死刑!」というトーンで一面化されるところ、ややためらいや陰りがみられるのは偶然ではないだろう。そこで、事件の約1月後に書いた連載原稿を下記に転載することにしよう。
「報われない努力は、人の心を蝕みます」
◆「アキバ事件」の闇
6月8日(日曜)昼、秋葉原の歩行者天国で起きた無差別大量殺傷事件。容疑者(25歳)は派遣社員で、「携帯の請求書がまだきません。勝手に止められたら発狂します」というほどの携帯依存症だった。絶えず携帯電話の画面を見つめ、指を動かしていたという。この事件は携帯電話(メール)なくしては語れない。
「犯罪そのものは許されないが、気持ちはわかる」。事件直後からの新聞投書やネット書き込みは、いつもと雰囲気が違っていた。「フリーター・派遣社員の緊急座談会」(『週刊朝日』6月27日号)では、容疑者への怒りよりも、「共感」に近い発言がみられた。凶悪犯罪が起こると、ネットは「この男を死刑に」という方向で沸騰するのが常だが、これはどうしたことか。やりきれないのは、この男の、あまりにも寒々とした心の闇である(『アエラ』6月23日号、『東京新聞』6月17日付の書き込み全文)。
「報われない努力は、人の心を蝕みます」。これは、彼が2月27日に書き込んだ言葉である。異動先の職場で、「お前は捨て駒にされたんだよ、ギャハハ」といわれ、その直後に「誰でもいいから殺したい気分です」と書いている(4月14日)。でも、まだ単なる「捨てぜりふ」の段階である。
「私はここに書き込みをしてくれるみなさんのおかげで助かっています」(5月14日)。レスする人々に愚痴をこぼし、甘え、駄々をこねている。ここでとどまっていたら、凄惨な犯罪には発展しなかったかもしれない。
「勝ち組はみんな死んでしまえ。そしたら、日本には俺しか残らないか。あはは」「『いつかやると思っていた』 そんなコメントする奴いたら、そいつは理解者だったかもしれない」(6月4日)。このあたりから、「危険水域」に入っていく。
「日に日に人が減っている気がする」「大規模なリストラだし当たり前か」「作業場に行ったらツナギが無かった。辞めろってか。わかったよ」「ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったり。やっぱり人って大事だと思う」「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし。難しいね」「『誰でもよかった』 なんかわかる気がする」(6月5日)。この日に職場で起きた「ツナギ事件」が起爆剤になったようだ。リストラ近しの空気がさらなる絶望感をあおる。
「一つだけじゃない。いろいろな要素が積み重なって、自信がなくなる」「やりたいこと…殺人、夢…ワイドショー独占」「ナイフを5本買って来ました」(6月6日)。冷静に自己分析をするようにも見える。だが、その一方で殺人のための凶器を準備している。
「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います。みんなさようなら」「全員一斉送信メールをくれる。そのメンバーの中にまだ入っていることが、少し嬉しかった」「秋葉原ついた。今日は行者天国の日だよね?」「時間です」(6月8日)。わずか数日で、惨劇に向かって突進していく。これだけの負のエネルギーを供給したものは何なのか。
◆非正規雇用の拡大
この25歳は、派遣会社の日研総業から関東自動車工業(トヨタ系列)に派遣されていた。日研総業は、違法派遣などでいわく付きの企業である。「フルキャスト」や「グッドウィル」といった人材派遣業は、小泉時代は大いに脚光をあびた。社長のマスコミ露出度も高かった。だが、数々の違法・脱法行為の連鎖より、あるいは業務停止命令を受け、あるいは廃業に追い込まれた。この人材派遣業の盛衰は、雇用分野における安易で簡易な規制緩和の結果である。
きっかけは、1986年7月の「労働者派遣法」施行である。不足人材の迅速調達や、特定のスキルをもった即戦力人材の確保、コスト削減効果を狙ったが、結局、コスト削減が一人歩きしていく。99年の法改正で派遣が原則自由化。03年改正では製造業にも拡大され、派遣は雇用の世界に無原則に広がっていった。これについては、この連載でも触れた(拙稿「『ハケンの品格』考」本誌533号〔2007年5月〕参照)。
この間の「新自由主義改革」の波は、社会の隅々まで浸透・浸潤し、国民生活に破壊的な作用を及ぼしている。雇用分野の規制緩和は、非正規雇用を37.6%(総務省2006年統計調査)にまで押し上げた。非正規雇用は、短期性(労働力の切り売り)、間接・補助性(やりがいを削ぐ)、有期性(明日が不安)などの特徴をもつ。先が見えないまま、ゆとりなく、追い立てられるように働かされる。「アキバの彼」と自分との距離は紙一重という若者がいるのも、こうした状況と無縁ではないだろう。社会は異様な不安定感におおわれている。「働けど働けど猶わが暮らし楽にならざり、ぢっと手をみる」の状況である。石川啄木が生きていたら何といっただろうか。
いま、政府は、労働者派遣法のさらなる改正で、今度は規制強化の方向に舵をきろうとしている。この右往左往は、建築基準法やタクシー参入規制の分野と同様、「小泉構造改革」に関連する諸政策の場当たり的修正を余儀なくされていることを示している。ならば、この機会に、非正規雇用者に対する権利保護を格段に高める必要があるだろう。そのためには、少なくとも登録型派遣(「スポット派遣」)の禁止が不可欠である。雇用分野における「無政府状態」からの脱却が求められる所以である。その際、改めて注目されるのが日本国憲法27条である。
◆「勤労の権利」の現代的意義
27条1項には、個人の「働く」という側面に着目して、「勤労の権利」(right to work)が定められている。「働く」権利は、その自由権的側面については職業選択の自由(22条1項)で保障されている。したがって、27条では、社会権的側面が重要といえる。具体的には、労働の機会(就労)を求める権利である。この権利は、正当な理由のない解雇を制限する効果をもつという説、これに失業給付を求める失業者の権利、さらに、職業紹介や職業訓練まで権利内容に含むという説もある。
2項で賃金などの勤労条件法定主義をとっていることから、具体的内容は立法に委ねられる面があることは否定できないが、1項の「勤労の権利」は、立法裁量を羈束する内容を含むと解される。2項で特に挙げられた賃金、就業時間、休息については、歴史的にも、低賃金と長時間労働、休息なしが労働条件悪化の最大のものであり、憲法はこれを挙示して注意を喚起したものといえる。それだけ拘束力は強い。
憲法27条に基づき、労働基準法(1947年)が制定された。労働条件は「人たるに値する生活を営む」ものであること(同法1条)、均等待遇(3条)、中間搾取の禁止(6条)などが定められた。労基法は、雇用分野における憲法付属法といっていい。長年にわたり、労基法の限定的・流動的位置づけは進んだが、もう一度、この法律の原点を想起し、雇用・労働分野の「常識」を回復させていく粘り強い努力が求められているのである。
(2008年7月20日脱稿)
〔「水島朝穂の同時代を診る」連載第44回
国公労連「調査時報」549号(2007年9月号)所収〕