雑談(69) 音楽よもやま話(11) 「おくりびと」と「交響曲第0番」  2008年10月6日

内外の政治や経済・金融で重大問題が起きた週だが、今回は「雑談」シリーズの「音楽よもやま話」である。「元旦と“運命”」を書いてから8カ月になる。早いものである。
   先日、感動的な映画とコンサートを続けて体験した。多忙な日々のなか、心から癒される時間を得ることができた。映画は「おくりびと」。コンサートの方は、ポーランドのスタニスラフ・スクロヴァチェフスキー指揮・読売日本交響楽団のコンサート。曲目はブルックナーの交響曲第0番ニ短調である。「0番」というのは大変地味で、クラシックファンのなかでも、かなりマイナーである。正直、それぞれについて、さほど期待しないで臨んだ。しかし、両方ともに深い感動を与えられ、とても豊かな気持ちになった。映画では、滅多に緩まない私の涙腺が開放モードになり、これは自分でも意外だった。

  映画館から帰って、すぐに「おくりびと」原作、コミック(さそうあきら、ビックコミックスペシャル)、サウンドトラック版CD、青木新門『納棺夫日記』(増補改訂版、文春文庫)をネット書店に注文して、翌日届いたCDを聞きながら、原作などを読んだ。ここまでやったのは、最近では、『善き人のためのソナタ』(第79回アカデミー外国語映画賞を受賞)以外にはない。この作品も、シナリオ(Das Leben der anderen : Filmbuch von F. H. von Donnersmarck, Suhrkamp 2007) とDVDを取り寄せて、何度も観た。(以下、ネタバレで失礼)あるセリフ“Geschenkverpackung?” ”Nein...es ist für mich”では、毎回涙が溢れる。


   さて、「おくりびと」だが、これはある職業がテーマになっている。弁護士、税理士、司法書士という「士」(さむらい)業と並んで、医師、獣医師、美容師、理髪師といった「師」業がある。「納棺師」もその一つ。葬儀のときに、遺体を清め、お棺に納めるまでを執り行う。これまで「葬儀屋」と理解していたが、納棺師の仕事内容の豊かさ、深さを、この作品で初めて知った。「人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと」。地味で普遍的なテーマだが、なかなかむずかしいテーマである。

  だからこそ、主演・本木雅弘の自然でリアルな演技がすばらしい。オーケストラのチェロ奏者だが、楽団解散で失業。故郷の山形に戻って求職活動をする。新聞広告にあった「旅のお手伝い」を旅行会社と勘違いして応募。「安らかな旅立ちのお手伝い」であることを知って愕然となるも、社長(山崎努)の迫力に押されて、「仕事」を始めてしまう。さまざまな遺体と、それを見守るさまざまな家族。納棺の場面を淡々と見せていくなかで、主人公が納棺のプロに成長していく姿を、際どい「笑い」と涙のなかで描いていく。重厚な脇役陣、なかでもベテラン山崎努の演技には舌をまいた。余貴美子、山田辰夫、吉行和子、笹野高史が、それぞれ適材適所で、実にいい味を出している。笹野は、「武士の一分」(山田洋次監督、2006年)以来だが、独特の存在感と言葉の重さに改めてファンになった。なお、主人公の妻役は、コミック原作では、ピアノ教室をやる、奥ゆかしさと突き抜けた明るさをもつ女性として描かれているので、適役は他にいたと思うのだが、軽く薄い演技が、重厚な脇役陣との関係でバランスよくおさまっていたといえなくもない。

  「音楽よもやま話」のシリーズなので、映画そのものについては簡単にすませる(といっても、長くなりそう)。
   まず、この作品を観て、伊丹十三監督作品「お葬式」(1984年)を想起した。「悲しい」はずの葬儀を、笑いとユーモア溢れたものに描く際どい手法が評価された(第8回日本アカデミー賞の最優秀作品賞受賞)。「お葬式」の主役は山崎努だった。
   4分の1世紀後に、再び、葬儀の場面を対象にしたのだが、今回は葬儀一般ではなく、それを執り行う納棺師に特化している。そこにも笑いの要素は入るが、映画「お葬式」よりも抑制されている。全体として、ゆったりとした時間のなかで、「死」と向き合う人々の舞台としての葬儀と納棺師の所作を描く。それは死者のために行うようにみえて、実はそれと向き合う家族や親しい人々のために行っている。死後硬直した顔を両手で整えるという「作業」なのだが、顔をやさしく包み、いとおしむようも見える。体を清める所作も、細部に至るまで、残された者への優しさと配慮に満ちている。そして、死に化粧。遺体(物体)が生きているような安らかな表情となる。葬儀とは、あくまでも死者のために行う形をとりながら、実は生き残ったものがその死を心のなかで受け止める一過程でもある。「死者の尊厳」とは、死者を通じての、生者の「個人の尊厳」を確保することなのかもしれない。

  私の人生のなかでは、形だけの読経や、葬儀屋の心ない仕種などがネガティヴに沈殿していた。「式」が嫌いで、「葬式をするな」という父の「遺言」を守ろうとしたが、その後、「式」の意味と意義を感じるようになった。この映画をみて、改めて「形式」「様式」の大切さを思った。本木雅弘は、納棺師の様式美を見事に演じきった。エンドロールでは、本木がワンカットで納棺の儀式を完璧にこなす。早く席を立った人は後悔するほどである。改めてすごい役者だと認識した。

  そして、「食」へのこだわりも。フグの白子、鳥鍋、フライドチキン、干し柿、そして蛸。「生」(「食」)と「死」とは、「困ったことに」紙一重で、密接な関係にある。それを、不快感や違和感を抱くスレスレのところで生々しく描く。人は生と死の絡み合いのなかで生きているということだろう。
   それと、納棺師を過剰に蔑視・差別する言動が出てくる。やや不自然な箇所もないではないが、それぞれに主人公は傷つく。しかし、周囲の目は次第に変わっていく。それは、主人公の納棺の所作の「美しさ」にある。
   なお、原作『納棺夫日記』には、「仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らには致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである。…嫌な仕事だが金になるから、という発想が原点にあるかぎり、どのような仕事であれ世間から軽蔑され続ける」という下りがある。そして、「服装を整え、礼儀礼節にも心がけ、自信をもって堂々と真摯な態度で納棺をするように努めた」ところ、「途端に周囲の見方が変わってきた」とある(同書32~33頁)。「おくりびと」でも、このあたりの事情が丁寧に描かれている。

  人は死ぬときは一人である。送りだす家族や親しい人々の「手伝い」をする「おくりびと」。最終的にこの映画は一人でみるのがいい、というのが私の持論である。終わってから、「よかったね」と語り合うような映画ではない。一人静かに余韻をかみしめたい作品である(涙目の顔を見られたくないというのが本音)。個人の尊重、「故人となる個人の尊厳」をじっくり考える作品である。
   ゼミのコンパのときに、学生たちに「ぜひ一人で観てほしい」と、強く勧めた。パソコンや携帯に感想メールが届くようになった。映画館を出てすぐに、長~い携帯メールを送ってきた学生。じっくり時間をかけて、パソコンから長文のメールをくれる学生など、さまざまである。観客の平均年齢はかなり高いというが、若者たちにもこの作品は受け入れられると思う。


   さて、この作品がゆったりとした気分で観られるのは、庄内平野の自然と風景もさることながら、音楽のおかげだろう。ここからが「音楽よもやま話」である。

  久石譲の音楽は、チェロ13本を使ったメインの曲を実に効果的に使っている。NHK交響楽団や東京都交響楽団の首席チェロ奏者を集めて録音したので、当日はほとんどのオーケストラの首席チェリストが不在となるため、コンサート開催が不可能になるとさえいわれた。それだけ、映画全体に流れるチェロの曲は心に残る。
   「おくりびと」オリジナル・サウンドトラック版には19曲が収められている。映画のシーンが鮮明に思い出されるものから、「こんな曲、あったっけ?」というものまで含まれている。映像に釘付けで、音楽を意識しなかったからかもしれない。ただ、人の声が、独唱、斉唱、混声合唱とでそれぞれ違うように、私の美学からすると、13本のチェロのいわば斉唱は、ときに強すぎるときがあった。ピアノを絡ませ、オーケストラまで入れると、ちょっとやりすぎというところもないではない。もう少し音楽を抑制した方がかえって効果的になったであろうと思われるシーンもある。とはいえ、全体として、久石譲の音楽はテーマと役者たちの演技とうまく絡み合って、作品の格調の高さを支えていた。

  それにしても、本木雅弘がチェロを弾くシーンには驚いた。納棺師の所作とともに、チェロについても相当に練習を重ねたようである。なお、子ども時代に使ったチェロの扱い方で、映画と原作コミックとでは異なっていた。古い、子ども用チェロが、あのような深い音を出すのかと疑問に思うのは野暮というものだろう。

  映画を観た翌日、読売日本交響楽団の演奏会に行った。指揮者はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキー。今年85歳の現役である。私は、ブルックナーの演奏は高齢指揮者にこだわってきた。10年前、大阪まで新幹線で聴きにいったこともある。いまは、みんな死んでしまった。5年前から、スクロヴァチェフスキーに凝っている。彼のブルックナー交響曲全集も揃え、コンサートはほとんど行くことにしている。このチケットも、ブルックナーの「0番」という珍しさもあって、来年3月のブルックナー第1番ハ短調のコンサートとともに、随分前にネットで確保しておいたものである。まさか、「おくりびと」の直後に聴くことになるとは想像もしていなかった。

  ブルックナーは第1から第9まで交響曲があり、そのほかに番外のものがいくつかある。この第0番ニ短調(WAB100、1869年原典版)は、最初の「交響曲ヘ短調」に続いて取り組んだものといわれ、第1番ハ短調を書き上げたあとに、再び作りなおした。ただ、第1楽章をウィーンフィルに試演させたところ、「いったい第1主題はどこにあるのか」と指揮者にいわれてひどく落胆し、この曲を「番外」としてしまったという。当初は「第2番」となっていたものを「第0番(Nullte)」と書き換えたともいわれている。「0番」というのは文字通り「零点」「失格」「無効」を意味する。ブルックナーの精神状態がよくなかったといわれる時期だけに、絶望して付けられた番号といえるだろう。

  この曲の日本初演は1978年、朝比奈隆・大阪フィルである。私は生では聴いたことがなく、レコードやCDでは、朝比奈、ゲオルク・ショルティなどで聴いたにとどまる。5年前にスクロヴァチェフスキーの全集を買ってからは、かなりの頻度でこの曲を聴いてきた。頭のなかでは、この演奏が「定番」になっていた。
   先日、それを生で聴いたわけである。私にとって、発見につぐ発見だった。「0番って、こんなに豊かな曲だったのか」という驚きと発見の連続だった。このマイナーな曲で、涙が滲んできたから不思議である。読売日本交響楽団も熱演だった。

  第1楽章。第3番ニ短調のようなトレモロ音型で始まる。3番ほどの明確な主題提示がないため誤解をよんだのだろうが、透明感あふれる叙情的な響きも含む。第2楽章のアンダンテは、心を揺さぶる、二つの主題が対比的に響いて、実に効果的である。第3楽章の発見はトリオである。0番のトリオがこんなに豊かなものだったと、初めて気づいた。第4楽章はコラール風の導入から、説得力ある構成で、最後まで息をのんで聴いていた。
   通常、オーケストラの低音部(チェロ、コントラバス)を右側に配置して、高音と低音をくっきり描き分けるところ、スクロヴァチェフスキーはビオラをチェロの位置に置き、あえて中音部を引き出して、この曲のふくらみと広がりを鮮明にしていた。だから、従来、金管の彷徨のなかで聴こえにくかったさまざまな音が聴こえてきた。彼の特徴は全体の構造美を力強く押し出すよりも、曖昧模糊とした部分を素直にみせて、人間ブルックナーを感じさせる。0番がこんなに豊かに、こんなに深いものだということを発見できただけでも収穫だった。

  ところで、この0番の演奏時間はスクロヴァチェフスキーのCDでは44分54秒である。ブルックナーの交響曲が長大で、8番のように80分以上かかるものもあり、それらと比べれば、かなり短い。この日のプログラムは、何とブラームスのピアノ協奏曲第1番ニ短調という重厚な曲との組み合わせだった。かつて後期ロマン派のなかで、ブラームス派とブルックナー派に対立したこともあり、いまも好みが分かれる。それをBBで二つ組み合わせるのは大変珍しい。しかも、ブラームスの方が50分、ブルックナーが43分とプログラムに予定時間が書かれていたので、前に長い曲を持ってくるのも私は体験したことがない。ブラームスはジョン・キムラ・パーカーというピアニストで、なかなか立派な演奏だった。でも、多くの人のお目当ては0番だったので、コンサートも後半が始まる前には、緊張感が増してきた。演奏は、前述のように期待以上のものだった。

  「おくりびと」と「交響曲第0番」。何の関係もないようにみえて、実はまったく関係がない。私がたまたま二つをほぼ同時に体験しただけの話である。でも、「おくりびと」とスクロヴァチェフスキーの0番の組み合わせは、私の心のなかでは共鳴しあっている。

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