11月4日の米合衆国大統領選挙において、バラク・フセイン・オバマ上院議員の当選が決まった。父親がケニア生まれのイスラム教徒で、幼少期の4年間をインドネシア(イスラム教徒が世界一多い国)で暮らした、ハワイ生まれのアフリカ系米国人の人権派弁護士で、シカゴ大学ロースクール講師として憲法を講義した人物が、合衆国第44代大統領になる。弱者や少数者への目配りを巧みに織り込んだ、心に響く言葉と、メリハリのきいたリズム感の演説に、人々がそれぞれの思いを勝手に重ねる。ケネディ以来、久々に言葉を駆使できる大統領の登場である。この点では、ブッシュや日本の首相たちとの差は、際立って大きい。米国の今後の政策には、ブッシュ政権の失敗を受けて、さまざまな修正や変化が伴うだろう。だが、楽観は許されない。大統領になるということは、核ミサイルのボタンを押す権限を含めて、最高の権力をもつことである。任期を全うできるかどうかを含めて、まったく未知数である。自衛隊の国際政治的利用の仕方、特にアフガン陸自派遣については、より洗練された論理と手法で迫ってくるだろう。日本の国際協調主義や国際協力に関するより根本的な議論が求められる所以である。いずれにしても、米国とそれをとりまく関係が大きく変化することは間違いない。今後、この直言でも、具体的な問題やテーマに応じて論じていくことになるだろう。
さて、このように、歴史は11月に動くことが多い。昨日は“11.9”「ベルリンの壁」崩壊19周年の日だった。1961年8月13日に旧東独社会主義政権が建設を始めてから崩壊するまで、10316日間。「壁」は、旧東独の人々の居住・移転、外国旅行の自由を抑圧し、東西の人々を引き裂く「冷戦の象徴」であった。これが19年前の昨日の夜遅く、ボルンホルマー通り検問所の開放を皮切りに崩壊を始めたのである。“11.9”から世界の歴史が大きく動き出した。
ドイツ史において、“11.9”は重要な日が多い。1918年にはドイツ革命で帝政が倒され、ヴァイマル共和制が発足した日だし、1923年にはヒトラーがミュンヘン一揆を起こした。10年後のヒトラー権力掌握に向けた「最初の一突き」の日である。
ただ、ドイツの学校で“11.9”といえば、1938年11月9日のことを意味した。この日の夜から翌日未明にかけて、ナチ党員や突撃隊(SA)などがドイツ全土で、ユダヤ人住宅、商店、シナゴーグ(ユダヤ教の宗教施設)を襲撃。少なくとも1300人のユダヤ人が殺され、全シナゴーグの半数以上(約1400)が焼き討ちで破壊された。砕け散ったガラスが月明かりに光って、水晶のように見えたところから、「(帝国)水晶の夜」(Reichskristallnacht)と呼ばれる。だから、1989年までは、“11.9”といえば、学校では、「水晶の夜」(「ポグロム」)について授業で取り上げられ、ナチスの行為に対する反省の日として想起されるのが一般的だった。
1990年以降は様子が変わる。「ベルリンの壁崩壊から○年」が圧倒的に多くなった。「その日」に生まれた人々が20歳に近づいていることは、「壁」は過去の出来事になったことを意味するだろうか。私は「壁」崩壊10周年のとき、滞在中のドイツで2回にわたって書いたことがある。「壁とともに去らぬ」でも触れたように、その「傷口」は未だに癒えていない。「壁」がもたらしたもの、「壁」によって失われたものの回復は続いており、「壁」は過去完了では語れない。
旧東ドイツの市民運動の側にいた作家Jens Reichは、昨年、彼の非常に個人的な総括を発表し、「壁は社会主義の終わりの始まりだった」と述べている(Die Welt vom 10.8.2007)。旧東の人々はいま、「壁が崩れたとき、君はどこにいたのか」という問いかけから、「壁」崩壊の「大きな物語」が、各個人の「小さな物語」と交差して語られている。その後の複雑な状況は、「壁よ、もう一度」という屈折した議論から、「旧東独市民革命の挫折」を含めて、さまざまなに語られるようになり興味深い(Wir waren dabei. Mehr nicht, in: die taz vom 27.9.2008)。
ドイツだけではない。1989年“11.9”でフランシス・フクヤマ(ジョンズ・ホプキンズ大学教授)は「歴史の終わり」を語り、まさに米国資本主義の一極世界が完全勝利したかに見えた。だが、そのフクヤマも、イラク戦争の頃から「アメリカの終わり」を語り始め、ブッシュ政権と距離をとるようになる。2008年“9.15”(米証券会社リーマン・ブラザースの経営破綻)で、世界的な金融危機が始まると、フクヤマは「アメリカ株式会社の没落」を書き、レーガン主義との決別を訴えた(『ニューズウィーク日本版』2008年10月29日号参照)。
“11.9”により米国モデルの資本主義が勝利したように見えたが、実は冷戦の両当事者が時間差で、双方とも「破れていた」のではないか。その後の新自由主義の暴走は、資本主義の傷をさらに大きくした。いま、オバマ政権の誕生で、1989年“11.9”が再び問われてきているように思う。現象的にみれば、ドイツでは各地で左派党(Die Linke) が選挙で躍進している。「壁」崩壊後の「格差社会」展開への反発があるものの、しかし、これは社会主義の復権を意味しない。
“11.9”をめぐって、実はさまざまな「ねじれ」も生まれている。英米空軍によって3 万5000人の犠牲者を出したドレスデン空襲(1945年2月13~14日)60周年をめぐって、さまざまな「ねじれた議論」が生まれたことは、すでに書いた。極右・ネオナチが、米国による「爆弾ホロコースト」というスローガンを掲げた。旧東独社会主義政権は、聖母教会を、「ナチスと米英帝国主義による破壊の象徴」としたが、極右は、もっぱら米英に矛先を向けた。「反米」という点では、旧東独社会主義と、極右の主張は響き合った。また、ベルリンの「ホロコースト記念碑」をめぐる議論でも、複雑な感情が生まれたことは、「ベルリンの壁から『ベルリンの石碑』へ」で触れた通りである。慰霊の対象を「欧州ユダヤ人」に限定した記念碑の建設は、ナチスが、いわゆるジプシーや、同性愛者、障害者も殺戮していたので、その犠牲者も含めてほしいという声を押し退けて行われた。ドイツ戦後史の「ユダヤ人」問題は、そのままイスラエルとの複雑な関係に影を落とす。イスラエルが中東で暴虐を尽くすことに対して、ドイツが腰を引いてしまう背景には、「ホロコースト」への負い目があるとされている。
昨日の“11.9”は、1938年から「70周年」ということで、ドイツ連邦議会でも特別決議が準備された。この「反セム主義」反対の決議に際しては、例年にない「ねじれ」がみられた。10月末の段階で、保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU) がこの決議に抵抗した。「黒」(保守党)が「赤」(左派党)にみえると皮肉られた。ユダヤ人中央評議会も保守与党に対して、「すこぶる不幸」と批判した(J. Schindler, Schwarz sieht rot: Antisemitismus, in: Frankfurter Rundschau vom 31.10.2008) 。CDU/CSU は、左派党がイスラエルを「国家テロリズム」と非難し、過激なパレスチナ組織の側にいるので、同党との共同決議には賛成できないという趣旨である。
11月4日になり、左派党が単独で決議を出すことになり、連立与党すべてと、左派党以外の野党が一致して決議を挙げ、左派党はこれに参加せず、同文の決議を議事録に残すことを求めた。
11月4日の連邦議会議事録には、16/10775と16/10776という2つの決議が掲載されている。「反セム主義とのたたかいを強化し、ドイツにおけるユダヤ人の生活を促進する決議」という、タイトルも内容も同じ決議である。「イスラエルとの連帯は、ドイツの国是(Staatsräson)の、放棄し得ない一部である」という文章は、左派党の決議にもある。反セム主義の新しい形態として、イラン大統領の発言を引用しつつ、イスラム的反セム主義がグローバルな危険となっていることを指摘する。そして、ドイツにおけるユダヤ人の生活を一層支援し、保護するため、決議は政府に対して、次の5つの点を求めている。すなわち、(1)学者や実務家からなる専門機関に、定期的にドイツにおける反セム主義についての報告を行い、それといかに対処するかの勧告をすることを委任することや、(2)連邦財政でユダヤ的な学問、文化、社会施設の建設や補助をすること、(3)ユダヤの生活やユダヤの歴史、今日のイスラエルについて教える科目を学校で増やすこと、(4)反セム主義に対する既存の連邦プログラムが反セム主義犯罪の犠牲者の保護に十分配慮されたものかどうかなどを検討すること、(5)第三国サイトを経由して、反イスラエルや反セム的なプロハガンダが広まるのを終わらせるようにもっと努力することなどである。
このように、ナチスの暴虐に反対する場合にも、イスラエルに対する評価が絡んでくる。1938年“11.9”から70年たっても、イスラエルという特定の国に対して、ドイツがここまで気をつかうことに痛々しさすら感ずる。この複雑さや悩ましさは、反セム主義の理解にも関係する。反セム主義に反対するという場合、反セム主義とは何かが問題となる。反セム主義=反ユダヤ主義ではない。ナチズムの反セム主義、急進的な人種差別主義は、「近代の氷点下で育まれた野蛮の種子」とされる(谷喬夫『現代ドイツの政治思想―ナチズムの影』〔新評論〕)。「反セム主義は近代の氷点であった」。それは、反ユダヤ教主義ではなく、思想史的には、反セム主義の成立は、人種差別主義と社会ダーウィニズムの形成と関係している。「人種理論や社会生物学で武装した近代的な反ユダヤ主義」としての反セム主義は形成されたとされる。連邦議会の「反セム主義決議」は、決してイスラエルの対外政策をすべて肯定することではない。いまのイスラエルの暴虐への反発から、ヒトラーのユダヤ人迫害を肯定することに飛躍する傾きが世界にみられるなかで、この決議は国際人権の具体化に向けたドイツ的道といえなくもない。しかし、イスラエルやユダヤ人にことさら特別の配慮を求められるドイツの場合、これらの施策がどこまでバランスがとれているか、疑問なしとしない。
そこで思い出すのは、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領の有名な演説にある言葉である。「問題は、過去を克服することではない。そんなことはできるわけがない。後に過去を変更したり、あるいは起こらなかったことにすることはできない。だが、過去に目を閉ざす者は結局、現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのだ…」。過去を単に想起するだけでは足りない。それをいまにいかに活かすか。“11.9”を契機に、過去と「いま」の不断の関係性への深い思考が求められる所以である。