危ない空気が漂ってきた  2008年11月24日

※追記
本稿を脱稿したのは、11月22日[土曜]17時である。その後、事態は急展開したが、それは叙述に反映されていないことをお断りしておきたい。

Yという言葉がある。「空気が読めない」。いやな言葉である。だが、いまの日本の首相については、「漢字が読めない」と読み替えられているようだ。それはともかくとして、「空震」(いまふうにいえばKSか)という言葉がある。「シニカル理性批判」で知られるドイツの哲学者ペーター・スローターダイク著『空震 ― テロの源泉にて』(仲正昌樹訳、御茶の水書房)の視点である。2 年前、『北海道新聞』文化部の連載企画「自由からの逃走2006年夏」の拙稿で、これを紹介したことがある。テロリズムの本質として、人々を取り巻く「雰囲気」を恐怖で満たすという面がある。「空気」を震わせるという含意で、テロは「空震」と呼ばれるわけである。

  11月18日、2人の元厚生事務次官宅が何者かに襲われ、元次官とその妻が殺害され、もう1人の元次官の妻が瀕死の重傷を負った。翌19日付各紙のうち、『読売新聞』だけは「連続テロ」と一面トップで断定的見出しを打った。総合面では「官僚機構へのテロ」と生々しい。他紙の一面トップ見出しは「連続テロか」と「か」を付け(『朝日新聞』『東京新聞』)、あるいは「連続襲撃」(『毎日新聞』)と一歩引いた表現をした。動機は何か。「天誅テロ」と評される右翼(個人または団体)によるアクションか、それとも単なる世間お騒がせ犯なのか。あるいは、「テロ」を偽装した歪んだ内部対立のあらわれか。本稿を執筆している22日現在、事件解明につながる情報は、少なくともメディアを通じては明らかにされていない。いかなる理由があろうとも、人の命を奪ったり、暴力を手段に用いることは許されない。その上で、簡単に「テロ」と決めつけてしまわない冷静さが求められる。

  この事件により、厚生労働省の次官経験者や、各省庁の幹部クラスに対する警備が強化された。襲われた2人の元次官が、1985年「年金改革」当時の実務責任者(年金局長と年金課長)であったことから、「年金テロ」という表現もなされた(最初は『毎日新聞』19日付第1社会面トップ見出し)。2人は、85年当時40歳の世代から、年金受給額をそれ以前の世代の7割にまで段階的に削減する方針を決めた「年金減額の功労者」であり、また、年金財源をグリーンピアなどの「究極の無駄遣い」で食いつぶした責任を追及されている。また、独立行政法人の理事長などに天下っている。多方面から深い恨みをかう可能性は十分ある。当時の厚生大臣は小泉純一郎氏である。旧厚生省、厚生労働省の元次官、元社保庁長官、元次長など、関わった幹部の範囲は広い。

  テロは不特定多数の人間を対象とするところが、個人を狙った暗殺と異なる。年金に関わる幹部が、現職・OBを問わず、すべて対象となると受けとめ、恐怖に包まれている。まさに「空震」である。政策や制度の立案に関わった実務者を意識的に狙う手法は、戦後の犯罪史にはなかったと思う。歴史のアナロジーには慎重であるべきだが、それにしても76年前を想起してしまう。そんな、いやな空気が漂ってきた。

   1932年2月から3月にかけて、政治家や財界人に対する連続テロ事件が起きた。日蓮宗僧侶・井上日召が、1928年から茨城県磯浜町(現在の大洗町)の立正護国堂にこもり、同町周辺の教員や農村青年に彼の思想を吹き込んで組織した「血盟団」によるものである。海軍の一部将校とも連携。「一人一殺」を唱え、前蔵相の井上準之助や、三井財閥の団琢磨を射殺した。井上前蔵相は金解禁政策をとり、大恐慌に巻き込まれた失策を問題にされた。団琢磨は、金融恐慌のときにドル買い占めをやったことが非難された。井上日召は、政・財界の大物20人のリストを作り、それぞれ担当者を決め、海軍将校から入手した拳銃を手渡した。捜査の手がのび、井上は自首。14人のメンバーが逮捕された。公判廷で井上は、「支配階級の主立った者を出来る限り倒す。…五人倒せば我々も倒れるかも知れぬけれども、支配階級としては大恐慌だ。…何とかして上の方の支配階級の者自身がそれを弥縫するとか何とかする為に協議をすることになって、其処で改造の第一歩に入るだらうと云ふことを考えました」と述べた(江口圭一『十五年戦争の開幕』小学館)。政・財界の要人を何人か殺せば、国家改造につながるだろうという安易な発想。やがて軍が立ち上がる。自分はその先駆けとなるのだという奢りと思い込み。実際、2 カ月後には、海軍の将校が犬養毅首相を殺害する「5.15事件」が起きている。

  1929年大恐慌で、巷に失業者があふれた。農村は疲弊し、娘が身売りされる悲劇も起きていた。そうした状況に危機感をもち、「強欲資本主義」の財閥トップや、私利私欲を貪る政治家たちへの怒りを暴力によってあらわす。歪んだ「国家改造」への情念が、「一人一殺」という手法と結びついた。殺された財界人や政治家の数は多くなくとも、その「空震」力はすさまじかった。そして、より巨大な事件へと発展していく。「2.26事件」である。

  研究室には、「2.26事件」の号外がある。この事件のあと、政界再編が行われ、政党は解散し、大政翼賛会が誕生した。「翼賛選挙」を実施する実行部隊は「翼賛政治協議会」(翼協)である。その会長はアベ元首相だった(阿部信行内閣の在任期間も130日あまり)。

  いま、政治は機能不全に陥っている。「失言製造装置」と化した麻生首相のもとで、閣僚はバラバラ、内閣はまともに機能していない。「朝令昼改」で迷走している。国会も中途半端な状態にあり、まともな審議が出来ていない。いま、小泉「構造改革」の壮大なるツケが、あらゆる分野で吹き出し、そう簡単には収拾がつかなくなっている。

  非正規雇用者は全体の3割を超えた。「人間使い捨て時代」。やり場のない怒りを無差別殺人につなげるような事件も続いた。また、「後期高齢者医療制度の作られ方」でも書いたが、国民に負担を求める制度変更が、実施段階で大きな反発を招いている。政治家も官僚も彌縫策で乗り切ろうとするが、かえって混乱を招いている。年金問題についても、「5000万件の消えた年金」、標準報酬月額改竄など、真面目に、誠実に払い続けてきた人々の信頼を大きく裏切り、対策もまったく不十分。先の見えない怒りは、マグマのように、爆発寸前のエネルギーを蓄積している。

  そういうとき、義侠心や歪んだ正義感、あるいは個人的な八つ当たり等々、どのような動機かはまだわからないが、「必殺」の決意で相手を襲う事件が相次いだ。家族まで執拗に殺傷している。また、ナイフの使い方に手慣れた者の犯行という指摘もある。人を刺殺する方法を特別に訓練する組織がある。それが殺人予備罪に問われないのは、国家自衛権に基づく、必要最小限度の実力の行使として行われるからである(と説明される)。だが、そうした技術を身につけた者が、犯罪目的で動きだせば、きわめて危険である。血盟団事件では、海軍将校から拳銃の提供があったが、日本にも銃は確実に広まっている(直言「日本にも銃社会がくるのか?」)。

  先週の直言でも指摘したように、武装組織のトップにある人物が、大臣のいうことも聞かず、「底の抜けたような政治的発言」を繰り返してきたことも重大である(直言「空幕長『論文』事件をどう診るか」)。「政治的軍人」が幅をきかせた昭和10年代の危ない空気が漂ってきた。

  大事なことは、暴力に萎縮しないことだろう。政治家や高級官僚への「一人一殺」の空気のなかで、やがて言論界も萎縮していく。大学も「天皇機関説事件」(1935年)を契機に、学問研究の自由を失い、大学の自治も急速に瓦解していった

  では、2008年のいま、何が必要か。国や地方の仕組みが大きく崩れて、人と人との関係も崩れていくなかで、私は、「構造改革の惨禍」からの復興が必要だと思う。他国に自衛隊を送って「復興支援」することに金をかけるよりも、「構造改革」でめちゃめちゃになったこの国自身の復興である。まずは地方から、そして老人、障害者、子ども、非正規雇用者…。財政上の理由で真先に切り捨てられたところから手当てしていく。他方、人と人の結びつきと助け合い・連帯を築いていく。こうした地道な努力こそ、暴力を用いた、歪んだ「世直し」の動きやそれを利用した動きを効果的に封ずる道ではないだろうか。

 

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