2009年を「復興」の年に  2009年1月05日

けましておめでとうございます。今年も「直言」をよろしくお願いします。

6年前に「年賀状の廃止」を宣言してから、7度目の正月になった。「廃止」といっても、私が出さないというだけで、毎年、教え子などからの年賀状は楽しみにしている。今年もこのような自分勝手をお許しください。

昨年は初日の出の写真を出したが、2009年の「初写真」はこれである。散歩のとき、「路上観察学」のノリで撮影したなかの1枚。「土石流が発生する恐れがありますので、大雨の時は十分注意して下さい」とある。

ブッシュ政権の8年間で、世界はめちゃめちゃにされた。その間、日本では5人の首相が入れ代わった。そのうちの一人は「自民党をぶっ壊す」と叫んで首相になった。その結果、自民党は、もはや政党組織の体をなしていない。長年にわたってこの党が果たしてきた役割や機能もぶっ壊された。これに便乗し、「社会保険庁をぶっ壊す」と叫び、自らがぶっ壊れて、政権を投げ出した首相も出た。

この間の「構造改革」により、ちょっと雨が降っただけで大規模な土石流が発生する箇所は、金融、経済、雇用、医療、福祉、教育、司法など、この国のあらゆる分野に広がっている。都心のど真ん中でも、地方でも、人がモノを作り、商売をし、生活をするあらゆる場所に、壮大なる荒野が広がっている。では、2009年はどうなるのか。1月5日、通常国会が始まる。衆院解散に向けて、政治の迷走と政局の混迷は続く。

そこで、新年第1回の「直言」ということもあって、私なりに2009年への思いと抱負を語ることにしよう。

まず、2週間後の1月20日、第44代合衆国大統領にバラク・フセイン・オバマが就任する。「オバマ氏」(小浜市と同じ発音)ではなく、「オバァマ氏」というのだそうだが、新大統領の打ち出す政策や行動に注目したい。

オバマ政権が発足すれば、日本に対して何かを求めてきたとき、おおらかに「Yes,we can」といってしまわないように、相当タフな外交も求められる。だが、日本の首相や外相にそれを期待しても無理だろう。オバマと英語で話したという麻生首相の感想は、「オバマって、けっこう英語うめぇじゃねぇか」だった。

かつて大隈重信は、「英雄とは、否(ノー)と言うことの出来る人である」と語った。これからは普通の人々のレヴェルでも「ノー」といえる覚悟が必要である。オバマは、ブッシュのような単独行動主義をとらない分、国連や国際組織の操縦法も洗練されたものになるに違いない。オバマ新大統領に「憲法9 条を変えなさい。あなた方にはできる」と求められたら、「Yes,we can」と応答するのか。市民レヴェルでも腰を据えた議論が必要だろう。

なお、1月19日の直言では、「わが歴史グッズ」シリーズ14回として、昨年11月に入手した「オバマ1ドル贋札」など、「米大統領グッズ」を紹介する予定である。

次に、日本について。私は2009年を「日本社会の復興の年」と位置づけたい。「美しい国」を掲げて、見苦しく逃亡した首相。「背水の陣内閣」を組織して1年で投げ出した首相。「私は決して逃げません」と所信表明演説(2008年9月29日)で叫んでから、わずか数カ月で「政権投げ出しモード」に入っている漫画首相。「かしこくも、御名御璽をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました」という麻生に対して、この間、首相任命という国事行為(憲法6条1項)を何度もやらされてきた天皇の心の内は、「もう少し、長続きする首相を希望します」というところではないか。

今年まっさきに私たちに突きつけられる課題は、衆議院総選挙である。ここで有権者は、これまでの問題や状況をすべて踏まえた判断が求められている。

その上で、「構造改革」の惨憺たる荒野の「復興」にとりかかることだろう。雇用の世界では、「派遣切り」から「内定切り」まで起きている。「内定切り」という見出しを最初に見たのは、『毎日新聞』2008年12月11日付だった。「内定だから、説明する必要はない」「こちらの取り消しではなく、自己都合で辞退すると書いて書面で送れ」「採用してもすぐ解雇する」。立場の弱い学生に対して、企業側の対応はまるでいじめである。

新自由主義は、競争からこぼれ落ちた人々に対して「自己責任」のスティグマ(烙印)を押し、希望を奪うところに特徴がある。この考え方をベースにして行われた「構造改革」が最も深いところで「壊した」ものは、まさに人々の絆(きずな)や結びつきである。

社会がいかに荒れているかは、自殺者の急増にあらわれている。日本の自殺者の増大は看過できない。非正規労働者を年末の寒空に放逐したことで、自殺予備軍は確実に増えている。絶望社会からの脱出。戦後復興と同じように、「構造改革」で破壊された日本社会の復興と希望回復が、いま緊急の課題なのである。

そもそも圧倒的多数の人がちっとも幸せにならない「改革」とは、一体何なのか。そんな折、1冊の本を入手した。中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか――「日本」再生への提言』(集英社インターナショナル)。小渕内閣が設置した「経済戦略会議」の議長代理を務め、その後の「構造改革」の方向と内容に強い影響力を及ぼした人物の、いわば「懺悔の書」である。竹中平蔵氏の先輩にあたる人物の自省と懺悔については、また別の機会に詳しく触れることにしよう。

なお、中谷氏は『週刊金曜日』12月19日号で、「米国流経済政策は日本社会を壊す」というインタビューを行い、新自由主義の考え方は日本には合わないこと、個人を社会から切り離して考える米国流のやり方は、人間を幸せにしないという確信を持つに至ったことなどを語っている。「新自由主義を突き詰めていくと、いわゆるアトム化ですね。国家と個人しかなくなって『社会』というものが消えてしまう。これを進めていくと『社会』がおかしくなる。人と人との連帯感とか温かみだとか、安心、安全がなくなるとかね。そうなってきているのが今の日本なんじゃないかと私は見ているんです」と。新自由主義の唱導者と推進者が「転向」して、「社会的連帯」の復興を説く。きわめて興味深い。

八ヶ岳南麓、長坂町小荒間に、「三分一湧水」がある。水が落差で勢いづいたところに正三角形の分厚い石が置かれていて、それにあたって水が左折、右折、直進の三方向に分流する。下流の3つの村が農業用水を確保することができた。武田信玄が領国経営で治山治水を重視したので、発案者は信玄だともいわれてきたが、どうも違うようである。いまは湧水の解説板に信玄の名前はない。

それはともかく、この三分一湧水を見ていると、世の中はやはり、ちょっとしたアイデアが大切だと思った。正三角形の石が、年間310トンの湧水を下流の3つの集落にシェアさせている。限られた資源をシェアしていく。むきだしの利己主張ではなく、他者との連帯と協力のなかで、限られた水資源を分け合う。このシェアの考え方は、さまざまなところに応用可能である。日本社会の復興に際して、この三分一湧水の石は一つのヒントになるのではないだろうか。

さて最後に、私個人の2009年の抱負を語ろう。昔は年頭に語ることが豊富にあったが、今は記憶力もパワーも落ちてきて、やれることが限られてきた。

今年やりたいことは、単著を複数出版することである。多忙で停滞している企画がいくつもあるので、何とか複数出したいと思っている。

教育面では、このところ、いろいろな場面で学生の変化を感じる日々が続いている。物心ついたときからネットや携帯があった「平成生まれ」「ポスト冷戦世代」の教育については、特別の努力が必要になっているように思う。ただ、これは個人の努力を超える面がある。この間の「大学改革」や「司法制度改革」のマイナス面(といってもプラス面はあるのか?)が影響している面もある。ここでも「改革の荒野」から大学を「復興」させることが求められている。小さなところでは、この4年間、「世間」や「文科省」の圧力のなかで「カリキュラム改革」を続けてきたが、これを徹底的に総括する段階に入ったといえるだろう。大学の「復興」には本格的な議論が必要であり、また機会を改めて論じてみたい。

健康面ではどうか。今まで何とか大病をしないで過ごせているが、これから何があるかわからない。昨年12月、一人娘を嫁がせた。「おじいちゃん」と呼ばれるのも時間の問題だが、精神的に「おじいちゃん」にならないようにがんばりたい。

ストレスをためないために、「」と「音楽」を「薬」にしているが、学生オーケストラに関わることも心の安らぎと励みになっている。今年も健康には十分注意していきたい。

そして、今回でこの「直言」は連続更新12年になったが、これからも地道に更新を続けていきたいと思う。

読者の皆さん、本年もどうぞよろしくお願い致します。

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