オバマ新政権と日本  2009年1月19日

日(1月20日)、米合衆国第44代大統領にバラク・フセイン・オバマが就任する。「オバマ氏」(小浜市と同じ発音)ではなく、「オバァマ氏」というのだそうだが、新大統領の打ち出す政策や行動に注目したい。ただ、ブッシュ時代の負の遺産や汚物を実際にどのように克服していくのか。即断も楽観も許されない。

就任宣誓式では、ミドルネームの「フセイン」を含めるという。大統領選挙期間中は慎重だったが、就任式ではあえてそれを使う。イスラム圏だけでなく、世界に向かって、米国の変化を印象づける「小道具」となるだろう。また、エイブラハム・リンカーンが宣誓に使用した聖書を用いる(来月12日はリンカーンの生誕200 周年)。奴隷解放を宣言し、「分断なき国家」を掲げたリンカーンとの共通性(ただし、「結末」だけは共通であってはならない)をイメージさせる、もう一つの「小道具」といえよう。

オバマには独特のオーラがある。とにかく演説が巧みである。レトリックが駆使され、人々の心と気持ちをひきつける。大統領選挙の結果が出た日、オバマは自分の勝利をこう表現した。

・・・若者と高齢者、富める者と貧しい者、民主党員と共和党員、黒人と白人、ヒスパニック、アジア系、アメリカ先住民、同性愛者とそうでない人、障害者とそうでない人が出した答えだ。我々は決して単なる個人の寄せ集めではなく、単なる青(民主党)の州や赤(共和党)の州の寄せ集めでもないというメッセージを世界に伝えた。私たちは今も、これからもずっとアメリカ合衆国だ。・・・長い時間がかかった。でも今夜、この決定的な瞬間、この選挙の日に私たちが成し遂げたことにより、米国に変革が到来したのだ。・・・」

(『朝日新聞』2008年11月6日付第2外報面。なお、原文に即して翻訳は修正してある)。

対立する立場や多様な要素を無造作に挙げていって、一気にunitedを強調して「アメリカ合衆国」と落とす。「アメリカのことを真摯に考え行動する者はすべてアメリカ人である」というフレーズとともに、強力な国民統合の論理に転化することは容易にみてとれるだろう。

実はオバマには、最初からディレンマがある。一つは、社会的富の再分配にどこまで取り組めるかである。30年にわたる新自由主義の支配の結果、米国は、人口の上位わずか1%が総所得の21%を占め、下位の50%は総所得の13%だけという、すさまじい格差社会となっている。社会的富の再分配はきわめて困難な課題である。その克服への願いを込めてオバマに投票した低所得層の期待が裏切られるのも、時間の問題なのか。また、スーパー覇権国家たる米国のトップである以上、軍事力で「格差世界」を仕切る「帝国」をどこまで構造転換できるか。とりわけ軍や軍需産業の抵抗を抑えてまでそれを実現できるか。私はかなり悲観的である。国務と国防の両長官の人事を見れば、外交・防衛政策面での「強いアメリカ」の連続面が維持されることは確実である。

次ぎなるディレンマは、「黒人大統領」の誕生で、人種問題などが極小化され、これをテーマにすることが難しくなる可能性が指摘されている。ブッシュ政権であれば、人種問題やマイノリティ問題への批判はダイレクトに政権に向かった。しかし、「黒人大統領」の存在がクッションや、場合によってはネックとなって、問題が見えにくくなるという側面も否定できない(以上の指摘について、Vgl. A. Scharenberg, Black President, in: Blätter für deutsche und internationale Politik, 12/2008, S. 68-69)。

さらに「一つのアメリカ」への強烈な統合がもたらす副次的効果も無視できない。この点、外務省起訴休職中の作家・佐藤優氏はこう述べる。オバマの言説は、1920年代にイタリアでムッソリーニ総帥が展開した「イタリアのために能動的な社会に参加する者がイタリア人だ」という初期ファシズムと親和的である。オバマ新大統領が誕生した後、「米国が保護主義と国民動員を強化した結果、巨大なファッショ国家に変貌する危険性を軽視してはならないと思う」(「佐藤優の飛耳長目」(33)『週刊金曜日』2008年11月14日号。『サピオ』12月17号連載88回も同旨)と。興味深い指摘である。

ムッソリーニが登場したとき、多くの人々はその演説に感動し、時には涙した。いまの人間がその演説を聞けば、その後に彼がやったことを知っているから、異様にみえる。映像だけでみると、漫画的でさえある(チャップリンの『独裁者』にも出てくる)。だが、お先真っ暗の閉塞状況のもとで、ムッソリーニもイタリア人としての国民統合を訴え、圧倒的な支持を得た時期があったことも事実である。

よくいわれる「100 年に一度」の経済危機のなかで、圧倒的な消費(つまり軍事費の支出)を伴う、圧倒的な国民統合をはかっていけば、その次に来るのは戦争しかないのか。オバマ政権発足直後に、何らかの形で、「力」によるアクションが起こらないという保証はない。とりわけ危ないのは中東である。すでに昨年12月のクリスマス直後から、イスラエルがガザ地区に対する大規模な武力攻撃を行っている。これは、根っからの親イスラエルというブッシュ政権のもとで、駆け込み的に軍事的成果を拡大しておこうという露骨な意図と同時に、オバマ新政権に向けたメッセージではないか。大規模な「中東戦争」に発展する可能性が指摘されるなか、オバマの「中東和平」のロードマップは最初から重大な困難に直面している。

ところで、昨年末、オバマへの支持率82%という驚異的数字が報道された。しかし、人々の熱い眼差しと期待は、米国の現状を考えると、長続きはしないように思われる。この点で、エリック・ホブズボームが『ル・モンド・ディプロマティーク』日本版2008年11月号に、「帝国の衰退について」という興味深い論稿を寄せている。 ホブズボームは16世紀のスペイン、17世紀のオランダ、さらには20世紀半ばまでの大英帝国と、米帝国とを比較検討している。彼によれば、米国は世界最大の大量消費社会であり、米国経済は自国資源と国内市場によって発展してきた。そして、自国経済を支えるために常に武力を用いざるを得ない。グローバルな支配を維持しようとすれば、一層の無秩序と紛争、蛮行を生み出すことになる。「敵」についての認識においても、米国は特別である。ホブズボームによれば、「ヨーロッパ諸国の多くは、隣国や敵国との関係において自己を定義した。南北戦争以外の存亡の危機に見舞われたことのない米国は、敵を歴史的な観点から規定することができず、イデオロギーの観点からしか規定できない。つまり、米国の生活様式を拒絶する人々を敵と見なす」と。

イラクからの撤退を公約に掲げたオバマ新政権も、「テロとの戦い」については、上記のような観点から、ブッシュ政権よりも積極的にコミットしていくだろう。その際、ブッシュ政権以上に、ヨーロッパや日本の強い関与を求めてくるに違いない。ここが日本にとっては重要なポイントとなる。

ブッシュ政権の単独行動主義から離陸して、オバマ新政権が国際協調主義を前面に押し出してくるとき、米国以外の諸国にとっては、国際協調のための負担増が求められることを意味する。オバマ当選の直後、麻生首相は、これまでの「日米同盟」に格別の問題は生じないという認識を示したが、これはかなり甘い。ニューディール政策を実施したルーズベルト大統領と「ハル・ノート」(日本への最後通牒)・真珠湾という嫌な連想ゲームはともかくとして、日本外交の行方は多難である。

すでに就任前に、オバマ政権の対日本、対中国の布陣が明らかとなった。駐日大使はジョゼフ・ナイという情報も流れた(『朝日新聞』1 月8 日付夕刊の先走り記事)。本当ならば、クリントン政権の国防次官補で、96年「安保再定義」を担当し、アーミテージ元国務副長官と対日戦略文書「アーミテージ・ナイ・レポート」をまとめた凄腕である。そのほかにも、日本・アジア担当は相当強力な布陣で臨む。オバマ新政権がアフガニスタンへの陸自派遣を求めてきたとき、日本の市民までが「Yes, we can!」と叫んでしまわないかどうか。最も危惧されるのは、オバマの対日要求に、小沢一郎的憲法論が共鳴・共振する可能性があることである。

小沢一郎民主党代表は13年前、次のように述べていた。「多国籍軍的形態であっても、国際社会の秩序維持行為と見なされると解釈すれば、湾岸戦争や朝鮮動乱のような場合でも日本は参加できる。…私は国際社会でいいという行動は、宇宙の果てまでともにする。…要請があれば地獄までも行く」(『朝日新聞』1996年6月7日付)と。

2007年11月の雑誌『世界』に寄せた論文でも、「国連の平和活動は国家の主権である自衛権を超えたものです。したがって、国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含むものであっても、日本国憲法に抵触しない、というのが私の憲法解釈です」と明言している。そして、アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)のような「明白な国連活動に参加しようと言っているのです」と書いている。ISAFはNATO軍が主体の活動であり、国連安保理決議1386がバックにあるものの、「明白な国連活動」とはいえない。06年夏頃からは、南部で「不朽の自由作戦」(OEF) の作戦も担任している。アフガンで「戦死者」を出しているドイツの悩ましい状況についてはすでに書いたが、オバマ新政権の発足で、日本も同じような問題に直面する可能性がある。いずれにしても、腰を据えた議論が求められている。

(2009年1月8日脱稿)

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