10カ月ぶりの雑談「『食』のはなし」シリーズである。前回は「水」の話だったが、今回はちょっとアングルを変えて、戦場での食事である。
「200 年前の缶詰を食べた」。こんな体験記が、『徳島新聞』2004年7 月31日付コラム「鳴潮」で紹介されていた。野菜スープで、素朴な塩味で美味しかったという。2004年は「缶詰誕生200 年」にあたり、日本缶詰協会が、1804年、ナポレオン時代にフランスで開発された手法で復元したものだそうだ。これを読み始めたときは、ズバリ「200 年前の缶詰を食べた」のだと思ったが、それに似せて調理したものとわかり、やや拍子抜けした。
「缶詰」といったが、当時のフランスでは瓶詰だった。やがてブリキ缶に変わったが、製造原理は今に引き継がれたのだそうだ。ナポレオンがヨーロッパ戦線を拡大するにあたり、軍の士気をあげるため、保存食料のレヴェルアップを狙ったのだという。戦場における食事は、それだけ戦力を維持するために重要だということだろう。ちなみに、日本における缶詰は1877年、北海道開拓使が作ったサケ缶が最初だそうである。
かなり前になるが、私の講義を受けていた政経学部の学生が、「わが歴史グッズ」に加えてほしいと、米軍と自衛隊のレーション(戦闘時の携帯食料)を提供してくれた。メールには、「賞味期限切れまくりですが…」とあった。「そんなものいるか」と普通の人なら断るだろうが、私は喜んで頂戴した。食べたいからではない。「わが歴史グッズ」のラインナップに加えて、いつか紹介しようと思ったからにほかならない。
米軍のものはビスケットや豚肉、スープなどがいろいろ入っており、ずっしり重い。自衛隊のものは、なかなかメニューは豊富である。私がもらったのは、ご飯の真空パック、中華丼の具、大根キムチ、たくあんの缶詰等々。すでに数年前に「賞味期限切れまくり」の代物なので、今後も開封することはないだろう。
22年前、同僚だった憲法研究者の故・久田栄正氏のフィリピンでの戦場体験を聞き取って、それを証言や資料で裏付けた本を出したことがある(拙著『戦争とたたかう ―― 一憲法学者のルソン島戦場体験』日本評論社、1987年〔絶版〕)。久田氏の話は、勇ましい戦闘の話ではない。毎日のように死んでいく兵士たち。そのほとんどが餓死と病死(マラリア、アメーバ赤痢など)であった。久田氏は、バッタや沢蟹、蛙、トカゲ、蛇など、何でも食べた。「ヘビを見つけるとみんな涎を垂らして、目をギラギラさせて、パーッとつかんで食べてしまう。…ガメ虫というのを食べた。家の中に飛び込んできたガメ虫を、兵隊たちが奪い合って食べている光景を想像できますか」と私に語っていた。ある時、「灰色がかった肉で、変に柔らかい。それにあまり味もしない…」ものを食べる。それが何であったかは拙著303 頁にあるので、図書館などでお読みいただきたい。
久田氏には体験はないというが、ルソン島北部では「人肉喰い」も横行した。「一緒にいた兵隊を見ているうちに、『彼がうまそうで、しきりに涎が出た。あの頭をたたき割ると、中の脳味噌がうまいだろうなあ』と、思わず刀の柄に手をかけるところまでいった」という見習士官の話も、拙著で紹介した(304 頁)。
なお、中部太平洋のメレヨン島では、守備隊の大半が餓死したが、戦史叢書(防衛庁防衛研修所戦史室編)の「メレヨン部隊死没者及び生還者状況表」をもとに計算してみると、栄養失調死を含む「戦病死」の率は、将校30.3%、下士官60.4%、兵77.6%だった。「餓死に歴然たる階級差があった」のである(拙著302 頁)。
米軍はどうだったか。拙著では、米陸軍参謀総長マーシャル元帥報告書(1945年9 月)に基づき、「米陸軍が史上最良の食糧を与えられていた」ことを紹介している。例えば、戦闘食糧C は、10種類の肉の組み合わせ料理(肉と野菜シチュー、肉とスパゲティ等々)で、これに果物と野菜の缶詰、デザート缶詰がつく(拙著299 頁)。これらは「レーション」と呼ばれ、これが欲しいために斬り込みを行う日本兵もいた、と久田氏は語った。
これは最近入手した米軍野戦用携帯食の外箱である。「ディナー・ユニット」を見ると、ディフェンス・ビスケット、全麦ビスケット、豚肉料理、濃縮ブイヨンスープ、ぶどう糖錠剤、チューインガムである。けっこう地味である。ビスケットに2 種類の味を入れているあたりが、工夫なのだろうか。「ブレックファースト・ユニット」は、ポークが子牛(veal)になり、インスタントコーヒー2 杯分と砂糖3 個、それに麦芽乳がつく。「スーパーユニット」というのは少し豪華で、ビスケット2 種、ソーセージ1 缶、レモンジュース粉末、それに野戦食D がつく。
米軍の野戦食は食べたことはないが、まだドイツ駐留ソ連軍がいた頃、ソ連空軍の食事を食べたことがある。旧東独のブランデンブルク州エバースヴァルデにあった旧ソ連空軍基地でのことである。
忘れもしない、1991年8 月18日(日)。ソ連空軍基地が初めて公開されるというので、当時旧東ベルリンに滞在していた私は、電車とバスを乗り継いで、ベルリン郊外の空軍基地まで行った。当時旧東独にはソ連の大部隊がまだ駐屯していたのである。
滑走路にはミグ29戦闘機などがズラリと並ぶ。格納庫の前でソ連兵と記念写真も撮った。軍楽隊が音楽を奏でる横で、軍の食事が振る舞われていた。お腹もすいてきたので、私も列に並んだ。豆を煮込んだものなのだが、これが芸術的にまずかった。私はどんな食事でも、不味いといって残すことはしない。せっかく出されたものは食べる主義である。だが、これは一口食べて、トイレ横のごみ箱にこっそり捨てた。旧東独の人々はみんな、黙って食べていた。恥ずかしい話だが、私の人生で、口に入れてから人に見られないようにこっそり出したのは、韓国訪問時に、国防大学校総長主催の食事会で出された「ホンオフェ」(ガンギエイの強烈なアンモニア風味の高級料理)と、この時の旧ソ連軍の食事だけである。
8月20日、列車でポーランドに向かい、私は国境の駅、旧東独のフランクフルト・アン・デア・オーデル(オーデル河畔)の駅で強制的に下車させられてしまった。ポーランド入国用のビザを忘れてきたためである。駅前のタクシー運転手に事情を話すと、気の毒がって、橋を通ってポーランド領に入って、しばらくドライブしてくれた。国境警備隊員には顔パス。私のパスポートも確認しなかった。
タクシーを降り、駅構内の案内所で紹介されたホテルに泊まった。旧政権党の社会主義統一党(SED) の党学校だった建物である。値段の高さのわりに、サービスは最低だった。
部屋のテレビをつけると、画面下に「モスクワに非常事態」というテロップがずっと流れている。何があったのか。テレビに釘付けになった。「ゴルバチョフ、死亡か」というテロップも流れる。これは大変なことになったと、背筋に冷たいものが走った。「ソ連8月クーデター」だった。すぐさまホテルを引き払い、旧東ベルリンの自室に戻るや、新聞を何紙も買ってきて、情勢分析を行った。テレビには、ブランデンブルク州のマンフレート・シュトルペ首相(当時)がドイツ駐留ソ連軍司令部を訪れ、最高司令官のブルラコフ大将と並んで笑顔をふりまくシーンが出てきた。司令官は「大統領の命令なくして我々は動かない」と断言した。私はこの映像を今でも鮮明に覚えている。26万の大部隊が、モスクワのクーデター派に従わないと宣言したに等しいからだ。ほとんど知られていないが、司令官のこの言葉を引き出したシュトルペ首相の果たした役割は大きいと思った。結局、クーデターは失敗し、ゴルバチョフは無事にモスクワに戻ってきた。その後、ソ連邦の解体まで、4 カ月もかからなかった。旧ソ連の崩壊と聞くと、いつもエバースヴァルデ空軍基地で出された食事の味を思い出す。あれから18年がたった。