今週は、5月12日が「四川大地震」1周年ということもあり、既発表の連載原稿『「愛ある手」 —— 災害と公務員』を転載し、人命救助の思考と行動について取り上げたい。
今年の正月休みに、家人に付き合って映画「252(生存者あり)」(水田伸生監督)を観た。「252」とは、東京消防庁ハイパーレスキュー(消防救助機動部隊)固有の信号で、「救助現場に生存者あり」という意味だという。
物語は、震度5の地震にみまわれた東京が、その数日後、史上最大規模の台風に直撃されるところから始まる。高潮が汐留やお台場を襲い、地下鉄に大量の海水が流れ込む。東京消防庁ハイパーレスキューが出場して、懸命の捜索救助活動を展開する。この手の映画によくある、上から目線で危機管理を仕切る内閣総理大臣や防衛大臣などは出てこない。役所は東京消防庁と気象庁だけである。地理的にも、地下鉄銀座線の新橋駅周辺が舞台で、そのあたりの救出活動を軸に描く。登場人物のうちで一番上のポストは、ハイパーレスキューが96年12月に設置された第八消防方面本部(立川市)の本部長(階級は消防正監。消防総監、消防司監の次のランク)と、気象庁予報課長である。あとは一般の消防士と気象庁職員。東京全体は最初から視野になく、もっぱら新橋駅周辺の瓦礫のなかに閉じ込められた人々の救助活動をミクロ的に描く。
主役は、海上保安庁特殊救難隊の活動を描いた映画「LIMIT OF LOVE 海猿」と同じ俳優。スーパーマンのように活躍し、最後には超人技のパワーで復活する。結末は「あり得な~い」の一言。もっと手前で終わっていたらよかったと思う。それに、あれだけの大災害で、警視庁も陸上自衛隊東部方面隊もまったく出てこないで、ハイパーレスキューだけが活躍するというのも不自然だった。消防レスキューを高く評価してきた私でさえも、リアリティのなさに少々引いた。映画作品としては、私の印象にも記憶にも残らなかったが、パンフレットにある監督インタビューが目にとまった。「彼らには家族があるのに、なぜ命を懸けられるんだろう?その自己犠牲の精神を考えたら、撮りたくてたまらなくなった」と。監督が注目したのは、新潟県中越地震(2004年10月23日)のとき、崩落した道路に埋まる車から2 歳児を救出したハイパーレスキューの活動だった。この実話をモデルにこの作品はできた。監修は、当時、現場で指揮をとった第八消防方面本部消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)総括隊長の清塚光夫氏である。パンフレットには、その清塚氏のインタビューも載っている。
現在、各消防署の「特別救助隊」は、東京消防庁管内で22隊ある。他方、地震や化学災害など、より複雑な救助活動を行うのが「消防救助機動部隊」である。現在4部隊(第二、三、六、八消防方面本部所属)が存在する。中越地震のとき、あの2歳児の現場には八方面(立川)の部隊が入った。映画では新橋駅周辺が舞台なのに、なぜか多摩地区を担任する八方面の部隊が活躍する。これは清塚氏の監修ということもあるのだろう。
インタビューには、「身内と一般の人、どちらか一人しか助けられない状況に遭遇したらどうしますか?」という意地悪な質問があった。清塚氏はこう答えていた。「一概には言えませんが、例えば10人のケガ人が被災地に取り残されていた場合、助かる可能性の高い人から先に救出することが多い。(救助が難しい)1人を助ける人員と時間で、ほかの9人が助けられるなら、そっちを選択することもある。それは状況によって変わるので、なんとも言えないですね。身内と一般人、どちらかしか救出できない場合もその状況によります。逆にこのレスキュー隊のオレンジ服を脱いでいたら、身内を助けるかもしれません。ただ、イヤな気分にはなるでしょうね」。誠実な応答だと思った。災害地において医師が行う救急救命措置のトリアージと同様、冷徹な判断が求められる。だが、「自らは省みず」の自己犠牲精神を押しつけるような構えはない。
消防・救助の教育では、人を助けるために、救助者が命を失うことを認めない。要救助者を助けることに全力を尽くすが、救助者自身が命を失うような状況では救助を断念することもある。映画ではその葛藤が随所に出てくる。おうおうにして若い隊員は突入しようとするが、ベテランの隊長はそれを止める。ギリギリの選択である。
危険な災害現場で「救出か、撤退か」の判断をどのようにするのかと問われ、清塚氏はいう。「『入れ!』と言うほうが楽なんです。逆に退く勇気、その決断が難しい。ただ、上官から『入れ!』と言われても、自分に自信がなかったら入らないですね。我々の仕事は一か八かではできない。自分たちがケガをしたり、生き埋めになって、それに救助隊の人員を裂く〔割く〕ことになったら元も子もないですからね」。
長年の経験に裏打ちされた言葉は重い。警察や自衛隊と異なり、消防の場合は現場を担う部隊にキャリアシステムはない。すべて「人命救助のたたき上げ」が隊長になる。軍隊ならば上官の命令は絶対であり、それに従わなければ抗命罪に問われる。だが、人命救助の現場では、上司の突入指示に対しても、「自分に自信がなかったら入らない」と。そこに現場責任者の鍛えられた理性を感じる。
「愛ある手」――災害と公務員
◆中国・四川大地震の写真
鮮烈なカラー写真だった。倒壊した小学校の瓦礫の間から差し出された児童の手。それを握る救助隊員の手のアップ。見出しは「生きて欲しい」(『読売新聞』2008年5月14日付)。中国「党治国家」の宣伝臭を超えて、この「手」の写真には、命の灯火を絶やすまいという強い意志を感じた。 消防関係者から直接聞いた話だが、日本の消防学校では、救助訓練のとき、「赤いロープを全員で確保せよ。要救助者がそこにいるから」と教育されるという。ロープは何種類もあるが、色で使い分けていて、赤いロープの下には命がある。頭で考えてからではなく、目から入る情報で瞬時に体が動くように、人命救助最優先の思想と行動が叩き込まれる。 救急救命士もレスキュー隊員も、必ず要救助者の体に手を触れ、「大丈夫ですよ」「がんばりましょうね」と声をかける。手の温もりと声かけが、体力も気力も弱った要救助者に「生きよう」という気持ちを呼び起こす。この点では、国境に違いはない。
◆国際消防救助隊発足から23年
1985年の南米コロンビア噴火災害をきっかけに、東京消防庁と政令指定都市のレスキュー隊を中心に、「国際消防救助隊」(IRT-JF)が組織された。日本語愛称は「愛ある手」。そのマークは、英国のテレビ人形劇「サンダーバード」のそれと酷似している。発足時の自治大臣(現在の総務大臣)は、弱冠44歳の小沢一郎氏である。当時彼は、IRT-JFの活動を「画期的かつ意義深い」と述べていた(「小沢一郎氏に聞く」『近代消防』1986年3月号)。
IRT-JFは、87年の国際緊急援助隊法の成立以降、国際救急医療チームと連携をとりつつ、地道な活動を蓄積してきた。拙著『武力なき平和――日本国憲法の構想力』(岩波書店)でも、この組織の活動を紹介した。これを発展・充実させ、救助、救命、医療などの総合力を備えた、常設の「国際救助隊」を立ち上げるならば、平和憲法にふさわしい国際協力の目玉になり得ると提言してきた。
消防の場合、部隊の運用思想も装備も、自衛隊のそれと大きく異なる。05年のインドネシアの大津波災害の際、大阪市消防局などの消防救助ヘリ(ドーファンⅡ)が被災地に派遣されたが、これは軍用ヘリと異なり、細部に至るまで、人の命を救うという観点が貫かれている。超高価な対戦車へリなど、人命救助には「無用の短物」である。なお、四川大地震では、東京、川崎、名古屋、藤沢、市川のレスキュー隊員が派遣されている。
国内の災害についていえば、阪神淡路大震災を契機に、全国の消防レスキューなどを統合運用する「緊急消防援助隊」が発展してきた。自己完結的な組織形態をとり、救助、消防、救急、後方支援の各部隊が統合運用されている。消防庁登録部隊(都道府県域ごとに編成し、全国的に集中運用)は2210隊(3万1000人)。東京消防庁は96年に消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)を発足させた。これが新潟中越大震災で大活躍したことはよく知られている。「自己完結性」はもはや自衛隊だけの特質ではない。
消防は自治体の組織であり、地域に根ざした活動を行うため、レスポンスタイム(対応時間)が短く、火災などに迅速に対処できるというメリットをもつ。消防レスキュー隊は最も純粋な人命救助組織であり、その技術的練度は高い。救助工作車、救助用ファイバースコープ、油圧式救助器具等々、その資機材は人命救助優先を基準として備えられている。 反面、自治体消防の場合、日常の火災や災害に主眼を置くため、大災害時の人員・資機材の対応が困難という面がある。地方の消防本部の場合、人員削減や財政緊縮で、自分の地域だけで手一杯なのが実情である。同時多発的に大災害が起こった場合、対応はむずかしい。大規模災害に備えて、総合的な消防・救助能力を整備する独自の課題が出てくる所以である。
◆災害と公務員
地震や大災害が起きたとき、その場、その箇所でリーダーとなるのはどんな人か。ホテルの支配人、学校の校長、電車の車掌…。宿泊客、生徒、乗客は、皆、そこの責任者の指示に従う。その人の発する「言葉」と「一挙手一投足」に人々は集中する。公務員の場合、それぞれの地位や職種にもよるが、人々の先頭に立つ覚悟と構えが求められる。
「長」となった者の能力は、「非常事態」において最もはっきりあらわれる。特にトップの言葉や声、表情、節目の動き方が重要である。救援部隊の「逐次投入」ではなく、全力集中することも、トップの判断次第である。
では、新潟県中越地震においては、首相はどんな言葉を発し、どんな行動をとっただろうか。私はかつて、「『危機』における指導者の言葉と所作」を書いた。そこでも述べたように、小泉首相(当時)の動きは驚くほど鈍かった。自らの趣味と気分を優先し、映画の試写会を予定通りこなした。好みの女優の舞台挨拶を聞いてから、危機管理スタッフが待つ首相官邸ではなく、仮公邸にこもり、翌日の午前中いっぱい出てこなかった。地震発生時から、この国の危機管理の最高責任者がその本来の持ち場に入るまで、26時間19分も経過していた。
内閣官房が大規模地震などの事態の初動体制についてマニュアルを作成しているが、首相の対応については規定がない。なぜか。それは、首相は最高責任者として、マニュアルに定めのない判断が求められるからである。日本の「危機管理」の致命的弱点は、システムの問題よりも、それを運用できない人と政治にある。
ところで、災害対策基本法上、三つのタイプの災害対策本部がある。(1)災害対策本部(長は都道府県知事と市町村長)、(2)非常災害対策本部(長は、防災担当大臣)、(3)「著しく異常かつ激甚な非常災害が発生した場合」に内閣総理大臣を長とする「緊急災害対策本部」である。岩手・宮城内陸地震についても、「激甚」に指定するかどうかに時間がかかった。この制度が、東京直下型地震や大阪、名古屋が壊滅するような災害を想定しているので、新潟や、岩手・宮城の山間部では、同じには評価できないというわけだろう。だが、岩手・宮城では大規模な崖崩れが多発している。災害に迅速かつ効果的に対処するには、総合調整機能が必要である。こうした事態では、被災者の数や地域の広狭ではなく、被害の実質的な内容に着目すべきだろう。大災害が起きたとき、首相はできるだけ早く思い切った救済策を打ち出す。そして、テレビで国民に支援を呼びかける。その声と姿を見たとき、どんな「指示待ち公務員」でも、「これは大変だ」という意識になる。その意識の無数の重なりが、その後の組織の動きと勢いを決めるのである。
(2008年6月17日稿)
〔『国公労調査時報』548号(2008年8月)「同時代を診る」連載43回より転載〕