先週の木曜日は、「六・四天安門事件」20周年だった。中国の党と政府は、この事件を徹底的に封印しようとしている。そのかたくなさと執拗さには驚くばかりである。
天安門事件の1カ月前、1989年5月7日(日)、私は札幌近郊の自宅で、NHKスペシャル「中国学生は主張する」をみていた。胡耀邦総書記(当時)の急死を契機に、学生たちが自由と民主化を求めて立ち上がった。胡耀邦は党汚職・腐敗の根源は「党中枢にあり」として、鄧小平ら元老たちの引退を勧告したが、返り討ちにあい失脚。憤死する。それは、学生たちの怒りに火をつけた。その年の5月初旬、運動は大きな盛り上がりをみせた。番組では、言論・出版の自由、集会・結社の自由の実現を求めるとともに、党官僚の汚職・腐敗構造をさまざまな角度から批判する学生たちの声が多数紹介されていた。
印象的だったのは、彼らの知的な風貌と真剣な眼差しである。どの学生も、カメラに向かって、自分の国の現在と将来について熱く語っている。その姿は、1970年前後の日本の学生と重なった。園田矢特派員(当時)は多くの学生たちが行き来する大学の前に立ち、この学生たちの主張に対して、政府はどう応えていくかなどの課題を述べて、番組は終わった。
その4週間後の日曜日、「六・四天安門事件」は起きた。私は大きなショックを受けた。「党治国家」の暴力装置は、まさに「党を人民から解放する軍隊」として、学生や市民に銃を向けたのだ。NHKのインタビューに登場した学生たちはどうしているだろうか。亡くなった人もいるだろう。いたたまれない気持ちで過ごしたことを覚えている。
自然発生的にみえる運動も、その担い手たちの知性と理性がその方向と内容を大きく左右する。非暴力を貫き、政府批判の度合いはあくまでも「体制内改革」に徹していた。どこをとっても、「暴乱」ではなかった。胡耀邦の後任の総書記となった趙紫陽は、学生たちの主張に理解を示し、天安門の現場におもむき、学生たちと対話した。それが、党の元老たちの逆鱗に触れ、総書記を解任された。そして長期の軟禁生活の後、2005年に死亡した。趙紫陽は、学生たちの行動は、当局がいうような「反革命暴乱」ではなかったと、最近出版された本のなかで語っているという(英文タイトルは『国家の囚人』)。もし、あの時、趙がそのまま総書記の地位にとどまり、学生たちの要求を取り入れて、政治領域の改革を進めたならば、中国のその後の発展は違ったものになっていただろう。無限の可能性を秘めた多くの学生たちの命を奪い、その主張を抑圧することで中国が失ったものは、限りなく大きい。これからも事実を封印し、政治の領域における「鎖国」(一党独裁)を続けていくのか。20周年を契機に、今後それが、より鋭く、より厳しく問われていくことになるだろう。
天安門事件の悲劇は、学生を中心とする普通の人々が自由と権利の実現のために声をあげたことに対して、戦車まで投入してこれを暴力的に圧殺したところにある。中国では、末尾「9」の年に重要な出来事が起きている。1919年の「五四運動」(1919年)の90周年、中華人民共和国建国(1949年)60周年、チベット暴動(1959年)50周年、天安門事件(1989年)20周年などである。いずれも、たくさんの血が流されている。
実は末尾「9」の年は、ドイツの憲法史にとっても特別の年である。これについては、1 月の直言で少し触れた。前回の「ドイツ基本法60周年に寄せて」に続き、177 年前の5 月に行われた、市民による「お祭」(Fest)の話をしよう。
ベルリンのドイツ歴史博物館で販売されている『自由の名において!— ドイツの憲法と憲法現実』(Im Namen der Freiheit! — Verfassung und Verfassungswirklichkeit in Deutschland: 1849/1919/1949/1989) という分厚い本の表紙には、4つの「9」が並んでいる。大学院博士課程の藤井康博君が、法学研究科の海外リサーチでドイツを訪れ、入手してきたものだ。どの頁を開いても、写真の構図から、それぞれの文章に至るまで、過去の「9」の年に光をあてる現代的視点に満ちており、あきさせない。こうしたドイツ憲法史の200(220)年という視点は、1789年のフランス革命(人権宣言)の影響を軸にしたもので、さまざまな問題が見えてきて実に興味深い。
高級週刊紙“DIE ZEIT”歴史特別版には、ドイツの民主主義における「第四の試み」についての論稿が掲載されている(B. Erenz, Der vierte Versuch — 1793-1848-1919-1949, in: DIE ZEIT Geschichte 1949, 2009, S. 60) 。これも藤井君のドイツ土産の一つだが、この視点も新鮮だ。
一般的な理解では、神聖ローマ帝国(第一帝政)〔962~1806年〕、ドイツ帝国(第二帝政)〔1871~1918年〕、ヴァイマル共和国(第一民主制)〔1919~1933年〕、ナチス第三帝国(第三帝政)〔1933~1945年〕、ボン共和国(第二民主制)〔1949~1999年〕と捉える。1999年以降、「ベルリン共和国」(第三民主制)が一部でいわれ、ネオナチは「第四帝国」を密かに目指している。
1789年フランス革命の影響を受けて、ドイツ各地で、上記論稿の表現を使えば、北はハンブルクから南はウルム(バイエルン)まで、東はケーニヒスベルク(現在、ロシア連邦西部のカリーニングラード)から西はアーヘンまで、これを祝福し支持する市民の運動が広まった。そうしたなか、1792年にフランス軍がライン左岸地域まで進出。そのもとで、「マインツ共和国」が1年間ほど存在した。フランス革命期の急進的なジャコバン派の影響を受けた「ドイツ・ジャコパン派」主導によるものだ。「自由な民衆」による初の議会選挙が行われ、それにより組織された「ライン左岸国民公会」では、神聖ローマ帝国からの離脱や、封建領主の統治権の否定も明確にされた。
「共和国宣言」1条には「自由と平等に基づく法律に従う〔…〕国家」とある。女性参政権はなかったが、女性もジャコバン・クラブ(「自由・平等友の会」)に参加できた。「マインツ共和国」は、「ドイツの地における最初の民主的実験」と評されている。この短時間の「実験」を「第一民主制」にカウントするならば、ヴァイマル共和国は「第二民主制」、ボン共和国は「第三民主制」ということになる。
フランスのように民衆の政治参加やその憲法的反映が明確な国と違って、革命の成果が徹底しなかったり、不十分だったりするドイツの場合、その憲法のありようは実に屈折・屈曲したものとなる。これがまた私にとっては、立憲主義の問題を考える上でさまざまな刺激とヒントをくれて、興味深いのである。
ところで、「マインツ共和国」が短命に終わったあと、保守的な「ウィーン体制」の時期がきて、改革の動きは一時停滞する。だが、西南ドイツではいくつかの憲法が制定され、「ドイツ初期立憲主義」が高まりをみせる。そして、フランスの七月革命(1830年) の影響は、ヨーロッパに広まっていった。その結果、ベルギーは立憲君主制に向かい、ドイツ各地で専制君主を退位させて、温和で啓蒙的な君主の体制が生まれた。さらに民衆の動きは加速化していく。とりわけ、1832年に、ドイツ南西部、プファルツ地方のハンバッハで行われた「祭」(Fest)は重要である。先月27日は、この「祭」の177周年にあたる。
歴史を動かすデモの多くは、土・日に行われる。集まるきっかけには、いつの時代も、どこか「お祭」気分がある。1832年5月27日も日曜日だった。男はモーニングにシルクハットという恰好が多く、女性も小奇麗な服を着ている。およそ政治デモの雰囲気はない。実際、「祭」として呼びかけられた(Einladung) 。
ドイツ諸邦の統一と自由を求めて、「祭」にかこつけて集まった人々は3万人。鳴り物や旗指物などを持参して楽しげだが、実際は政治的デモであった。プロイセンやオーストリアなどからも多くの人々が参加した。
そこにおける要求は「統一」と「自由」である。憲法をもった国民国家の樹立を求め、出版の自由、集会の自由、結社の自由、営業の自由、居住・移転の自由、法の下の平等を要求した。女性もともに自由を要求したことが注目される。そして、他地域(とりわけポーランド)の人々との連帯と協調も掲げられた。中心になったのは、印刷業者などからなる出版協会である。検閲の禁止を含む出版の自由は、彼らの死活問題だった。思想家や詩人も参加した。この政治的デモは教養の高い人々が中心にいた。
「祭」が終わると、プロイセンとオーストリアは、参加者の拘束を行う。検閲を強化し、集会・結社も禁止した。だが、この「祭」に参加した関係者の裁判では、起訴されたすべての人が無罪となった(1833年8月) 。
2000年3月、私はドイツ滞在の最終週に、当時大学院生で、ボン大学に留学していたS氏(現在、某大准教授)を誘って、南西ドイツ一帯をドライブした。その時、ハンバッハの城も訪れた。絵にあるように、山の上の城に向けた道路は、市民であふれていたのだろう。車で城に向かう途中、当時に思いをはせていた。2007年のこの日、175周年記念式典が大々的に行われた。ヴァイツゼッカー元大統領やラインラント・プファルツ州首相も参列した(Die Welt vom 28. 5. 2007)。
この「ハンバッハの祭」は、1848年のドイツ三月革命につながる「三月前期」(Vormärz)への前奏曲となり、1849年のフランクフルト憲法へと結実するのである。そして、このフランクフルト憲法は、1949年のボン基本法へと受け継がれていく。そして、1989年のベルリンの壁崩壊とドイツ統一によって、ドイツ基本法は「40+20」年の時を刻むのである。
私は中国の天安門事件がなかったら、ベルリンの壁があの時、あのタイミングで崩壊することはなかったと考えている。それには、例外的に月曜日に行われたデモが意味をもっている。この直言の冒頭の絵は、「月曜デモ」を描いたものである。旧東ドイツの古都ライプチッヒで、1989年10月9日(月)に初めて、自由を求める人々のデモが行われた。以来、毎週、月曜日に、人数を増大させながらデモが続けられ、各地にも飛び火していく。そして、旧東ベルリンの中心部(私が1991年に住んだアレクサンダー広場)で100万人の大デモが行われたのは、1989年11月4日(土)のことだった。その5日後にベルリンの壁が崩壊する。それはさまざまな要因が重なったものだったのだが、何よりも、デモ隊に対して発砲もやむなしとしたE・ホーネッカー国家評議会議長(党書記長)が解任されたことが大きい。それは、ゴルバチョフソ連共産党書記長が、「ブランデンブルク門(ベルリン)に天安門を再現させてはならない」と旧東ドイツの指導部に厳しく命じたことによる。ソ連に忠実な旧東ドイツの党官僚たちは、デモ隊に対して戦車を投入しようとしたホーネッカーを解任し、その後、軍や警察に対して、デモ隊に対する武器の使用を禁止した。そこには、4カ月ほど前に起きた天安門事件の影響が確実にある。
もう一度、冒頭の絵をご覧いただきたい。そこには、市民フォーラムの拠点となったニコライ教会と、デモ隊の横断幕、「自由な選挙を」「旅行の自由を」「非暴力」と並んで、「我々がその人民だ」(Wir sind das Volk) という有名なスローガンが見える。「ドイツ民主共和国」(人民民主主義)がいかに現実の人民とかけ離れたものであるかを端的に表現した、インパクトあふれるスローガンである。それは、天安門事件を封印する「中華人民共和国」の政治体制が、いかに「人民」とかけ離れたものであるかをもあぶりだす。ハンバッハから北京「天安門」経由、ライプチッヒ、そしてベルリンへ。この問題は、今年11月9日(月)に、また角度を変えて論ずることにしよう。
(11月9日「直言」に続く)