1960年代後半から70年代にかけて大学生や高校生だった人ならば、「マニフェスト」といったら、ある一つの文献を想起するだろう。それはマルクス・エンゲルス『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei, 1848)である。「ヨーロッパを一つの妖怪が徘徊している。すなわち共産主義の妖怪が」(Ein Gespenst geht um in Europa - das Gespenst des Kommunismus) で始まる怪しげな響きが記憶に残る。20年前の「壁崩壊」後、無数の痛みを残しながら、ヨーロッパでこの妖怪の大半は溶解してしまった。
いま、21世紀の日本で「マニフェスト」という言葉が飛び交っている。それは161年前の“Manifest”ではなく、イタリアンの“manifesto”に近い。「政権公約」というのが一般的なようだが、辞書でひくと「表明」「宣言」「声明」「檄」に続いて、「積荷目録」というのがある。それにしても、公式の場面で横文字がそのまま使われることが多くなった。私は「マニフェスト」という言葉には違和感がある。選挙前の政策集とか政権公約というなら昔からあったし、どうせこんなものだろう、という斜め読みもできた。だが、「マニフェスト」といわれると、横文字でデコレーションされた分、胡散臭さが増大してしまうのである。「ドナー不足」という非礼な言葉と同じく、横文字にすることで失われるものもあるように思う。
7月27日に民主党の「マニフェスト」が発表された。民主党政調会長名で『INDEX 2009 - 民主党政策集』が先々週、自宅に届いていた。
57頁もあり、大項目は「内閣」「子ども・男女共同参画」「消費者」から始まり21項目。小項目は350項目もある。ザッとみたが、とにかく多岐にわたる。だが、タイトルは『INDEX 2009』なのである。副題は「民主党政策集」。本を書くときにINDEX (索引)をつけるが、せっかく政策集として押し出すなら、自分で「索引」といってしまうと、何とも軽く響くのである。「マニフェスト」と「INDEX」。政策大綱と政策集でいいと思うのだが。『INDEX 2009』は7月17日時点でまとめたものとの断り書きがついているので、27日の「マニフェスト」に載っていないものもある。なかには、小泉改革時代に疲弊した大学の再生に必要な施策があり、共感できるものも少なくない。特に、「中央教育委員会」はおもしろい。戦後改革の頃を思い出す。当時、内務省解体と同時に、教育勅語教育を押し進めた文部省も解体する計画があり、そのかわり政府から独立した「中央教育委員会」を設置する構想があった。残念ながら文部省は生き残ったわけだが、もし民主党が本気ならば、この構想が実現することになるのか。そこまで考えずに、ただの思いつきで入れたのか。是非とも聞きたいところである。
ほかにも、「マニフェスト」に盛られていない『INDEX2009』の中身は、かなり大胆なものがある。特に「非宗教的な国立追悼施設の建立」「学習指導要領の大綱化」「選択的夫婦別姓の早期実現」については、超右寄りの民主党都議(板橋区選出)が内部からかみついている。党全体として、これらを実現する方向で一致しているのかどうか。あまりにもたくさんあり、これから細部と芯部を詰めていくのだろう。
一方、「政権与党」自民党の「マニフェスト」は31日、麻生首相が自ら発表した。『読売新聞』8月1日付1面に、その骨子が載っている。「幼児教育費を無償にする」「10年後に家庭の可処分所得を100 万円増額する」「道州制基本法を制定して道州制を導入する」等々。たくさんの項目が並んでいる。これと、4年前の小泉マニフェストとの違いは著しい。かつて徹底的に否定された「大きな政府」の政策が「てんこ盛り」である。小泉「自民党宣言」は、161年前のマルクスの表現を使えば、「日本を一つの妖怪が徘徊していた。すなわち新自由主義の妖怪が」というところだろう。いま、「マニフェスト」を出すならば、この小泉「改革」の徹底した検証と自己批判なくしてはあり得ない。それは、地方のこと一つとってもそうである。強引な町村合併の総括なくして、道州制の当否を語ることはできない。だが、麻生首相が発表した文章には、反省も総括もまったくない。道州制の導入が「地方分権の推進」に役立つのかどうか。「郵政民営化」と同様、疑ってかかるのが正しい。憲法改正と同様、憲法によって拘束・制限されるべき権力者自身が、憲法改正を熱心に説くことの怪しさにもっと気づくべきである。地方から、町村合併や道州制の要求が出ていたのか。そんなことはない。すべて「中央政府」の音頭で行われ、地方に押しつけられてきたものである。さかんに道州制をいう、弁護士やタレント出身の知事たちのいい加減さにも気づくべきである。
なお、自民党の政策細目は、『政策BANK』という表現を使っている。「銀行」「貯蔵所」「金庫」という意味なのか。どんな政策にも財源の裏づけが必要ということで「政策BANK」なのだろうか。「INDEX」同様、感心しない表現だ。
公明党、共産党、社民党、国民新党の「マニフェスト」については、それぞれのサイトを参照されたい。(※8月2日正午時点で国民新党WEBサイトのみ次回選挙に向けたマニフェスト無し)
有権者の側からすれば、「戦後初の真夏の総選挙」を前にして、各党が政権という船に積み込む「積荷目録」(Manifest)を発表しているわけである。有権者は、目つきの鋭い税関職員となって、積荷目録と実際の積荷の違いなどを含めて、しっかりチェックする必要がある。
2005年「9.11」で何かを期待して投票した人々は、あの時の「積荷目録」のトップにあった「郵政民営化」がとんでもない「大量破壊兵器」だったことに後で気づくことになる。有権者は船舶検査でそれを見逃してしまった。麻生太郎船長が発表した「積荷目録」はどうだろうか。
ここで想起すべきは、植木枝盛の言葉である。「世に単によい政府なし」。政府というのは、そのままでは常に悪くなる。これは政権交代後も同じである。だからこそ、有権者の不断のチェックが必要なのである。植木はいう。「疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」(『植木枝盛選集』岩波文庫)。「マニフェスト」騒ぎのなかで、植木の言葉はいまにも通ずるものがある。有権者は「疑」の観点を常にもって、「積荷目録」だけでなく、候補者をしっかり観察し、慎重な判断を下す必要があろう。