今回は677回目の「直言」である。700回記念のような区切りのよさはないが、あえてこの機会に、私とこの直言のスタンスについて述べておきたいと思う。
直言を始めたばかりの頃、「批判的スタンスを維持すること」を出した。そこでは、「当たり前のことをだれも言わなくなったとき、その当たり前のことを語りつづけることこそが、批判的かどうかの試金石となる」という憲法学者・樋口陽一氏の言葉を引きながら、「今後とも、『批判の学』のスタンスを崩すことなく、憲法と平和をめぐる諸課題について、建設的な問題提起を行っていきたい」と結んだ。
それから11年が経過した。この間、自さ社連立政権、自自連立政権、自自公連立政権、自公保連立政権、自公連立政権の7つの内閣と対峙してきた(「さ」は新党さきがけ、「保」は保守(新)党」)。直言の更新は、橋本龍太郎内閣のもとで85回、小渕恵三内閣90回(そのうち「ドイツからの直言」55回)、森喜朗57回、小泉純一郎内閣284回、安倍晋三内閣52回、福田康夫内閣52回、麻生太郎内閣52回、である。小渕内閣末期の怪しげな権力移行に疑問をもって、異例ではあったが、森内閣については在任中、首相の名前を出さないで「あの男」で通した。一見して明らかなように、小泉内閣のもとでの直言が圧倒的に多い。小泉首相については、その言説や政治手法について執拗に批判を加えてきた。また、ポスト小泉の「総理・総裁」候補の「注目株」とされた「麻垣康三」。うち、麻生太郎、福田康夫、安倍晋三の3人は、偶然だがすべて52回である。直言は原則週1回の更新だから、その「在任期間」が1年前後で終わったことが、ここからもわかるだろう。このうち、安倍首相についてはその政治姿勢の危なさ故に、麻生首相についてはその資質と人間性の故に、かなり厳しい批判を展開してきた。それは、バックナンバーの「政治(政治家・政党も)」をクリックすれば読むことができる。
一方、米国はどうか。直言では、クリントン(1993年1月20日~2001年1月20日)、ブッシュ(2001年1月20日~2009年1月20日)、オバマ(2009年1月20日~)の3大統領について書いてきたが、ブッシュ大統領が圧倒的に多い。その8年の在任期間すべてに付き合うことになった。ふり返ってみると、この直言は、「ブッシュ・小泉」路線と対峙してきたといえるかもしれない。
さて、8月30日の総選挙によって政権交代が起こり、「民社国連立政権」の鳩山由紀夫内閣が発足した。一方、ポスト小泉「麻垣康三」のなかの最後の一人、谷垣禎一氏が自民党総裁となった。加藤紘一氏とともに、党内良識派に属する人物だが、もはや「総理・総裁」ではない。
本日、鳩山首相による所信表明演説が行われる。会期わずか36日間の臨時国会の幕開けである。一昨日、NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」で、「鳩山内閣発足1カ月」について語った。そのなかで、鳩山内閣が打ち出したこの間の政策に関連して、新聞各紙を対比しながら、「『政治主導』の過度の強調には危うさも感じます。…『政治主導』が、気負いすぎた『政治家主導』に矮小化されないよう、新政権には自覚を求めたいと思います」と指摘した。
鳩山内閣のもとでの直言は、まだ4回である。今回が5回目にあたる。この直言のスタンスは明確である。常に政権批判の視点をキープしていく。政権交代によっても、それを変えるつもりはない。もちろん、鳩山内閣の場合、スタート段階では評価できる政策も少なくない。ただ、立憲主義の観点から、「権力に対するチェック」の姿勢を怠らず、直言の執筆を継続していきたいと思っている。
私はまた、この直言とほぼ同じ12年間、ラジオという媒体も使って発信してきた。その内容は、今年4月、単行本にまとめて出版した。『琉球新報』10月18日付の書評は、「著者〔水島〕の真骨頂は、権力を監視・批判するジャーナリズムが『権力者と「共犯」関係になった過去(現在も)も決して忘れるな』とくぎを刺すあたりにある」と指摘している。
実はいま、新聞もまた、大変むずかしい局面にきていると思う。ネット時代で、紙媒体が売れないという深刻な問題もあるが、それとは別に、「権力を監視・批判する」という本来任務の点で、さまざまな問題も生まれている。とりわけ、権力との距離という、新聞の本来任務に関わる部分で問題となる、一つの兆候をここで紹介しておこう。
今年8月、北海道教育委員会は、新聞1紙だけを使った授業は偏っているという趣旨の通知を出した。『北海道新聞』9月12日付コラム「卓上四季」は、「《ああわからない、わからない、今の浮世はわからない》。そんな明治の演歌が耳に響くようだ」という書き出しで、こう続ける。「道立高校が、衆院選に関する北海道新聞の社説を教材にした。道教委によれば、それが不適切な指導だという。その理屈がまったくわからない。『自民党批判に見える社説を教材にするのはおかしい』と保護者から聞いた(自民党)道議の指摘から、道教委が調査を始めたという。どんな厳しい自民党批判かと読み直したが、各党の主張を併記した抑制的なものだ。…」と。道教委は、1紙のみの社説を活用することが「偏った認識を持たせかねない」というのだが、2紙、3紙にしても、共通の論調というものがある、とコラムは説く。その通りだろう。政権は、メディアの批判に敏感である。しかし、社説を使った授業にまで難癖をつけるのはいかがなものか。コラムは、「政権批判を封じ込めたがる、時代錯誤の気配を感じた」と結ぶ。
10月20日付「卓上四季」は、再びこの問題を取り上げ、この間、「1紙だけだと偏った認識を生徒に与える」とした通知を撤回しない一方、1紙だけ使うことを「禁じるわけではない」という形に変化してきたことを、道教委の「揺れ」と指摘。「使う社説や記事が1紙なのと、授業の公正・不公正はもともと関係がない」「『1紙では不適切』と単純に決めつけたあの通知は何だったのか。…道教委の論理破綻である。一連の出来事は『道新の社説は自民党を批判しているように見える』とする道議の指摘が発端だ。だが道教委には不適切とは読めなかったから、『1紙だけではだめ』との形式論理を編み出し、政治家に寄り添ったのではないか」と指摘している。
北海道からずっと離れた沖縄の『琉球新報』がこの問題を10月18日付社説で取り上げ、小中高などの教育現場で新聞を活用するNIE(Newspaper in Education)の取り組みに水を差す出来事と批判。「インターネットを含め玉石混交の情報がはんらんする中で、メディアが伝える内容をうのみにせず、批判的に読み解く力を養うのもNIEの眼目とするところだ。もとより論説には何らかの主張がある。これを熟読させ、生徒自身の視点で考察・評価させる意義は大きい。1紙だけを教材にして活用したとしても、問題にすべき点は何一つない」。そして、教育現場への政治介入の面も指摘して、「教育界、新聞界が協力して社会性豊かな青少年を育成するというNIEの趣旨が、政治的な思惑でゆがめられてはならない」と書いている。沖縄のメディアは橋本内閣時代から、「偏っている」と政権側から攻撃されてきた。沖縄地元2紙や『八重山毎日新聞』は、政権批判の姿勢が鮮明だから、今度は、「地元紙だけを使うのは偏っている」〔産経や読売も使え〕という言い換えもあり得るからである。だから、『琉球新報』は北海道で起きた「1紙だけ」事件に敏感に反応したのだろう。政権を批判するのは新聞の当然の使命である。それを「偏っている」というのはおかしい。
民主党幹事長は「記者会見嫌い」で有名である。官僚の記者会見禁止という強引な手法が発足直後に出てきているので、今後、メディアとの対立構図はさまざまな場面で深まっていくだろう。強引な政治手法がエスカレートして、学校現場に、自民党道議や道教委と同じ発想で介入することのないよう、現政権に対しても、今から自制を求めておきたいと思う。
権力とは、想像以上に強大である。権力担当者の「善意」が思わぬ暴走の原因にもなる。だから、権力を監視する意味での批判は、よりよい国家運営に不可欠だといえるだろう。私も憲法研究者として、立憲主義の観点から、時の政権の施策を批判的に検証していく。政権交代によっても、この直言のスタンスを変えるつもりはない。このことを、鳩山首相の所信表明演説当日に、「所信表明」しておきたいと思う。