昨年8月のNHKスペシャルは秀作揃いだった。「海軍400日の証言」についてはすでに触れた。 8月16日午後9時放送の「気骨の判決」は、いろいろな意味で興味深かった。戦時中に大審院(現在の最高裁)が、選挙無効判決を出したという話である。判決の存在は知っていたが、それに関わった裁判官について詳しい知識がなかった。これをみて、裁判官の「良心」について改めて考えさせられた。
1942年4月の第21回総選挙。この選挙のことは、高校の日本史用語集にも「翼賛選挙」として、けっこう詳しく載っている。時はミッドウェー海戦の2カ月前。アジア・太平洋戦争の真っ只中である。「翼協」(翼賛政治体制協議会〔会長・阿部信行元首相〕の略)の腕章を付けた運動員や、県知事といった公職にある人々までもが、「非推薦候補」(東條内閣が推薦しない候補)に対して、執拗かつ組織的な選挙妨害行為を行ったのである。非推薦候補のなかには、鳩山一郎、尾崎行雄、斎藤隆夫、片山哲、三木武夫といった、後の首相クラスもいた。これらの人々は選挙妨害を受けて苦戦し、落選した人も少なくなかった。選挙結果は、大政翼賛会系の圧勝だった。あまりにひどい選挙妨害だったため、落選した候補者らは、選挙無効を求める訴えを大審院に対して行った(選挙関係事件は、大審院が一審で終審)。このうち鹿児島2区の事件を担当したのが、大審院民事第3部の裁判長、吉田久判事であり、このドラマの主人公である。
吉田裁判長には俳優・小林薫が扮し、ごく普通の裁判官として、また、よき家庭人として描かれている。 「時局」に鑑みれば、選挙無効判決などあり得ない。裁判所は訴えを退けるだろうというのが大方の予想だった。ところが、吉田裁判長は違っていた。 彼が注目したのは、衆議院議員選挙法(現在の公職選挙法)82条である。 「選挙ノ規定ニ違反スルコトアルトキハ、選挙ノ結果ニ異動ヲ及ボスノオソレアル場合ニ限リ、裁判所ハソノ選挙ノ全部又ハ一部ノ無効ヲ判決スベシ」。 「選挙の規定違反」とはどのような場合か。当時の選挙法注釈書では、正規の投票用紙を使わなかったときや、選挙人以外が投票したときなど、極端な場合に限定されていた。吉田裁判長は、「たとえ政府であっても、その自由公正さを害する大干渉をしたならば、それは選挙の規定に違反するものであり、それが選挙の結果に影響を及ぼせば、選挙無効の判決をすべきだ」と主張した(NHK記者・清水聡『気骨の判決――東絛英機と闘った裁判官』〔新潮新書、2008年〕。以下でも随所で参照)。まさに正論である。
吉田裁判長のほか、陪席判事は4人。合議は長時間におよんだ。結局、鹿児島の現地に裁判官全員で赴き、有権者らに出張尋問を行うことになった。 ドラマでは、一人ひとりの判事の置かれた事情にも、過不足なく触れられている。 そして、一人ひとりが、それぞれの判断で、判決を完成させるべく努力していく姿が淡々と描かれていく。 鹿児島での出張尋問では、有権者や運動員、行政関係者など200人近くが尋問された。地元の有力者たちの反発も激しく、 裁判官たちは、陰湿ないやがらせや、さまざまな圧力に直面する。吉田は内心、死を覚悟していたという(清水・前掲書)。
番組では、大審院長からの露骨な圧力も描かれる。司法大臣からは脅迫に近い圧力が。 ちなみに、「大津事件」の大審院長児島惟謙も、「司法の独立」を守った裁判官として日本史の教科書にも出てくるが, 実は、彼は大津地裁の判事たちに対して、政府の言うことを聞くなという形で露骨な圧力をかけていた。 だから、「大津事件」とは、「司法府の独立」を守って、「裁判官の職権の独立」を侵した事例と考えた方が実際に近い。 偶然だが、吉田判事に圧力をかけた大審院長も児玉某だった。硬軟織りまぜた、担当裁判官へのさまざまな圧力のかけ方を、番組はリアルに描いていた。
国が存亡の危機にあるとき、どこまでも法に忠実であろうとする裁判官。彼らは合議の末、一つの結論に達した。吉田判事を裁判長とする大審院民事第3部は、鹿児島2区の選挙を無効とする判決に至ったのである。
1945年3月1日。判決が言い渡された。2万字に及ぶ判決文は、政府の関与を明確に認定していた。政府による選挙運動を「憲法および選挙法の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなりやは、大いに疑の存する所」と断定。そして、5点にわたって事実認定を行い、政府が関与した「不法選挙運動」の実態を明らかにするとともに、県知事による組織的な選挙干渉も認定した。 番組では、直言で紹介した「翼協」の腕章が何度も出てくる。そして、県知事や助役、学校長など、公的な立場にある人たちまでもが選挙妨害に手を染めていくさまを描いている。
他方、有権者の多くもまた、「国家総力戦」のなか、「政府が推薦した候補者に投票するのは当然である」と考えていた。もはや選挙ではなかった。だが、吉田久という裁判官は、そのような論理を認めなかった。選挙法の解釈をきちんとやって、選挙を無効としたのである。
判決から19日後の3月20日。鹿児島2区で再選挙が実施された。空襲の合間をぬっての投票である。非推薦候補は当選できなかったものの、得票を前回の2倍以上にのばした(清水・前掲書)。「終戦」まで5カ月足らず。そんな時期の再選挙に意味があったのか。政治的にも、実際的にも意味はなかっただろう。しかし、戦時中に選挙無効判決が出され、その結果として再選挙が行われ、有権者が、体制側の推薦を受けない候補者に2倍の支持を与えたという事実は、戦後民主主義と日本国憲法へとつながる「多年にわたる自由獲得の努力」として、また、裁判官の「良心」のありかを示すものとして、価値あるものと言えよう。
なお、吉田は、判決言い渡しの4日後に、大審院判事を辞任している。そして、直後の3月10日、東京はB29の大編隊に空襲され、霞が関の大審院は全焼してしまう。判決原本や裁判資料は焼失し、この判決の原本も存在しないとされてきたが、近年、奇跡的に発見された。空襲の火炎の最中に、判決原本は書記官によって持ち出されていたのである。誰が、なぜ。この問いには答えはない。
ただ、不思議なことに、同じ時期に言い渡された鹿児島1、3区の原告敗訴の判決は存在しないのに、2区の吉田判決だけが持ち出されていた。清水・前掲書は、裁判所の書記官が「緊急時に持ち出すとしたらどの判決が大切なのか、価値を知っていたのだろう」と推測している。私もそう思う。もっと言えば、書記官や事務官が、火災の混乱のなかで咄嗟に判断したというよりも、おそらく非常持ち出し用の重要書類の選別を事前にやっていて、それにこの判決原本をこっそり含めておいたというところだろう。事務方にも、吉田裁判長とこの判決は、尊敬と敬意をもって処遇されていたのではないか。
ところで、吉田は戦後、こう語っていたという。「私は、この判決をするにもいささかの政治的理念には左右されなかった。もし、判決が時の政治理念を支えてなされたとするならば、その判決は不純であり、死んでいると考える」(清水・前掲書)と。 政府・軍の圧力のなかで、それに抗する判決を出すことは大変勇気のいる行動と思いがちだが、とうの本人は、法の解釈をきちんとやって、法に基づいて事案を解決するという、裁判官としてやるべきことを当然のようにやっただけだ、と言いたいのだろう。そこに、裁判官としてのプロフェッショナリズムを感ずる。 ドラマのなかで吉田判事を演じた小林薫は、そのあたりをこう述べている。「吉田さんはしっかりした人格の持ち主。でも、英雄のような話になると面白くなくなると思い、吉田さんが審理中に抱えていた心のグレーゾーンをうまく表現するように心掛けました」(「マイニチとっちゃお」『毎日新聞』2009年8月16日テレビ特集版)と。
「心のグレーゾーン」とはうまい表現だと思う。私はちょうど1年前の4月に、 『長沼事件 平賀書簡――35年目の証言』を出版した。自衛隊違憲判決を出した福島重雄元裁判長から直接聞き取りを行い、彼が長年にわたってつけていた日記の提供を受け、それをベースに第1 部を書き下ろした。
長沼ナイキ基地訴訟は、自衛隊の憲法適合性を正面から問う一大憲法訴訟に発展した。裁判官も判決それ自体も、政治色濃厚な世界のものと理解されがちだった。しかし、上掲書で明らかにしたように、福島裁判長もまた、裁判官として当然のことを、当然のようにやった、という意識なのである。海軍兵学校出身で、年に一度の同期会では、軍歌を歌い、海軍の旗を打ち振るのである。政治的な理由から自衛隊を違憲としたのではなく、まさに憲法および法律に従えば、あのような結論になるのが自然である。当然の判決を書いたにすぎない、と本人は考えている (詳しくは、 上掲書参照)。
福島裁判長に対する平賀健太札幌地裁所長の圧力のかけ方は、吉田裁判長が体験したようなものとは異なり、かなり隠微なものである。そもそも、なぜ、平賀書簡なるものが出てきたかと言えば、福島さんは、「慎重にね、慎重にね!」としつこく迫る平賀所長と会いたくなかったので、夏休み期間中、わざと平賀所長と休みをズラしてとっていた。そのため、平賀所長は、裁判所内では会えない福島裁判長宛に手紙を書いたわけである。これが平賀書簡問題の「始めの一歩」である。
所長からの書簡の存在を公表した福島裁判長は、そのため、国会の裁判官訴追委員会に訴追請求されてしまう(結果は訴追猶予)。福島裁判長もまた、「心のグレーゾーン」を抱え、悩みながら行動していたのである。そのことは、上掲書で紹介した「福島日記」の随所に出てくる。
吉田裁判長も福島裁判長も(それぞれの陪席判事も)、すべて裁判官としての「良心」に従って判決を出したにすぎない。ここで憲法76条3項の「良心」について少し触れてみたい。 「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」。憲法や法律など、客観的法規範に従うことは理解しやすい。しかし、「良心」というのは、主観的な響きがある。 裁判を行うとき、裁判官を拘束する「良心」とはいかなるものか。「違憲判決なんか書いたら、最高裁に目をつけられて、次の人事で東京の裁判所に戻れないよ。子どもの受験があるんだろう?」という「両親」に従って裁判してはならない。親の面倒を看るために同居できる判決を書く、という親離れしない裁判官もいるかもしれないので、特に指摘しておきたい。
ここでいう「良心」とは、個々の裁判官の個人的または主観的な良心ではない。「裁判官としての客観的良心」ないし「職業的良心」と捉えるのが通説である。憲法19条の「思想・良心の自由」にいう「良心」でもない。 かなり古い最高裁の判例には、「良心に従ひ」とは、「裁判官が有形無形の外部の圧迫乃至誘惑に屈しないで自己内心の良識と道徳観に従う」ことであると判示している(最大判1948年12月15日)。
去年、政権交代が起きた2009年8月の総選挙について、「一票の格差」を理由に選挙無効を求める9件の訴訟が全国各地で起きた。最近、判決が全国各地で出されている。なお、裁判所の対応は9件中、4件(大阪、広島、名古屋、福岡)が違憲判決、2件(東京、福岡・那覇支部)が違憲状態判決、1件(東京)が合憲判決で、2件(札幌、高松)は4月に判決が出る予定である(『朝日新聞』2010年3月19日付)。
全国の高等裁判所の9つの法廷(高裁判事27人)で、この問題が扱われてきた。1つ位は「選挙無効」の判決が出てもいいように思う。それぞれが独立して職権を行使して判決を出すのだから、横並びで同じような結論になる必要はない。「選挙無効」判決が出れば、再選挙となる(当該選挙区のみで投票される)。これは、立法府にも刺激になるのではないか。「たかが裁判所、されど裁判所」。だからこそ、裁判官の職権の独立が大切なのである。
私のゼミ生も、いま4人が裁判官としてがんばっている。学生時代の顔を思い浮かべながら、「がんばれよ」と心のなかで応援している。裁判官としての「客観的良心」(職業的良心)に磨きをかけ、よい仕事をしていってほしいと願う。
《付記》写真は旧札幌控訴院(現・札幌市資料館)の法廷と、大通り 西11丁目にある札幌地方裁判所の遠景。2007年9月筆者撮影。