政治家の剽窃――ドイツでも政治不信が深刻 2011年7月18日

本の立法府には法学博士(博士「法学」)が一人もいない。医学や工学などの博士号をもつ政治家は衆参両院合わせて29人(外国の大学は5人)いるいずれ「法務博士」の政治家も出てくるだろうが、これは厳密な意味での博士号ではないのでカウントされない。他方、ドイツには、法学博士の政治家がたくさんいる。これはドイツの博士論文(Dissertation)の基準が日本よりも低いということがある(もっとも、日本でも「課程博士」を出せという圧力のなか「博士多売」の傾向が強まり、水準は確実に下がっているが)。だから、ドイツの場合、会社の部長クラスやホテル総支配人などにも、名刺に”Dr.jur.”(法学博士)と刷り込んだ人がけっこういる。

そのドイツで、ここ数カ月、政治家の博士論文盗作・剽窃事件が相次いでいる。というよりも、スキャンダルにするため、インターネット上の「剽窃ハンター」(Plagiatsjäger)が、博士号をもつ政治家の論文を詮索し、それをネット上で公表していることが大きい。今年3月28日、VroniPlag Wiki”という博士論文剽窃探索サイトが、インターネットのWiki上に創設された。その後、メディアには「論文の46%が剽窃に該当する」といった記事が頻繁に載るようになる。大学が慌てて調査委員会を作り、博士号を剥奪する。こういう「不祥事の連鎖」が続いている。いやな時代になったものである。

その走りは、直言「コピぺ時代の博士号」でも紹介した、キリスト教社会同盟(CSU)の連邦国防大臣(…zu Guttenberg)のケースである。その後4カ月の間に、自由民主党(FDP)の女性の欧州(EU)議会議員(S.Koch-Mehrin)、続いて同じ党の男性議員(J.Chatzimarkakis)、連邦議会議員(B.D.-Sarai)、そしてバイエルン州元首相の娘(V.Saβ)、キリスト教民主同盟(CDU)の連邦議会議員(M.Pröfrock)、同党のニーダーザクセン州文化大臣(B.Althusmann)、社会民主党(SPD)の連邦軍指揮幕僚大学講師(U.Brinkmann)と続く。

直近のものとしては、FDP政治家の剽窃疑惑が再燃している(M.Mathiopoulosのケース)。この人物については1989年に剽窃疑惑が起きたが、博士論文の指導教授(Doktorvater)が著名な政治学者(K.D.Bracher)だったため、疑惑を鎮静化させた経緯がある。ネット上でのハンターサイトでは、まるでバーコードのように、剽窃疑惑の箇所が色で浮き彫りにされ、何割くらいが剽窃かが一目瞭然となる(例えば、赤色は1頁につき75%以上が剽窃!)。
   ある評論は、「コピペ博士は偶然ではない。それは兆候であり、大学の外でも、我々すべての問題になっている」として、「急速な出世」(Blitzkarrie)を装う傾向を危惧する(I.Kappert,Doktorsterben statt verdummte Gesellschaft,in:die taz vom 14.7.2011)。

気になるのは少数野党のFDPの議員が多いこと。そして、ギリシャ系ドイツ人が複数いること。何やら政治的臭いが漂う。大学別では、バイロイト大学、ハイデルベルク大学、ボン大学、チュービン大学、コンスタンツ大学、ハンブルク大学と、有名大学が続々挙がっているが、なかでもボン大学が複数のケースを出している。かつて首都だった関係で、政治家からの博士論文審査請求が多かったことによると見られている。

私が12年前の在外研究の際にお世話になったボン大学公法研究所。その現在の主任教授(W.Löwer)がドイツ研究振興協会(DFG)のオンブズマンをやっており、盗作・剽窃問題で、『シュピーゲル』誌のインタビューに答えている(Der Spiegel vom 4.7.2011,S.128)。そのなかで、大学に、必要な創造性や緊張感が欠如していたことを率直に認めている。博士論文審査について大学に緩みが生じていたわけである。前国防相のケースでは、指導教授は著名な憲法学者(P.Häberle)である。政治家の論文審査ということで、甘さが出たことは否めないのではないか。それにしても、政治家のスキャンダルのネタが女性問題や金銭問題ではなく、博士号をめぐる疑惑というのもドイツらしいかもしれない。日本ではせいぜい「学歴詐称」程度である

政治家の博士論文剽窃事件が連続して起きるなか、ドイツ国民の政治不信は極限に近づいている。ニュールンベルクの市場リサーチ社(GfK)がこの7月12日、「ドイツ人が信頼する職業グループ」を、20のカテゴリーに分けて調査したところ、最も信頼されているのが消防士ということがわかった(98%)。次が医者(89%)。郵便職員(86%)、警察官(85%)、教師(84%)、裁判官(79%)…と続く。では政治家はどうか。驚くべきというか、当然というか、最下位の9%だった。「政治家のイメージは、歴史的どん底にまで落ち込んでいる」(Die Welt vom 13.7.2011)。

ドイツで尊敬度の高かった連邦大統領の権威も落ちている。かつてヴァイツゼッカー大統領は、その知的容貌と知的言葉の一つひとつが日本でもよく知られた。だが、H.ケーラー前大統領は「アフガン派兵はドイツの経済利益のため」という趣旨の発言をして、任期途中で辞任している。現在のヴルフ大統領も軽量級で、尊敬度はきわめて低い。

最近、ドイツの新聞サイトで、「政治の危険な再封建化」という評論を読んだ(Th.Schmid,Die gefährliche Refeudalisierung der Politik,in:Die Welt vom 12.7.2011) 。EUのギリシャ金融支援から脱原発の「エネルギー転換」に至るまで、政治は、その行動を説明することを頻繁に放棄している。「不気味な、反民主的傾向」として危惧されている。日本では高く評価されているメルケル首相の「脱原発」方針。しかし、議会での十分な議論もなく、「フクシマ」後の反原発的な風潮をにらんだ、かなり唐突な決断だった。一方、ギリシャの金融・財政支援問題でも、州議会議員選挙を意識して援助を過度に抑制したり、逆に支援のタイミングを外したりと、ぶれと中身の粗が目立つ。しかも、議会を軽視し、メディアの前で突然の転換を行うなど、これは日独共通しているようである。日本では脱原発についてのメルケル首相の決断について評価が高いが、そう単純ではない。むしろ説明責任を放棄する傾向が危惧されている点に注意すべきだろう。

ドイツでも日本でも、重要な政策転換が「政局的に」決まっていくのが特徴である。この傾向は政権交代前からすでに見られたものの、菅直人政権になって極端な形で発展している。その典型が「脱原発」記者会見である。

先週の水曜日(7月13日)夕方、菅首相は緊急に記者会見して、「原発に依存しない社会を目指す」と、「脱原発」の方向を打ち出した(7月14日付各紙。写真入り一面トップは『読売』『毎日』で、『朝日』『東京』の扱いは小さかった)。すぐに官房長官が「将来の希望」と限定した見方を示し、官房副長官は「単なる願望」と切って捨てた。『朝日新聞』7月15日付第3総合面は、この言葉を縦見出しに並べている。首相が記者会見した内容を、政府首脳が「将来の希望」から「単なる願望」にまで貶めていく内閣は見たことがない。そして、その日のうちに、首相は「私自身の考え方」という形に、一気にトーンダウンさせた。この程度のことならば、閣議で議論もしていないのに、突然の記者会見を開くべきではなかっただろう。このゴタゴタで、被災地のがれき処理を全額国の負担で行う「廃棄物処理特例法案」や、「二重ローン救済法案」など、被災者のため緊急に必要な法案の審議がさらに遅れていく。その観点から言うと、『読売新聞』一面コラム「編集手帳」(7月15日付)の「笑い話」がリアルになってきた。

――女性ふたりの会話より。「私、30歳になるまで結婚しないわ」「私、結婚するまで30歳にならないわ」(馬場実『大人のジョーク』(文春新書)から引いた。笑えない改訂版をひとつ。「私、震災対応に一定のメドがつくまで、首相を辞めない」「私、首相を辞めるまで、震災対応に一定のメドをつけない」。

菅首相の次なる関心は、9月末の国連総会のようで、演説原稿の準備を事務方に指示したという(『産経新聞』7月17日付)。これで「一定のメド」はさらに延長されていく。これは、ドイツの評論がいう「政治の再封建化」を超えて、政権の私物化ではないだろうか。

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