退去を禁ず――大阪空襲訴訟で問われたこと 2011年8月15日

日は66回目の「終戦記念日」である。「3.11」後の「8.15」ということで、さまざまな読み解きが行われるだろう。そうしたなか、今年も原爆・戦争関連の番組が放映された。そのうちの2本をみた。ともにNHKスぺシャル、「原爆投下――活かされなかった極秘情報」(8月6日、NHK総合)「二度と原爆を使ってはいけない――ナガサキを見た占領軍司令官」(8月8日、同)である。

前者は、陸軍の特殊情報部(参謀本部第2部の下部機関)が、テニアン島のB29のコールサイン(V600番台)から、原爆投下の特殊任務機をつきとめ、その日本接近を参謀本部に報告していた事実を、関係者の証言で裏づけていく。参謀総長らは、長崎への原爆機の接近を知りながら、ソ連参戦の混乱のなか、何の手も打たなかった。番組では、長崎・大村海軍基地にいた局地戦闘機「紫電改」の元パイロットが初めて証言。もし出撃命令が出されていれば、原爆機を迎撃していたと語っていたのが印象的だった。元パイロットの無念さが伝わってくる。「危険が迫っていることを知りながら、最後までその重大な情報を伝えなかった軍の指導者たち。二度にわたる悲劇は、国を導く者の責任の重さを今の時代に問いかけています」。結びのナレーションは、スピーディ(放射能影響予測システム)のデータを首相官邸が知りながら公開せず、汚染された北西部に避難した人々を被曝させるなど、福島原発事故後の菅内閣の対応について語っているようだった。

後者は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の長崎軍政部司令官ビクター・グレノア陸軍中佐が、米国が使用した核兵器を明確に否定し、二度と使ってはならないと訴えていたことを、中佐の娘夫婦が長崎を訪れ、父の足跡を訪ねることを通じて明らかにしていく。長崎に来る前、グレノア中佐は、ヨーロッパ戦線で、ブーヘンヴァルト強制収容所の解放にかかわった。そこで見たナチスの蛮行と、米国が行った長崎への原爆投下とが重なり、苦悶する。娘に託された絵の意味が終盤に明らかになっていく箇所は感動的だった。

さて、今回の直言で書いておきたいことは、大阪空襲訴訟のことである。1945年3月13日に始まる大阪大空襲。一般市民1万5700人以上が死亡した。この空襲の民間人被災者と遺族23人は、2008年12月8日、国が旧軍人・軍属には援護制度を設けているのに、空襲等による民間人被災者については何もせずに放置してきたことは違法であるとして、損害賠償を求める訴えを、大阪地裁に起こした。東京大空襲訴訟に続く、この種の訴訟としては2件目となる。

2011年2月28日午後、大阪地方裁判所202号法廷で開かれた大阪空襲訴訟第8回公判において、私の証人尋問が行われた。論点は主に、空襲被害と防空法の退去禁止との関係についてである(証言の模様は、『朝日新聞』2011年3月1日付大阪市内版に掲載)。

この訴訟にかかわるようになったのは、2010年1月18日18時21分着信の1通のメールからだった。私が会長をしている早大公法研究会(1953年創設)の2004年度幹事長を務めた西川大史君からのもので、彼が大阪空襲訴訟弁護団の一員であることをこれで初めて知った。防空法制について、弁護団に対していろいろとご教示をお願いしたいという内容だった。超多忙だったので、これまでその種の依頼はお断りしてきたが、西川君の依頼ならば一肌脱ごうと、大阪まで行くことに決めた。研究室にあった大きなカラー版『国民防空図譜』(陸軍省防空課監修、日本防空報国会発行)――後に甲第A112号証として大阪地裁に提出され、証人尋問の際、画面に出して裁判官に説明することになる――や『防空絵とき』(内務省推薦、大日本防空協会編・発行)岐阜県大垣市に投下されたテルミット焼夷弾や、M69集束焼夷弾の現物を大きな鞄に詰め込み、新幹線で大阪に向かった。弁護団へのレクチャーでは、この『国民防空図譜』などを使って、「焼夷弾恐れるに足らず」という思想を民衆に刷り込んでいく国家の手法を詳しく説明した。

その後、弁護団に、防空法制関係の論点を担当するチーム(「水島班」というらしい)が作られた。キャップは大前治弁護士である。彼の問題意識の鋭さは特筆に値する。チームの3人の弁護士は何度も東京の研究室に足を運び、防空法制の史料に基づく具体的な主張を組み立てていった。研究室にある防空法制関係史料や灯火管制のためのグッズ各種の伝単(米軍が空から撒いた空襲警告ビラ)なども弁護団に提供した。25年以上かけて収集してきた貴重史料である。およそ研究室の外に出すことなど考えもしなかったが、そうさせてしまう熱意がこの弁護団にはあった。

実は大前氏は、この訴訟が始まってすぐ、ネット上で、私が14年前に書いた防空法制に関する論稿を見つけ、それを訴状のなかに(無断で!)用いていた。最初のレクチャー後、大前氏はたくさんの疑問点を設定して、それを裏づける課題を次々に提示してきた。その後も、彼は防空法制関係の史料読みを徹底して行い、国会図書館などで新たな史料も見つけてきた。私がかつて書いたものをベースに、所蔵する防空法制関係史料の共同分析を加えて、意見書は出来上がった。そして、昨年12月23日、大阪地裁第17民事部宛に提出された

裁判所に提出した私の意見書の序文はこうなっている。
   「本意見書は、第二次世界大戦当時のわが国における防空法制について述べるものである。戦時中の国民は、空襲が予想される都市からの事前退去を禁止されるとともに、空襲時における避難すら許されず、消火活動を義務付けられていた。そのために空襲の被害は著しく重大なものとなり、犠牲者も膨大な数にのぼった。また、政府・軍部は、空襲の危険性を事前に国民に伝えず、空襲が本格化した以降も空襲被害の実相を隠蔽した。これにより国民は空襲時に身を守る方法を知らされず、被害は重大化した。これらは、日本政府が空襲被害者に対して補償する義務(作為義務)を発生させる先行行為となるべき事実である」。

防空法(1937年10月1日施行)はその第1条にあるように、軍が行う防空活動(軍防空)と不可分一体の形で、個々の国民が国防目的に奉仕して、国家体制を守る義務を負うことを、「国民防空」(あるいは、「民間防空」、「民防空」)として制度化した。「国民防空」が目指すものは国家体制の防護であって、国民の生命・財産の保護ではない。国民が保護されることは、国家を守ることにより生じ得る「反射的利益」に過ぎなかった。2度の法改正(1941年と1943年)により防空義務が強化され、国民は空襲から逃げることが許されない状況に置かれることになった。以下、意見書からの引用を交えて書いていく。

中国との戦争で、中国軍が日本本土を爆撃する可能性はほとんどない。だから、当初、防空法は従来の防空訓練に法的根拠を与え、国民を戦争に動員する態勢をつくることに主眼が置かれていた。「防空訓練」への参加は国民の義務であることを社会の隅々にまで周知徹底するとともに、国民に防空協力義務を課したわけである。それにより、従来できなかった大幅な権利制限(特に財産権)も可能となった。また、灯火管制を法的に義務づけ、隣組を通じて、各家庭に灯火を使わないように強いた。それはレーダーや夜間飛行能力をもつ米軍にはまったく無意味だったが、「無意味なことを徹底してやる」ことで、国民生活の統制は強化されていった

実は、防空法の本質的な問題性は、「退去を禁ず」という退去禁止(8条ノ3)にあるというのが私の一貫した問題意識だった。大前弁護士もその点に注目して、それを大阪空襲訴訟の原告側主張の中軸に据えるに至った。

退去禁止と応急消火義務は、1941年の防空法改正により新設されたものである。両者は不可分の関係にある。後者を実効化するためには、その前提として前者が確保されていなければならなかった。当時の政府は、なぜ都市住民を空襲の危険のある都市から退避させなかったのだろうか

都市からの事前退去を認めていては、戦争協力の意思は弱化する。厭戦意識も醸成されてしまう。そういう戦争継続への精神主義的な方針が背後にあったことは明らかである。国民が戦争に協力しなければ、人員や物資を戦争へ総動員する体制は維持できない。都市の労働力減少は軍需物資の生産を困難にする。全国民が「国を守る兵士」として「死の覚悟」を強いられ、その退路を断ったのが1941年防空法改正であったと言えよう。

防空法改正を審議する1941年11月20日の衆議院の委員会において佐藤賢了・陸軍省軍務課長は、次のように述べている(『朝日新聞』同年11月21日大阪本社版)。

「いかなる場合においても戦争は意志と意志の争である、たとひ領土の大半を敵に委かしてもあくまで戦争を継続する意志を挫折せしめなければ、このものは結局において勝つのである。古来わが國の真剣勝負は皮を斬られて肉を断つ、肉を断たれて骨を切るといふ意味の教訓がある。戦争においてもまたこれである。私どもはまた軍としても政府としても民間としても協力一致この防空法にあるごとく諸般の施設を完備し、またすべての訓練実施に遺漏なきを力のおよぶ限りはいたすのである」

真珠湾攻撃の18日前に、佐藤は「領土の大半を敵に委かしても」という前提で語っている。これは米国大使館付き武官を経験した佐藤が、米国と米軍の強大な力を知り抜いていたからこその言葉ではないか。ちなみに、佐藤は対米決戦に積極的で、東條英機首相の側近中の側近となり、「東條の腰巾着」だった富永恭次(陸軍次官、後に第4航空軍司令官)よりもべったりなので、「東條の納豆」と言われた。戦後の東京裁判で佐藤は、最年少のA級戦犯となった。駐米武官を体験しながら無謀な対米戦争に固執した佐藤について、米国の厳しい評価をうかがわせる。

ところで、防空法8条ノ3は、「主務大臣〔内務大臣〕ハ防空上必要アルトキハ…一定ノ区域内ニ居住スル者ニ対シ期間ヲ限リ其ノ区域ヨリノ退去ヲ禁止若ハ制限シ又ハ退去ヲ命ズルコトヲ得」と定めていた。全住民の退去を直ちに禁止するというのではなく、一定区域の居住者に、期間を限定して、退去を命じることができる、という内容になっていた。だが、実際には、一部の例外を除く広汎な国民に退去禁止が義務付けられていたのである。それは法律よりも下位の通牒レヴェルでも定められていた。

防空法改正直後の1941年12月7日〔真珠湾攻撃の前日〕、「空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」と題する内務大臣通牒が発せられた。そこには、防空法8条ノ3よりも徹底して、「退去ハ一般ニ之ヲ行ハシメザルコト」と書かれていた。防空法8条ノ3が「退去を禁止できる」という定め方だったのに対して、通牒レヴェルでは一般的な退去禁止になっていたのである。さらに、防空法施行令7条ノ2により退去を命じ得るとされた老幼病者に対しても、計画的退去をせず、退去を勧めるようなことはしないとされた。かくて、防空法施行令により、「たとひ六十歳前後の老人でも働き得る者は残らねばならない」とされた。実質的には都市からの退去は禁止されていったのである。

退去禁止(8条ノ3)に違反した場合には罰則がある。「6月以下ノ懲役又ハ500円以下の罰金ニ処ス」(19条ノ2、第2号)。罰金だけでなく懲役刑も法定されていた。
   実際にこの条項により処罰された例はほとんどないが、罰則をもって禁止されたこと自体が、住民に対して強度の威嚇効果をもたらしたことは明らかである。他方、児童など弱者の疎開は「防空活動の足手纏ひ」であるから疎開させるというのである。ここにも、防空法の「思想」が顕著にあらわれていると言えよう。

防空法8条ノ3や施行令、通牒などに加えて、隣組防空群などによる社会的統制と監視の仕組みも効果的だった。人々は空襲の危険地帯にとどまることを強制されたのである。
    全国の都市への大規模空襲の開始は1945年3月10日の東京大空襲が皮切りだが、それ以前にも軍事基地・軍需工場やその周辺を標的にした空襲は頻発していた。空襲被害を知れば、多くの住民は「空襲は怖い、逃げよう」、「次は大阪や名古屋が狙われる」と恐怖心を抱き、都市から地方へ逃げ出す群衆が列をなすという事態が生じても不思議ではない。ところが、そのような事態は生じなかった。

いかに罰則をもって退去禁止が命じられていたとしても、自分の生命が危機に瀕していることを承知のうえで多数の住民が都市に居住し続けたというのは、現代の感覚からは理解しがたい。そのこと自体に、当時の住民が置かれた状況の異常さ、いわば「空襲下に縛られていた状況」が示されている。その端的な例が、土崎空襲などと並んで、米軍による「在庫一掃爆撃」(軍事的必要性がないにもかかわらず、残った焼夷弾を処理するための爆撃)であった青森空襲の際に起きた。

1945年7月21日、米空軍は青森市に、爆撃予告ビラ6万枚を投下した(冒頭の方にある伝単がその実物。右上に「青森」とある)。当時すでに東京や大阪などの大都市は空襲で焼け野原になっており、青森市でも同年7月14、15日の空襲を受けていたので、報道規制はあったものの、住民は空襲被害の実相を十分に知っていた。そのため、近隣の町村へ疎開を始める人々も出てきた。青森県の金井知事は、防空法の退去禁止規定を根拠として、28日までに戻らないと、町会台帳より削除し、配給物資を停止すると住民に通告した。物資窮乏のもと、配給を止められることは生存手段を失うことになる。そのため人々は仕方なく再び青森市に戻っていく。期限とされた7月28日、B29爆撃機65機が来襲。同市内は大火災となり、多くの人々が死亡した。このなかには、知事の命令により避難先から青森市へ戻った人も含まれている。
   この青森市のケースは、防空法の退去禁止規定によって空襲被害を受けるに至った端的な例である。都市から退去できなかったために空襲の犠牲となった住民が数多く存在することは、各種の戦争体験記録などから明らかである。

さらに、「応急消火義務」は、単に法律上の規定として設けられただけではなく、実社会に浸透して「効果」をあげた。すなわち、多くの国民は「空襲時に逃げてはならず、防火活動に従事しなければならない」という意識を植え付けられ、そのために「私は家を守るから、子どもたちだけで逃げなさい」といった大人が命を失う例が数多く語り伝えられている。また、隣組の防空活動のなかで死亡した人も多数存在する。「逃げ遅れた」というよりも、「最初から逃げることを断念させられて火の海に取り囲まれた」ということに近い部屋のなかの「簡易待避所」や床下の「防空壕」などに身を寄せ、焼け死んだのである。「待避所」は、消火活動を行うための一時的なものという考え方である。空襲警報が発令された時点で消火活動をせずに避難していれば助かったという事例も存在したはずである。なぜ危険かつ無謀な防空活動に身を投じたのか。その理由は、単に防空法の規定が存在したからだけではなく、政府・軍部が国民に対して巧妙かつ複合的な刷り込みを行ったことにある。

例えば、内務省が隣組や町内会などでの宣伝・教育用に推薦した『防空絵とき』には、「火叩き」の作り方が解説されている。短いものでは1メートルの棒に縄をつけたもの。これで焼夷弾を消すというわけだが、これはまったく笑止千万だった。いや「焼死千万」だった。このような非科学的方法で焼夷弾に立ち向かうことを国家が国民に強制したわけである。
 
   マスコミも国家に便乗した。『朝日新聞』1944年12月1日付には、「手袋の威力焼夷弾も熱くない」という見出しで、手袋をはめれば焼夷弾を手でつかめるから怖くないという防空総本部指導課長の談話が掲載されている。「空襲に勝つ貴重な戦訓『逃げるな 守れ』」(『毎日新聞』戦時版1945年3月28日付)、「避難の足を引き返し、戦い抜いた都民」(『朝日新聞』5月25日付)というトーンでさらに煽った。

当時の警視総監は戦後になって、「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ」と語っている。だったら、なぜその時に言わなかったのか。

東京大空襲の4日後、大阪大空襲の翌日の3月14日。貴族院の審議のなかで、大河内輝耕議員は大達茂雄内務大臣に対して、「火ハ消サナクテモ宜イカラ逃ゲロ、之ヲ一ツ願ヒタイ」と要求したが、大臣は最後までそれを拒否した。「逃げるな」「応急消火義務を果たせ」という国家的な拘束のなかで、多くの人々が焼死していった。大河内議員は、「人貴キカ物貴キカ」と迫った

8月6日に原爆が投下されても、政府は「初期消火」の重要性を説いていた(『朝日新聞』1945年8月9日、10日、12日付)。原爆に対して毛布や布団をかけろとは…。「守るべきものは何か」が完全に転倒した防空法制の行き着く先を示していた

防空義務を課され、都市からの退去を許されず空襲に遭わされた被害や、防空義務を課されたために逃げ遅れたことによる被害は、他国の攻撃により生じた被害というだけでなく、日本国政府が誤った国内政策をとったために生じた被害といえる。これは、日本政府が空襲被害者に対して補償する義務(作為義務)を発生させる先行行為となるべき事実である。また、否応なしに「空襲の最前線」に立たされ、消火活動を義務付けられた一般民間人は、その身体・生命に対する重大な危険性に直面していたという点で、軍人・軍属と異ならない。一般戦災被害者について、軍人・軍属と異なる処遇をすべき合理的理由は存在しないと言うべきである。すみやかに、一般戦災被害者援護法を制定すべき根拠がここにある。

以上は、私の意見書の一部、そして2月28日の証人尋問のなかで述べたことの一部である。作為起因性の不作為責任の法的論点を含め、詳しくは原告側の最終準備書面(2011年6月29日付)をお読みいただきたいと思う

大阪空襲訴訟は、7月11日の第10回公判で結審した。判決は、今年12月7日に言い渡される。訴訟開始が2008年12月8日だから、ジャスト3年である。裁判所は、防空法制の構造的問題性をどのように判断し、それが空襲被害者に対する補償義務(作為義務)を発生させる先行行為となるべき事実として認定するかどうか。

真珠湾攻撃命令(爆撃着手)は12月8日(月曜)午前3時19分(同25分)だが、日付変更線を超えたハワイ時間は、12月7日(日曜)午前7時49分(同55分)だった。判決の日は、現地の真珠湾攻撃70周年にあたる。

トップページへ。