先週も、政治や台風15号被害などたくさんのことが起きたが、目下多忙のため書き下ろし原稿を執筆できなかった。そこで、ストックの「雑談」原稿をアップすることにしたい。
今回は映画の話である。最初からまったく期待しないでみはじめて、早々にこれはすごいと思った作品のことを語ろう。「ネタばれ」を含むので、まっさらな気持ちで作品をみたいという方は読まないでください。
8月上旬のある日、仕事場で答案の採点をしていて、頭が煮詰まってきたところで居間に降りると、たまたま家人が地元の図書館で借りてきたDVDが置いてあった。そのうちの1本はロシア映画だった。題名も中身もまったく知らない。ただ一点、日本の発売元が「シネカノン」だったこと。この会社のことはよく覚えていた。4年前、突然、同社からメールがきて、DVDが送られてきて、その作品の推薦文を依頼されて書いたことがある。映画「TOKKO――特攻」である。そこから、公開前試写会の開催と、映画に出演している元特攻隊員の方との対談までやることになった。ただ、この会社は昨年倒産した。良心的な作品を配給していただけに残念に思っていた。
そのシネカノンのものならば、と予備知識なしにみはじめたのだが、これが実に面白かった。戦争映画にもかかわらず、ユーモアがあって笑いが絶えない。ロシアで2002年に制作され、数々の映画賞を受賞している。
登場人物は基本的に3人。それぞれ言葉がまったく通じない、ディスコミュニケーションの典型的場面が延々と続く。それがまたこの作品のポイントとなっている。
映画の舞台は、副題にある「ラップランド」。スカンジナビア半島北部の北極圏で、フィヨルドと氷河、そしてオーロラのみえる、自然そのものといった地域である。
映画は、若いフィンランド軍兵士が、味方から岩に鎖でくくり付けられるところから始まる。兵士はスウェーデンの大学で学ぶフィンランド人学生である。大学でフィンランド人学生は低くみられるので、インテリぶるために眼鏡をかけている。徴兵され、おそらく命令違反で死刑判決を受けたのだろう。銃殺ではなく、辺境の地に置き去りにされる「刑」に処せられる。わずかな食料と水と狙撃銃を与えられるが、わざわざドイツ兵の制服を着せられる。よくみると、国防軍(Wehrmacht)ではなく、ユダヤ人虐殺などを実行した親衛隊“SS”の徽章がついている。“SS”の恨まれ方は並ではない。ソ連軍が来れば間違いなく射殺されるだろう。死までの時間が長いだけ、残酷である。だが、彼は懸命にその状況から脱出しようと試みる。眼鏡のレンズを使って火をおこし、銃弾の火薬を爆発させ、やっとのことで岩から鎖を取り外すことに成功する。一連の体験から、彼は戦争が馬鹿馬鹿しくなり、「俺は戦争はやめた」と主観的に思っている。兵士は、国家に捨てられ、必死に生き抜こうとする人間として描かれる。このあたりが意表をつく始まりである。
第2の主人公は、ソ連軍大尉。部下の密告により、秘密警察(内務人民委員部[NKVD])の取り調べを受けるべく、前線からジープで移動中、味方のヤク戦闘機の誤爆を受ける。運転手と部下は死亡し、大尉は負傷する。この大尉の父親はタクシー運転手で、大尉が子どものころ、父は偶然、有名な女性の詩人を乗せ、息子(大尉)が書いた詩をみせてほめられる。そのことを彼は誇りとし、以来、詩を書くことを好む。結婚にも2度失敗し、女性には縁がなかった。大尉はそういう人物として描かれている。
そして第3の主人公がフィンランドの先住民族サーミ人の女性。4年前に兵隊にとられた夫は行方知れず。酷寒の地に小屋を建て、トナカイを飼育し、罠を仕掛けて魚を捕って、たくましく単身生活をしている。いまでいう「肉食系」の女性である。
彼女は、負傷したソ連軍大尉を自分の小屋に連れ帰り、手当てをする。そこへ、かろうじて脱出はできたものの、足から鎖が外せないフィンランド兵が銃をもってやってくる。だが、その銃には銃弾が入っていない(鎖外しにすべて使いきった)。
3人が初めて小屋のなかで合いまみえる。緊張の瞬間である。相互に言葉はまったく通じない。ドイツ親衛隊の制服を着た兵士に対して、ソ連軍大尉は「ファシストめ」と怒りに満ちた眼差しを向ける。フィンランド兵は自分では戦争をやめたつもりなので、大尉に親しげに話しかける。その会話に女性も絡む。フィンランド語とロシア語と現地サーミ語という組み合わせのため、相互にまったく意志疎通ができない。大声でしゃべるのに、相手には通じず、相手が侮辱的な言葉を大声で言っていても理解できないために、笑顔を返してしまう。誤解がどんどん広がる。異なる言葉の「三角関係」、壮大なすれ違いがわかるのは、字幕で3人のことを知ることのできる視聴者だけである。
こうして3人だけの奇妙な日常生活が始まる。当初、ソ連軍大尉はフィンランド兵を殺すチャンスを窺っている。だが、大尉は本人のいう「1942年冬の戦闘」(おそらくスターリングラード攻防戦であろう)で病気になって体力が落ちているので、兵士に徒手格闘ではかなわない。刺殺しようとするが失敗する。いがみ合う2人に対して、女性は食事に誘ったり、共同の仕事を与えたりして、争いを棚上げさせる。
だが、大尉は決して心を開かない。対立は続く。フィンランド兵は、トルストイの『戦争と平和』やヘミングウェイの『武器よさらば』を挙げて、自分が「平和」を求めており、武器を捨てたことを伝えようとするのだが、フィンランド語なので、トルストイという固有名詞しか通じない。大尉は「トルストイの家までナチスは破壊したのか」と怒り、取り合わない。
通ずる言葉も一部にはある。兵士は自分を民主主義者だというために、「デモクラティア」という言葉を叫ぶ。デモクラシーの各国語はよく似た発音なので、これだけは大尉にも通じたらしく、その反応は、「でも、お前はファシストじゃないか」となる。フィンランド兵が、「〔大学で〕ロシア語を勉強しておけばよかった」と後悔する場面は印象的だった。
一方、サーミ人の女性は、意識的に2人に共同作業をさせるなどして、2人の戦う心をしだいにそいでいく。その狙いは別に2人の和解を目指しているのではなく、「男のいない生活に男がやってきた」という観点からのものだ。
兵士は自力でサウナをつくり、兵士と大尉は裸になって、体の垢を落とす。女性はいう。「戦争と死の臭いをとって」と。そんな展開のなかで、女性は男を求めて、まず若い兵士と…。年輩の大尉は「負けた」といって嫉妬する。飼い犬の遠吠えが何ともおかしい。食欲と性欲など、人間本来の欲望が、2人から「戦争」を消し去っていく。このあたりの演出と描写は絶妙である。
場面が転換するのは、3人だけの不思議な空間に、ある日突然、ソ連軍の複葉機がやってきてからである。戦争が終わったことを知らせる伝単(ビラのこと)を散布していて、燃料切れを起こし、不時着した飛行機。2人は現場に向かい、沼地に激突した機内とその付近で死亡している女性パイロットを発見する。大尉はフィンランド兵に向かって、「お前たちナチスは、私の娘ほどの女性を殺した」と怒りに震える。一方、フィンランド兵も、女性パイロットの遺体をみて、女性が戦争に駆り出されたことに怒りをもつ。ともに女性の死に怒りを表明しているのだが、言葉が理解できないため、その思いが相手に伝わらない。そこに悲劇が。大尉の手にはパイロットの遺体から密かに得た拳銃が握られている。フィンランド兵は戦争への虚しさから、持っていた銃を投げ捨てようとする。だが、その動作を、銃を撃つと勘違いした大尉は、思わず拳銃を発射。兵士に命中してしまう。伝単には戦争の終結を知らせる文章が各国語で書いてある。それで事情を知った大尉は激しく後悔し、倒れている兵士に「死ぬな」と叫びながら、彼をおぶって小屋に戻る。
サーミ人の女性は兵士に対して、呪術のような「魂を呼び戻す」儀式を行う。このあたりの映像は幻想的で美しい。すんでのところで兵士の魂は肉体にもどり、生き返る。夜通し儀式をやって疲れ切った女性に、大尉はやさしく「おやすみ」と声をかけるのだが、女性は大尉を求め、そのまま今度は…。
そして月日は流れ、3人に別れがくる。どちらも軍服は着ていない。「2人は最初、争っていたが、やがて戦争に疲れた。そして戦うことをやめた。そしてよい友だちになって、私を助けてくれた。ある日、2人が故郷に帰りたがっていることを知り、服と食料を与えて2 人を旅立たせた」。
ラストシーンは書かないでおこう。しかし、DVDのケースや、付録の日本語版予告編の映像には、この最後のシーンがちゃっかり出ていて、完全にネタばれなのだが。
このロシア映画はいろいろな見方ができるだろう。旧ソ連時代の独ソ戦関係の映画はいくつも見たが、戦車がたくさん出てきて物量的に圧倒されるだけで、人物描写は荒っぽい。英雄主義や祖国愛謳歌のものばかりで、記憶に残るものは少なかった。一方、映画「スターリングラード」(米・独・英・愛の合作、2001年)は、狙撃兵同士の一騎討ちみたいで、「決闘」(Duell)というドイツ語原題と、日本語版タイトルはかなり距離があった。
この「ククーシュカ」には、女性兵士を肯定的に描いた旧ソ連映画とは一線を画し、女性まで戦争に動員される戦争のありように対して、これを悲しむフィンランド兵を通じて、戦争とジェンダーへの視点も提供する。
米軍の研究によると、戦場において敵と遭遇して、実際に相手に発砲できる兵士は25%しかいなかったという。驚いた米軍当局は、標的を人間の形に変える。そして、繰り返し、人間の形の標的を瞬間的に撃つ訓練をする。すると、戦場での発砲率があがったというのである。相手と知り合いになってから、それでは殺し合いなさいといってもできるものではない。いわんや、一緒にものを作ったり、助け合ったりすれば、もう殺せない。この映画は、「不思議な三角関係」を通じて、女性1 人に男性2人という文字通りの三角関係だけでなく、実は、2者の憎しみと対立を解消する方法は、そこに第三者(しかも異性)を介在させることで、憎しみと対立のエネルギーを「転換」してしまう話である。ノルウェーの平和学者J・ガルトゥングの主張する「超越法」(Transcend)のことを思い出した。
ガルトゥングによれば、紛争は「解決」するのではなく、「転換」する。つまり、対立する双方の主張や立場を調整するのではなく、双方の矛盾や対立から跳躍して、新しい創造的な道を見つけ出すという方法で、矛盾や対立を「超越」していく(詳しくは、J.ガルトゥング=奥本京子訳『平和的手段による紛争の転換――超越法』(平和文化、2000年)。そこでは、対立する紛争当事者双方と、独立・客観的な立場で対話できる第三者が必要となる。これを「紛争ワーカー」ないし「平和ワーカー」と呼ぶ。
また、紛争転換のための「超越法」では、α)態度における「共感」、β)行動における「非暴力」、γ)対立における「創造性」の三角形がカギとなる。この場合、サーミ人の女性が魅力的な「平和ワーカー」の役回りを演じ、言葉は通じなくても双方に共感が生まれていくこと、そして、厳しい自然のなかで生活を成り立たせるための共同作業が必要となっていること。そこに創造的な意欲が生まれ、おのずと暴力はなくなっていく。
この映画の「不思議な三角関係」そのものが、それぞれに国家を背負った軍隊構成員が、生活に必要な共同作業のなかで憎しみや対立の根を昇華させていく「場」になっているように思う。目標は生活であり、それはきわめて平和的だ。「武力なき平和」への道程において、この「超越法」は重要な意味をもつ。この「ククーシュカ」は、「超越法」のケース・スタディとしてみても面白いだろう。