11月13日午後、栃木県佐野市で講演した。栃木県の講演は3度目だが、佐野市を訪れるのは初めてである。午前中、田中正造ゆかりの場所をめぐった。案内して頂いたのは主催者の山口さんと、田中正造研究者で「渡良瀬川研究会」副代表の赤上剛さんである。赤上さんは、私が会長を務める早大法学部の学生サークル、公法研究会(1953年創設。初代会長は有倉遼吉教授)の初期の会員である。
田中正造は1841年に下野国小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主の家に生まれた。生家を見学したが、県道拡幅で移動されていた。そのため、名称も「田中正造邸宅」から「田中正造旧宅」に改められていた。これが名主の家なのだろうかというほどに小さく、質素だった。名主とはいえ、「村ではやっと中程度」の家だった。母屋の床の間には、「愛」の一文字の掛け軸が。正造の秘書的役割だった谷中村残留民の嶋田宗三によれば、「田中翁の全人格を一語で表せば愛」と語っていたという。
母屋と隠居所の間にある「さるすべり」の木は、正造がいつも見ていたもので、幹のかなりの部分に空洞が出来ていたが、葉がしっかり出ており生きている。なお、県道の向かい側に、「田中正造邸をもとの位置にもどせ」という看板があった。
正造は区会議員、栃木県議会議員、県議会議長と政治家の道を歩み、自由民権・国会開設運動に精根を傾けた。1890年の第1回衆議院選挙に当選して以来、1901年まで連続6回当選した。その間、足尾銅山の鉱毒問題について繰り返し取り上げ、質問してきた。
高校日本史でも大学受験でも「常識」に属する足尾銅山の鉱毒問題と田中正造。ここでは詳しい解説を控えるが、関連する文献などを読んで、ある程度知識はあったつもりの私でも、正造ゆかりの地をまわると、まさに「驚きと発見」の連続であった。
足尾銅山は江戸時代初期に操業が始まり、江戸末期には廃鉱同然だったが、1877年、古河市兵衛が巨額の資金と最新技術を投入して開発した。増産につぐ増産の一方で、安全対策は軽視され、鉱山から排出される亜硫酸ガスや鉱毒の原因となる硫化銅や硝酸銅を含む化合物が流出し、周辺地域や渡良瀬川流域に深刻な被害を発生させた。具体的には、まず魚が姿を消し、漁民が生活できなくなった。上流の樹木が銅山で使う木材や燃料用に伐採され、山の保水力が落ちたところに、製錬所の煙害で山の木々が枯れ、山は丸裸となって、これらが洪水の原因となった。雨が降って洪水になるたびに、有害な鉱毒が拡散。農作物を枯らせて、農民に大きなダメージを与えた。
議会における正造の質問は、現地調査と住民の声を踏まえた説得力あるものだった。これと連動して、鉱毒被害者の大規模な請願陳情運動(「押し出し」)が行われた。その結果、ついに内閣は、足尾銅山鉱毒事件調査委員会を設置した(1897年3月)。だが、「富国強兵」「殖産興業」がトレンドの時代である。政府は、安全を多少犠牲にしても増産をはかる方向に傾き、有効な手をうたなかった。
1900年2月。4回目の「押し出し」のため数千人が東京に向かう途中、利根川北岸・川俣で待ち受けた警官隊による弾圧を受け、多くの負傷者を出す(川俣事件)。正造は激怒。直ちに、「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を政府に提出し、説明演説で鋭く政府を追及した。
1901年10月、正造は衆議院議員を辞職する。そして、一国民として、明治天皇への直訴を決行するのである(12月10日)。なぜ議員辞職をしたのか。憲法上、両議院はそれぞれ天皇に「上奏」することはできるが(帝国憲法49条)、個々の議員が直接天皇に「上奏」することは認められていない。もし正造が現職のまま直訴に及べば、このあたりのややこしい論点で鉱毒事件の本質から外れていくだろう。他方、帝国憲法30条は、「相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」として、請願権を保障していた。そこでは、天皇への直接請願は想定されていないが、正造は議員としてではなく、一国民として請願権の過激な行使に賭けたとは言えまいか。
正造は、帝国議会の開院式から帰る天皇の馬車に、直訴状をかざして駆け寄る。足が弱いためつまずき、警備の警官に取り押さえられる。江戸時代なら直訴は死罪だったから、正造はもちろん死を覚悟していた。ただ、「外見的立憲主義」の明治時代、さすがに単なる直訴を死刑することはできなかった。正造は麹町警察署で取り調べを受けるも、精神に異常がないことが確認されると、その日のうちに釈放されている。刑事訴追はされなかったのである(不敬罪にもならない)。新聞はこの直訴を大きく取り上げ、鉱毒問題は世間の広く知られるところとなった。被害地への視察団や被害民救済の支援者が続出したという。
ついに政府も無視できなくなり、1902年、第二次足尾銅山鉱毒事件調査委員会を設置した。委員会は、正造が要求した足尾銅山の鉱業停止という本質には触れずに、「鉱毒問題」を「治水問題」にすりかえ、洪水による氾濫防止のため渡良瀬川下流域に遊水池の設置する必要があるとして、谷中村を選んだ。栃木県はこれを受けて、買収・廃村計画をすすめるが、正造は谷中村に移住して、残留村民とともに廃村反対運動を展開する。足尾銅山から数十キロも離れているのに、洪水のたびに田畑が鉱毒水に汚染されてきた。この最も被害の大きい村を廃村にして、鉱山が生き残る不条理。正造は関宿(現千葉県野田市)の水門を拡張して利根川の逆流をなくすことで洪水は防げるとして、谷中村復活のための運動を続けた。
そうした活動のなか、1913年9月、正造は胃癌のため死去する。葬儀は、現在は厄除け大師として知られる惣宗寺で行われた。数万人が参列したと言われ、まさに「民衆葬」となった。この寺も見学したが、山門から入って正面に、正造の大きな墓がある。これに気づく人はあまりおらず、その前を右折して本堂の方に向かっていく。ただ、私が写真を撮ろうとしていた時、近くで「田中先生はね…」と話す声が耳に届いた。地元の方のようだった。「先生」を付けるあたり、いまも、正造は地元で尊敬されているようである。
佐野市郷土博物館一階の、正造関係の常設展示は大変興味深かった。「田中正造翁葬儀決算報告書」の現物を見ると、全国各地からお悔やみが寄せられ、そこには立憲改進党結党以来の政友である大隈重信や、尾崎行雄の名前もある。惣宗寺での本葬儀の冒頭、大隈の弔辞が捧げられた。
何より今回の佐野訪問の成果は、博物館で直訴状(写し)を見たことだろう。現物は博物館の奥深く保存されていて、特別の場合にのみ展示される。『田中正造とその時代――天皇直訴100周年』(栃木県立博物館、佐野市郷土博物館、2001年)にその現物の写真が収録されている。細かな字で修正が入り、一つひとつ正造の訂正印が押されている。直訴状は正造の依頼で『万朝報(よろずちょうほう)』記者・幸徳秋水が起草し、正造が35カ所にわたる加筆・修正を行っている。
ここからわかることは、天皇直訴は正造の個人プレーではなく、被害民の要求をバックに、秋水や石川半山(毎日新聞主筆)、沼南=島田三郎(毎日新聞。島田孝一第6代早大総長の父)といったジャーナリストが背後にいて、直訴という事件の形をとり、足尾銅山鉱毒キャンペーンのさらに展開する狙いがあったということである。安在邦夫氏(早大名誉教授)は、「直訴は、一つの象徴的行為であって、頂点的できごとのみを取り上げて論議しても全体像は見えない。一見分散した形で存在している個々の事実をそれぞれ関連・意味づけて考察し、そこから正造に一貫する意識・行動の営為を検証する時、真実は見えてこよう」(前掲書)と指摘しているが、まさにその通りだろう。
直訴状には、正造のこれまでの活動が切々と綴られ、やむにやまれぬ思いで直訴におよんだことがうかがわれる。直訴状で私が注目したのは、天皇に対して、政府に次の6点のことをやらせるよう求めたことである。
(1)渡良瀬川の水源を清めること、(2)川の流路を修築して元どおりの天然の姿に戻すこと、(3)猛毒の土を除くこと、(4)沿岸の計り知れない天産物を復活すること、(5)頽廃した多数の町村を回復させること、(6)毒物を出す鉱業を停止させ、毒水と有毒の廃石の流出を根絶すること」(直訴状現代語訳・嶋田早苗、田中正造旧宅説明ボランティアの会)。
これを読んでいると、まさに現代、それも「3.11」後の日本に生々しくつながってくる。足尾銅山を福島原発に置き換えれば、そこで要求されている6点は、まさに現代の課題である。猛毒の土の除染や、荒廃した町村の復興とともに、すべての原発を停止させ、「毒」(放射能)の流出を「根絶」することが大切だろう。
正造は、「地震や海嘯(津波)という天災も随分ひどい惨事だ。しかし、これは一時的災害である」「しかるに鉱毒事件は天災〔洪水〕に加えた人災〔鉱毒〕という『合成の害』である…それを、金で輿〔世〕論を釣り企業〔古河〕を弁護する」「洪水・鉱毒の合成加害は、土地人民を滅ぼし尽くさねば止まざる悪毒である」と述べていた。赤上さんによれば、「これを地震・津波(天災)と原発(人災)と置き換えれば、今回に合致する。『政官産(財)学+ジャーナリズム』が一体となって『合成加害』をつくりだした。新聞・テレビ等は『複合災害』などといっているが、原発は人災なのだから、正造流に『合成(複合)加害』とすべきである。…東北・関東が強制廃村、強制破壊された『谷中村』化されつつある」(赤上剛「独断検証・田中正造関連雑記(83)」『田中正造に学ぶ会会報』146号〔2011年4月15日〕)ということになる。赤上さんは、「東日本大震災・福島原発加害」として、責任の所在を明確にすべきだと繰り返し語っていた。
「谷中村」は、私の頭のなかで、4月に訪れた計画的避難区域の飯舘村と重なった。『東京新聞』11月9日付「こちら特報部」は「田中正造語録から考えるフクシマ」として、「鉱毒と放射能の違いはあれ、それを撒いた加害企業は政府と親密で、被害住民は塗炭の苦しみを強いられた。1世紀以上の時間を隔てながらも、両者は酷似している。足尾銅山で闘いの先頭に立った政治家、田中正造は命を懸けて政府を糾弾した。その言葉と歩みはいま、私たちに何を伝えるか」という編集部のリード文は鋭い。記事中でも引用されているが、「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という正造の言葉(冒頭の写真の扇はこの文章が書いてある)は、まさに「現代」を射ている。
原発を批判してきた人々はずっと以前から田中正造に注目してきたようである。例えば、「反原発6人組」の一人として「万年助手」(現在は助教)の仕打ちを受けてきた小出裕章・京大原子炉実験所助教。その研究室の壁には、正造の写真が掲げられている。「私が最も敬愛している人です」(『毎日新聞』7月4日付夕刊「特集ワイド」)。
鉱毒問題と原発問題は、恐ろしいほど似ている。その構造を打ち破るにはどうするか。
佐野市郷土博物館には、正造の遺品が展示してある。今回初めて見たが、そのなかに、紐で括られた帝国憲法と新訳聖書(マタイ伝)の合本があった。亡くなったとき、枕元には菅笠と信玄袋のみ。その袋の中身の一つがこれである。最後の最後まで持ち続けていたのが憲法と聖書の合本とは。そこから私は「田中正造と3.11」に加えて、「田中正造と憲法」ということも考えた。
正造とキリスト教との出会いは佐野で早くからあったが、1902年に「あくび事件」(官吏侮辱罪)で有罪が確定し、巣鴨監獄で41日間服役した際に新訳聖書を熟読したときからさらに深まったとされている。赤上さんは、正造にとって、キリスト教は信仰の対象というよりも、むしろ実践のための拠り所だったと語る。その意味では、正造にとっての帝国憲法も、生活と実践のなかで「活かす」ものという視点があった、と赤上さんはいう。帝国憲法はまがりなりにも、信教の自由、言論の自由、集会・結社の自由、請願権などを保障しており、正造は、帝国憲法をまさに「活かす」実践を展開したということだろう。「人権亦法律ヨリ重シ」という正造の言葉をかみしめたい(『田中正造全集』13巻157頁)。
直訴状には、先の6点要求に続けてこうある。「このようにしてこそ、数十万の生命を救い、居住・相続の基礎を回復し、人口の減少を防げます。同時にわが日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各自の権利を保持させ、将来の国家の基礎である無量の勢力及び富財の損失を断絶することができると存じます」と。
由井正臣(早大名誉教授)「田中正造の思想に学ぶ」には、正造の思想が次のように端的にまとめられている。すなわち、「鉱毒によって人が殺されるという事態のなかで、人間の『生存権』を基本とする人権思想を確立したこと。権力の介入を許さない旧来からの村の自治を回復し、それを基底にすえて国家を再生するという人民国家の展望。利根・渡良瀬川の治水の本質をきわめつつ、自然と人間の共生のあり方を明示したこと。物質万能主義と効率のみを重んずる近代文明への鋭い批判」(前掲『田中正造とその時代』)。
加えていえば、正造は1903年、静岡県掛川での選挙応援演説のなかで、「軍備全廃」=無戦論を説いている。正造の思想のなかで、軍備全廃論がどのような位置づけになるのか。これから考えていきたいと思う。
以上のような午前中の体験を経て、この日午後からの私の講演は、「東日本大震災と憲法」という同じタイトルながら、神戸や北海道で話してきたこととは違った内容になった。それは正造ゆかりの場所をまわって、の正造の言葉と出会ったことが、私の頭のなかで「コラボ」したようである。
2013年は「正造没後100年」の行事が佐野市などで計画されている。私も可能な限り参加したい。また、読者の皆さんにも、是非佐野市を訪れ、田中正造ゆかりの場所をめぐる小さな旅をおすすめしたいと思う。赤上さんにメールすれば、「旅」の相談にのって頂けるとのことである(akagami【アットマーク入れる】tcat.ne.jp)。
なお、本直言の執筆にあたり、赤上剛氏のレジュメや資料、現地案内の際の説明、佐野市郷土博物館の資料を参考にした。お礼申し上げたい。また、主催者「佐野九条の会」の皆さまにも感謝します。