新年最初の「雑談」シリーズは、秋田の「なまはげ」の話である。
11月19日、秋田弁護士会で講演した。昨年は埼玉弁護士会(3月2日)、広島弁護士会(3月18日)、日弁連(9月7日)、新潟県弁護士会(9月17日)と、弁護士会の企画が続いた。講演テーマは、埼玉を除けば、すべて東日本大震災と関係している。
講演翌日、男鹿半島の「小さな旅」をやった。案内は、秋田県議の加藤麻里さん夫妻である。加藤さんは教育関係の仕事をされていて、2004年12月、私が秋田県大曲で行った講演の主催者の一人である。今年4 月の統一地方選挙で県議に初当選した。
加藤さん夫妻の車で男鹿半島に向かう。途中、秋田市土崎を通った。日本石油秋田製油所がある。終戦の前日、1945年8月14日夜10時過ぎ、130機のB29が来襲し、92人が殺されている。すでにポツダム宣言受諾が決まっていたのに。まさに「消化試合」的爆撃である。そのことは、大阪空襲訴訟で大阪地裁に提出した意見書でも指摘した。
朝のうちは晴れ間も見えていたが、途中から雲が垂れ込め、雨も降りだした。男鹿半島に入ると、「なまはげ」があちこちで出迎えてくれた。
「なまはげ」は男鹿半島に古くから伝わる風習で、大晦日の夜、鬼の面をつけて、大きな木製の出刃包丁をもち、大声をあげて練り歩く。「怠け者はいねが(いないか)、泣ぐ子はいねが」と、子どもたちを驚かす。1978年に国の重要無形民族文化財に指定されている。
昼前に「なまはげ館」に着く。「なまはげ」に関連する品々が展示されている。奥の部屋には、数十匹が同じ方向をむいて立つ展示があった。壮観というよりも、かなり不気味である。よく見ると、顔やポーズが全部違う。どこかユーモラスなところもあるのだが。
展示パネルを見ると、「なまはげ」の由来・伝承についての解説があった。ルーツに関しては4説あるようだ。まず、村人の生活を守る「山の神」の使いであるというもの(山の神説)。その昔、漢の武帝が5匹の鬼を連れて渡ってきたが、その鬼たちが悪さをして、それを村人がだまし討ちにしたことから、たたりを恐れて鬼に御馳走をして山に返すという行事が始まったというもの(武帝5鬼説)。そして、外国船が難破してその乗組員が山奥に住み着き、冬になると食料を求め、村に下りてくるというもの(異邦人説)。さらに、男鹿半島には修行僧の修行場が多くあり、僧たちが時々里に下りてきて家々をまわり、祈祷などをしたことに由来するという山の修行僧説である。
修行僧の小屋が多くあったという山の近くを通って、真山神社を訪れた。山門には、大手鉄道会社が奉納した木製の巨大な出刃包丁が飾ってあった。「なまはげ」の必須グッズだが、考えてみれば、包丁をもって練り歩くというのは何とも物騒ではある。
「なまはげ」巡りのなかで、「なまはげの担い手がいなくなり困っている」という話を聞いた。実際、十分な「訓練」を受けていない若者がトラブルも起こしている。
2007年の大晦日、男鹿温泉郷の老舗旅館に6匹の「なまはげ」がやってきた。5匹はロビーで暴れていたが、1 匹は2階の女性大浴場に向かい、洗い場で数人の体に触ったという。この1匹は、東京在住の20歳の会社員が扮していた。たまたま帰郷したところ、人数が足らないということで誘われ、「酒を飲みすぎた」末の行動だった。被害届けが出なかったこともあって、県警は立件を見送った。なお、この時期、同温泉の他の5つの施設でも同様のトラブルが起きていた。この「事件」について、『朝日新聞』2008年1月16日秋田全県版(23頁)が第1報を伝えた。見出しは「なまはげ揺らぐシンボル」「相次ぐ苦情 男鹿の観光界、苦慮」である。
「事件」から2週間あまりたった2008年1月29日。男鹿市役所に、町内会長や保存会メンバーなど約20人が集まった。この問題の対策を話し合う協議会だった。
まず、市教育委員会の生涯学習課長が「なまはげ」行事の現状を報告した。それによると、(1)1977年に78集落で実施していたものが、2007年には51集落まで減少したこと、(2)実施主体が、青年会や保存会から、町内会や子供会に変わりつつあること、(3)従来は未婚の男性が担い手だったものが、いまは中学生から50歳前後までの多様な年齢になってきたこと、である。「問題を起こした青年に事前に注意しておけばこんなことは起きなかった」ということから、「なまはげの原点」の再確認という結論で合意した。「なまはげ行事のあり方」の指針化はなされなかった(『朝日』1月30日付秋田全県版〔27頁〕)。
この会議のことは、同日付の『朝日』東京本社版の社会面下、記者短信「青鉛筆」でも紹介された。そこには、「行動指針をという声も出たが、『祈りが込められた地区のなまはげと、今回の観光客相手のは別物だ』として指針づくりは見送られた。自らもなまはげになったことがある伊藤正孝副市長も『マニュアルで縛れば、行事は必ず下火になる』…」とあった。
その後、『朝日』東京本社版2月6日付に、「事件」の検証記事が掲載された。7段の記事でけっこう詳しい。見出しは「なまはげ『正しい暴れ方』考――若者激減、ルール伝授難しく」である。この「正しい暴れ方」という表現が気になった。
これらの新聞記事から分かることは、「なまはげ」をめぐる客観状況の変化があることである。
第1に、家族構成やライフスタイルの変化である。「なまはげ」は家のなかにズカズカ入ってくるが、最近の家庭では、「なまはげ」の乱暴な訪問を敬遠するようになった。前述の協議会でも、「家が汚れるし、物が壊されることも」「〔なまはげをもてなす〕お膳の支度が面倒」といった声が、「なまはげ」を迎える住民の間にあって、昔のように、伝統行事として町内誰もが歓迎というわけにはいかなくなったことが紹介されている。実際、朝日新聞記者が男鹿市の北浦安全寺という集落で取材したところ、全84世帯のうち、「なまはげ」を家のなかに入れたのは4世帯にすぎなかった。ほとんどの家が、玄関先での応対になったという。
第2に、担い手の問題がある。かつては地区の青年会、20代独身男性が中心になってやっていたが、最近は20代の数が少なくなり、経験のない高校生や里帰りの会社員、地区会長らが扮するようになった。高校生はケガに備えて、全員が傷害保険に入っていると記事にあった。
この「事件」は尾を引いた。『朝日新聞』東京本社版2010年2月12日夕刊には、秋田総局記者の署名記事が載った。見出しは「ナマハゲ草食系 新世代 騒がず脅かさず」である。その昔は「ウオーッ」とうなり声をあげ、いたずらっ子を吹雪の屋外に放り出したりするのは普通だった。住民は「厄払いや戒めの意味がある」として、多少手荒なことをしても理解を示してきたという。昨今、子どもが減って老人ばかりの家が多くなって、「怖がる子どもがいないから、やる気がでない」という「やる側」の事情もあるようだ。なかには、「ウオー。冬休みの宿題やったか。見せれ」といって、子どもに近づき、ノートを受け取って宿題を教える「なまはげ」も出てきた。「算数わかるかぁ」みたいなタイプの「宿題点検」は、2010年から始まったという。
もともと「なまはげ」は荒っぽい行事である。「ウオーッ」で子どもが怖がり、乱暴に家に押し入ってくる。それを「子どもが怖がるからダメ」「家が汚れるから」などと拒否する時代になったわけである。従来から「寝室や風呂場には入らないという暗黙の了解があった」というから、荒々しさのなかにも一定のルールは存在したわけである。だが、この「事件」によって、「正しい暴れ方マニュアル」作成とまではいかないものの、一段と自主規制がかけられていくことになるだろう。妙にお行儀のよい「なまはげ」になっていくことが進化なのか、退化なのかはわからないが、伝統行事が変化していることだけは確かである。
『朝日』署名記事には、民俗学・東北学の赤坂憲雄氏のコメントが掲載されている。
「古くからの祭りは、日常生活で制御されているパワーを解放する意味があった。現代人は、祭りのパワーを上手に使いこなす知恵を失いつつある。何かトラブルがあればすぐに責任問題にして、共同体との濃密なかかわりを嫌がる。豊かな人間性への許容範囲が狭まっているのではないか」(前掲『朝日』2010年2月12日付)。
多重債務問題の解決に取り組む「秋田なまはげの会」というのがある。2007年に、消費者金融や悪徳商法の被害者救済を目的として、弁護士や司法書士が設立した。相談会や勉強会などを開いて、被害者の救済と、被害防止の活動を行っている(『朝日』2009年6月17日付秋田全県版)。これは地味ではあるが、重要な活動だと思う。ところで、この団体は名称になぜ「なまはげ」を付けたのだろうか。想像するところ、闇金融や悪徳商法に対する「法の威嚇」ではないか。威嚇力のなくなった、行儀のよい「草食系なまはげ」が定着していけば、いずれこの会も、名称変更が必要になるのだろうか。