雑談(94)音楽よもやま話(19)第1交響曲を聴く 2012年5月14日

直これは本当の穴埋め原稿である。毎週長文の「直言」を書き下ろすのは、入試繁忙期などは困難になる。今回は京都で憲法の学会が続くので、ストックしてある「音楽よもやま話」をアップしよう。純粋に趣味の世界の「埋め草」なので、パスしていただいて結構である。

 さて、この「第1交響曲を聴く」というタイトルには、決定的な穴がある。「誰の」(whose)が不明確だからである。しかし、今回はそれがポイント。つまり、現存する「交響曲第1番」を終日、続けて聴いてみたという、かなりマニアックな、ただそれだけの話である。作曲家についての、あるいはその曲に関する特別の知見や異見、含蓄や蘊蓄があるわけでもない。そういうものとしてお読みいただけたらと思う。

3月のある日。山の仕事場で朝5時に起きて、今日はいろいろな作曲家の「第1交響曲」を「ながら音楽」にして原稿を書こうと思い立った。父が遺してくれたベートーヴェンやブラームス、ドヴォルザーク、シベリウスなどの交響曲全集(LPレコード)からそれぞれの「第1番」を抜き出して床に広げ、スタンバイさせた。私が30数年前に揃えたマーラーやブルックナーの全集も。すでにその段階で、原稿書きの「ながら音楽」にはならなくなっていた。つまり本気で聴いてしまっていたのである(汗)。

 聴く順番は年代順とした。ハイドン(1732年生まれ)から始めた。第1番は、最後の交響曲第104番「ロンドン」と同じニ長調である。最初と最後がニ長調。別に何の意味もない。偶然である。演奏はオーストリア・ハンガリーハイドン管弦楽団(指揮・アダム・フィッシャー)の全集(CD)から。全13分19秒。第1楽章プレスト、第2楽章アンダンテ、第3楽章プレスト。短いプレストに挟まれた2楽章もほとんど印象に残らなかった。

 続いてモーツァルト(1756年)の第1番変ホ長調K.16。彼が8歳の時の作品である。演奏はイタリアのトリノフィル(指揮・アレッサンドロ・アリグノーニ)の全集版(CD)。演奏時間は計8分30秒。第1楽章アレグロ・モルト、第2楽章アンダンテ、第3楽章プレスト。なかなか愛らしい曲で、ハイドンの第1番よりは面白かったが、第35番「ハフナー」以降、ラストの第41番「ジュピター」までの作品と比べれば、内容的に比較の対象にならない。

 ベートーヴェン(1770年)の交響曲第1番ハ長調作品21。30歳の時の作品。これは前二者とは異なり、コンサートでも演奏される本格的なものである。第1楽章冒頭の序奏部。わずか12小節だが、当時の調性感からすれば「破天荒」な始まりという。ハ長調という主調に対して、ヘ長調で始まるので、当時は「劇的な導入」だったとか(「運命はかく扉を叩く」とは大分違うが)。この「劇的な導入」という言葉は、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団のベートーヴェン交響曲全集(CBS-SONY)のレコードに添付された大宮真琴氏の解説に出てくる言葉である。当時の伝統に対して、明らかに新機軸を打ち出したベートーヴェンのそれは習作、あるいは「最初の交響曲」という感じのものではなく、緻密で完成度の高い作品に仕上がっている。演奏はアンドレ・クリュイタンス指揮ベルリンフィル。文句の付けようのない完璧な演奏で、中学時代からこのレコードを一番好んできた。本当に久しぶりに聴いて、改めてそのすばらしさを再確認した。ジョージ・セルの第1番も抜き出して、針を落としてみた。まったく無駄がない、清楚な演奏である。ちなみに、ベートーヴェンでは最近、「エーッ!」という演奏に出会った。ミハェル・プレトニョフとその私兵、ロシアナショナル交響楽団のCD版である。面白いというよりも、ここまでやるかという世界である(特に第6番「田園」第1楽章!)。

 さて、第1交響曲めぐりだが、シューベルト(1797年)のそれはニ長調。16歳の作品である。何ともおおらかな曲だと思う。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ドレスデンフィルの全集(CD)版が好みだが、今回は、ホルスト・シュタイン指揮バンベルク交響楽団の全集(CD)版で聴いた。ブロムシュテットよりも軽やかなシューベルトだが、生でも何度か聴いたバンベルク交響楽団(地理的にチェコに近いこともあり、弦の響きがいい)のよさが出ていて、好感がもてる演奏だった。

メンデルスゾーン(1809年)の第1番ハ短調作品11。15歳の作品である。ほとんど演奏されない。クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のもので聴いた。合唱付きの第2番変ロ長調作品52「讃歌」を聴くため、これとセットだったので購入したものだ。今後もう一度これを聴くかどうか、わからない。

シューマン(1810年)。交響曲は4曲。シューマンは、第2番ハ長調作品61をレナード・バーンスタイン指揮の学生オケ(PMF)が演奏するリハーサル風景と本番のビデオを、私が非常勤講師をしていた音楽大学の法学講義で何年かにわたり聴かせていたので、細部まで頭にしみ込んでいる第2番には表題がない。第3番変ホ長調作品97「ライン」と並んで表題が付いているのが、この第1番変ロ長調作品38「春」である。いろいろな指揮者の全集(CD)あるが、冒頭のトランペットとホルンのファンファーレ風の動機、そのあとの引きずるように不器用な展開。このあたりをどう揃えるか、揃えないか。そこで私の好みは分かれる。鮮やかに矛盾なくやったのが、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏。ものすごくいいが、別の曲のようだ(マーラーの編曲)。本来のシューマンという点では、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮のドレスデン・シュターツカペレの演奏がいい。引きずるところを輝かしく引きずってくれるので、好感がもてるのである。NHK交響楽団の生演奏で何度も聞いた指揮者で曲によって好みに反したが、シューマンはいい。なお、シューマンは私にとって「ながら音楽」。7年前の「直言」では、ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団の演奏がいいと書いていた。聴いたときの気分が違ったようである。

ブルックナー(1824年)の交響曲第1番ハ短調。かつて「交響曲0(ゼロ)番」について書いたことがあるので、ブルックナーについてはあまり立ち入らないことにしよう。朝比奈隆のブルックナー全集はレコードとCDでそれぞれ持っているが、今回はギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団の全集のなかから聴いた。1999年から2000年にかけてドイツのボンで在外研究をした時ボン大学のヨーゼフ・イーゼンゼー教授がヴァントの熱烈なファンだったため、現地で全集を買い揃えたものだ。ブルックナーの交響曲の場合、ほぼ例外なしに第1楽章冒頭がピアニシシモ(ppp)で始まる。これを「ブルックナー開始」というが、第1番はリズムを刻みながらpppではなく、もう少し強く、ややはっきり出てくるのが特徴である。ヴァントも毅然として出てくる。

さて、ブルックナーと同時代の双璧、ブラームス(1833年)。その交響曲第1番ハ短調作品68。コンサートの演奏曲目で常に上位を占める名曲である。「第1番」といっても、43歳の円熟期の作品。ベートーヴェンの9曲の交響曲がプレッシャーになって、中年になるまで交響曲に手を染めなかったという説が有力である。37年前、カール・ベーム指揮ウィーンフィルの迫真の生演奏を聴いたので、それがいまも頭にしみ込んでいる(早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団第60回定期演奏会パンフレット「会長挨拶」参照)。今回は、カール・ベーム指揮ベルリンフィルの演奏を聴こうと思って、仕事場のレコード棚から引き出したグラモフォンレコードのジャケットを見た。何とそこに、音楽評論家・藁科雅美氏の解説で「第一交響曲物語」というのがあるではないか。すでに同じような試みが行われていたのだ。ここでやめようと思ったが、この解説は専門的な知見で書かれているが、「是非聴いてみたいものだ」という形で終わっている曲もある。50年前に出されたものなので、まだ当時レコードにもなっていなかった「第1番」については、実際にお聴きにならないで書いた箇所がある。ここは後世の人間の得なところ、と気をとりなおして続けることにしよう。

ボロディン(1833年)の交響曲第1番変ホ長調とサン・サーンス(1835年)の交響曲第1番変ホ長調。前者はエフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団、後者はエリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏である。ボロディンの第1番は第3楽章アンダンテが印象に残った。チェロとオーボエを軸として、交響詩「中央アジアの草原にて」の作曲家のそれと実感できる。一方、サン・サーンスの第1番。第3番「オルガン付き」があまりにも有名だし、早稲フィルも、2008年5月の第66回定期演奏会で取り上げた。第1番の方はあまり印象に残らなかったが、第3楽章アダージョは、チャイコフスキーとベルリオーズを足して3で割ったような甘みが舌に残る。

チャイコフスキー(1840年)第1番ト短調「冬の日の幻想」については、7年前の直言「ながら音楽」で触れたので、今回は省く。

 ドヴォルザーク(1841年)の交響曲第1番ハ短調作品3「ズロフツェの鐘」。24歳の時の第1作は、3年ほど過ごしたボヘミアの村の名前を冠したもの。特に第2楽章が美しい。演奏はオトマール・スウィトナー指揮ベルリン・シュターツカペレの全集(旧東独の国営Deutsche Schallplatten)の1枚を聴いた。古いレコードだが、滋味深い、なかなかいい演奏だった。

マーラー(1860年)の交響曲第1番ニ長調「巨人」。マーラーについてはこの直言でも詳しく書いたことがある(「マーラー生誕150年と中国」)。朝比奈隆は、マーラーは第1番だけ演奏しないという意地を通した。朝比奈が嫌うのもわからないではないほど、歌曲「さすらう若人の歌」などからの引用が多い。この第1番は、今回はブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団で聴いた。バーンスタインやシノーポリ、テンシュテット、ジュリーニ、インバル、ショルティなどのレコードやCDもあるが、久しぶりのワルターのレコードは何ともいえぬ安心感と安定感があって、心も極端に揺さぶられることがない。快適なマーラーである。弟子を自認するワルターだけに、師匠の機微を知り抜いていたのだろう。

 シベリウス(1865年)の交響曲第1番ホ短調作品39。33歳の時の作品。3番以降の清楚な作りとは異なり、かなり劇的で幻想曲風の傾きが濃厚である。チャイコフスキーなどの影響も見られる。演奏は、この曲のよさを丁寧に引き出したジョン・バルビローリ指揮ハルレ管弦楽団の全集(東芝EMI)もいい。父はシベリウスの交響曲全集のレコードはこのバルビローリのほか、バーンスタイン(ニューヨークフィル)(CBS-SONY)、コリン・デービス(ボストン交響楽団)(フィリップスレコード)も揃えていた。今回私は、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団のレコードを聴いた。CBS-Sonyの録音がとてもよくて、CDでは安易に聞き流してきたハープの音色の優しさにハッとさせられた。

エルガー(1857年)の3曲あるうちの交響曲第1番変イ長調、ラフマニノフ(1873年)の3番まであるなかの第1番ニ短調、プロコフィエフ(1891年)の7番まで作った交響曲の第1番ニ長調(古典交響曲)。そして、ショスタコーヴィッチ(1906年)の14曲作ったうちの第1番ヘ短調作品10。19歳の時の習作である。これらはさすがに聴くエネルギーがなくなっていた。

 翌日、趣向を変えて、マイナーどころを聴いてみた。デンマークの作曲家ニールセン(1865年)の交響曲全集(全6曲)とスウェーデンの作曲家ヒューゴ・アルヴェーン(1872年)の交響曲全集(全5曲)。両方ともCDだが、それぞれ第1番だけを流してみた。前者はユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(輸入版)、後者はネーメ・ヤルヴィ指揮ストックホルムフィル(同)の演奏である。最近売り出し中のパーボ・ヤルヴィの父親だ。ニールセンは交響曲第4番「不滅」(個人的には第5番がいい)があまりにも有名だが、その第1番ト短調作品7は退屈だった。アルヴェーンの第1番も印象が薄かった。

 藁科氏は前述した半世紀前の解説で、「第1交響曲」しか作らなかったフランク(1822年)、ビゼー(1838年)、ショーソン(1855年)の交響曲もまた、「忘れることのできない名曲、佳曲」として挙げている。というわけで、16人の「第1交響曲」を聴いたところで打ち止めにしておこう。

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