2000年に警察庁が「安全・安心まちづくり推進要綱」を出して以来、2002年頃から全国的に「生活安全条例」制定への動きが広がっていく( 直言「安全・安心のディレンマ」参照)。道路や公共施設、住居の構造・設備・配置などに犯罪防止の観点を貫くことが求められ、例えば、植栽や樹木管理などに関して、樹木の影に犯罪者・不審者が隠れる余地をなくすなどの配慮が必要となった。共同住宅や大規模店舗などの所有者に対しては、「防犯カメラ」の設置を実質上義務づけられた。都市部では、「防犯カメラ」が「安全・安心」の基軸に置かれていく。
こうして10年ほどの間に、監視カメラ(「防犯カメラ」)は300万台にまで増殖した。生活安全条例が「定着」して、公的機関と民間(共同住宅や大規模店舗、商店街等)のタイアップが進んだ一方で、それを支える人々の意識の変化も大きい。
テレビ東京に『ガイアの夜明け』というシリーズがある。 ロンドン・オリンピック真っ盛りの8月7日夜に放映されたのは、「真夏の防犯カメラ・密着24時――ここまで来ていたニッポンの技術」。監視カメラについて無批判に描くという点で、「ここまで来たか」という類のものだった。
そのなかで、足立区北千住の「日本一防犯カメラが多い商店街」が紹介されていた。わずか400メートルの商店街に48台。その数は、新宿や渋谷に比べても密度が高い。背景には、刑法犯が都内ワースト1という足立区の事情があるという。ただ、自転車窃盗や万引きがほとんどで、「貧困と犯罪」という角度から見ればまた別の問題状況も浮き彫りになるのだろうが、犯罪件数が多いというイメージは足立区に様々な影響を与えている、として、犯罪発生率を下げてイメージアップをはかりたい区や商店街の取り組み、専門家の意見から、「防犯カメラ」の有効性だけがひたすら強調されて紹介される。
番組によれば、都内に住む300人へのアンケート調査では、「家の近所に防犯カメラを設置して欲しい?」という質問には78.7パーセントが賛成で、プライバシーの観点から疑問を投げかける人は21.3%にすぎないという。また、「防犯カメラに撮られることに抵抗がありますか?」という質問に82%の人が「抵抗がない」と答えた結果を、「昨今の防犯意識の高まりによるもの」と位置づけていた。
この番組の売りは、NECが開発した「顔認証システム」だろう。人の顔に関する情報をあらかじめシステムに組み込んでおくと、通行人のなかから特定の人物を割り出すことも容易となる。それを街づくりに応用したのが、千葉県佐倉市ユーカリが丘である。町全体に監視カメラが200台以上設置され、顔認証が導入されている。その町に建設された「安全・安心」マンションは完売したという。顔認証システムを導入しているため、住人は「防犯カメラ」に顔を向けるだけでエントランスのドアが開く。まさに「顔パス」である。両手に荷物を持っていても、そのまま中に入れると好評だそうだ。
人の出入りは、顔認証と「防犯カメラ」で完璧にチェック・記録される。住人は、自分の部屋にいつ、どのくらい滞在しているかを秒単位で管理されている。だから、一定期間(時間)、マンションの入口を通過しない住人の部屋は直ちに特定され、そこをピンポイントで管理人が訪問する「見守り」により、「孤独死」にも対応できるというわけである。他方で、それらのデータが、全住人の「アリバイ」証明の手段(「見張り」)として機能する可能性があることも否定できない。だが、そのことを含めて、「安全・安心」と受けとめる人にとっては、実に快適な住環境ということになるのだろう。
このような顔認証システムや監視カメラなどを使ったサービスを商品として売り出す「セキュリティ産業」を、番組は今後ますます発展する成長株として肯定的に描いていく。あるセキュリティ会社の社長は、これからは「攻め込んでいく防犯」が必要と言い切った。犯罪に対する先制攻撃と言えば聞こえはいいが、それが、個人のプライバシーに「攻め込んでいく」ことによって達成されることについて、番組はまったく触れていない。
そもそも人の容ぼうを本人の同意なく撮影することが許されるのか。人の容ぼうはプライバシーなのか。これが正面から問われたのが「京都府学連事件」である。60年代の学生運動華やかなりし頃、警察官がデモの学生たちを撮影したことが事件に発展したものである。最高裁は大要次のようにいう(最大判1969年12月24日)。
(1) 〔憲法13条は〕国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定している。
(2) 個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する。
(3) これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されない。
最高裁が「私生活上の自由」を憲法13条が保障していることを認め、私生活上の自由のなかに、みだりに容ぼう等を撮影されない自由が含まれることを肯定した点で、この判決は重要な意味をもつ。だが、最高裁は「しかしながら」と、次のように続ける
(1) しかしながら、個人の有するこのような自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけではなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受ける。
(2) 犯罪捜査は公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであるから、警察官が犯罪捜査の必要上写真撮影を行うこと、これに犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれることは許される。
(3) 実際、多数のデモ行為について、証拠保全の必要から緊急性が認められ、その方法も相当なものと認められるから、撮影は適法な職務執行行為であった。
「しかしながら」で、前半のプライバシー親和的な議論がひっくり返され、警察官による写真撮影がすんなり合憲とされている。この判決が出た60年代後半は、最高裁が、それまでの「公共の福祉」をストレートに使った権利制限の手法を見直して、「公共の福祉」の中身をいくぶん丁寧に論じたり、制限の条件を膨らませたり、あるいは限定解釈を施したりして、権利制限に一定の歯止めをかけようとした時期にあたる。そのため、上記の前半は、「私生活上の自由」「容ぼう等をみだりに撮影されない権利」を、最高裁として初めて、憲法13条の内容として構成したわけで、この判例の意義はそこにある。
ところで、カメラを構える手作業的な監視から、監視技術は格段の進歩をとげていく。例えば、1980年代半ばからは、「オービス」という速度監視装置が導入される。速度オーバーの車両の前面を自動的に撮影するもので、ナンバープレートだけでなく、運転者と助手席の同乗者の容ぼう・姿態も撮影する。これにより憲法13条が保障する肖像権、プライバシー権、自己情報(移動に関する運転者の情報)コントロール権などを侵害するとして訴えた事件がある。最高裁は、1969年の京都府学連事件判決を引用しつつ、速度違反という犯罪が現に行われている場合になされた容ぼう等の撮影であり、緊急の証拠保全の必要性があり、その方法も一般的に許容される限度を超えない相当なものであるから憲法13条に違反しないとした(最判1986年2月14日)。
上記は道路交通法違反が現に行われている場合だが、いまだ犯罪が発生していない段階で、「街頭防犯」の目的から交差点や公園などに監視カメラを設置し、撮影する行為の合憲性が争われた事件がある。大阪・あいりん地区事件である。
大阪地裁は、前述の京都府学連事件最高裁判決を引用しながら、「何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を写真撮影・ビデオ録画されない自由を有するものであるから、公権力がテレビカメラによる録画をすることは、たとえそれが犯罪捜査のためであっても、現に犯罪が行われもしくは行われたのち間もないと認められる場合ないし当該現場において犯罪が発生する相当高度の蓋然性が認められる場合であり、あらかじめ証拠保全の手段、方法をとっておく必要性及び緊急性があり、かつ、その録画が社会通念に照らして相当と認められる方法でもって行われるときなど正当な理由がない限り、憲法13条の趣旨に反し許されない」とした(大阪地判1994年4月27日)。これは、京都府学連事件判決を監視カメラ時代に応用した判決として注目される。
この判決は結論的に、「容ぼう等を録画していることを認めるに足りる証拠はない」として訴えを退けている。ただ、プライバシー侵害の主張に即して、建物への出入りの状況を監視できる位置にある監視カメラ1 台についてプライバシー侵害を認め、その撤去を命じた点が注目される(石村修・浦田一郎・芹沢斉編著『時代を刻んだ憲法判例』〔尚学社、中谷実執筆〕参照)。
裁判所で問題となったのは、警察という公権力と個人との関係である。その警察が設置・管理する監視カメラについての法的問題点については、日弁連が2012年1月20日に「意見書」を出しており、そこで問題の所在は明確に示されているので参照されたい(→ここから読めます)。
では、これが商店街やデパート、マンションの所有者・管理者が設置した監視カメラによる、承諾のない容ぼう等の撮影・録画の場合はどう考えたらいいか。
これらのケースは警察などの公権力ではなく、私人間の問題であり、デパートやマンションの所有者・管理者を、承諾なき撮影・録画は違憲として訴えても、主張が認められる可能性は低い。ただ、京都府学連事件判決がいうように、「承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由」が憲法により保障される点はその後の判例も確認しており、警察などに対して「正当な理由」を要求している点は重要である。容ぼう等を撮影するハードルはけっこう高いのである。犯罪発生の「相当高度の蓋然性」もなく、また証拠保全の必要性・緊急性もないのに、一般の人々の容ぼう等を撮影し続けることは、判例の論理から言えば許されないということになろう。
加えて、警察庁が「安全・安心まちづくり推進要綱」を出して、自治体が「生活安全条例」によって大規模店舗や共同住宅などに監視カメラ設置を要求している点に着目すれば、民間の金で、民間が設置し、民間人が運用していても、それは、国家が監視カメラの設置の義務づけを通じて、実質的に権利を侵害していることを意味する、と考えられなくもない。一種の「国家同視説」(「ステイトアクション」(state action)の法理)である。この議論をとるかどうかはともかくとして、少なくとも、この議論が成立するためには、公共施設等の提供や財政援助、特別の権限の付与など、国家のきわめて高度なかかわりあいが必要となる。警察庁は一般的な要綱を出しただけで、デパートの監視カメラを直接運用しているわけではない、という反論が直ちに返ってくるだろう。ただ、設置主体が公権力であれ、民間であれ、監視カメラを通じて「承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由」が不断に侵害される状態が日常化している本質に変わりはない。
問題は、それを権利の制約と自覚しない人々が圧倒的に多いことだろう。前記の番組で紹介された調査でも、8割の人は抵抗ないと回答している。また、自分たちは抵抗を感じないと考えている人々に、他方でプライバシーの問題を気にしている少数のひとのことを考える想像力が欠如している点も問題だろう(西原博史編『監視カメラとプライバシー』〔成文堂、2009年〕87頁参照)。
それ以上に問題なのは、「安全・安心」思考の突出によって、プライバシーや自由を失っても「安心」を得たいということで、将来、市民が国家に対して、基本権保護義務を根拠に、「監視カメラ設置請求権」を主張するようになるかもしれないことである。そうなれば、監視カメラは社会の深部と芯部、個人のプライバシーの核心部分に踏み込んでいくことになるだろう。「攻め込んでいく防犯」の不可避的結果である。
監視カメラが生活圏のどこにでもあり、自分がどこかで監視・撮影されていて、そのデータが警察にも提供される可能性が高いということを知ってしまえば、人々のなかには、例えば、政治的なチラシ配りやデモなどを控える傾向も生まれるだろう。表現の自由に対する「萎縮効果」(chilling effect)の問題も無視できない。
監視カメラが撮影したデータ(本人の承諾なしに撮影された容ぼう・姿態)の保存期間や提供先に対する規制は、現在のところほとんどない。東京・杉並区が監視カメラのデータの保存期間などを条例で規制しているのが数少ない例である。保存期間については、例えば「○日を超えないこと」といった限定が必要だろう。提供先についても、捜査協力ということで、警察への提供がほとんどフリーパスという状況は改善されるべきだろう。
300万台にまで増えた監視カメラに対する法的規制を本格的に考えるべき段階に来たと言えよう。また、「防犯カメラ」などの「安心市場」の拡大に伴い、セキュリティ産業は利益を増やしていく。それに対する法的規制も今のところない。
次に、EUの監視プログラムINDECTの問題を見ながら、「安心保障」を徹底した社会のありようについて考えてみよう。 (この項続く)
《付記》冒頭の写真は、京都駅前の駐車場に掲示してあった市会議員(保守系無所属)のポスターである(2012年5月13日)。そのこころは、「檻のなかの安全・安心」。