先週の水曜は、アドルフ・ヒトラーが首相となり、ナチスが権力を掌握してから80年になる日である。「1933年1月30日(月曜)」。ドイツ史のみならず、人類の歴史においても不幸の始まりであった(「わが歴史グッズの話(24)ナチス」参照)。上記の写真は、当日の『北西ドイツ新聞』(NWZ)の一面で、「ヒトラー 首相に任命さる」の大見出しの下に、フォン・パーペン元首相が副首相として入閣とある。何代か前の首相が副首相として入閣するというのは異例のことだ〔最近の日本でも?〕。記事からは、中央党やバイエルン人民党と連立交渉が続いていたことがわかる。ヒトラー以外の10人の閣僚中、ナチ党員は2人だけ。ヒトラー内閣は、中央党や国家人民党などとの連立政権だった。2カ月前のライヒ議会選挙(1932年11月6日)におけるナチスの得票率は33.1%。3分の1の議席では過半数には届かないからである。任命権者のヒンデンブルク大統領に対するヒトラーの腰の低さにも驚かされる。
だが、すぐにヒトラーは本性をむき出しにする。組閣の翌々日の2月1日、ライヒ議会を解散。選挙戦の最中に「国会議事堂放火事件」が起きる。ヒトラーは迅速に(見事なまでに迅速に)「民族と国家の保護のための大統領令」を発令(2月28日)。ヴァイマル憲法48条2項(大統領の緊急命令権)に基づき、7つの基本権(人身の自由、住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由、結社の自由、所有権)を停止した。多くの人が令状もなしに次々に逮捕されていった。選挙運動が著しく制限されるなか、3月5日のライヒ議会選挙では、ナチス党が43.9%の議席を獲得した。それでも、まだ過半数には届かない。3月23日には、「授権法」(「民族と国家の危難を除去するための法律」)を強引に成立させる。この法律は、政府が国会を通さずに法律を制定(!)することができるとか(1条)、この法律は憲法に違反することができるとか(2条)、とんでもない条文が並ぶ。まさに「法の下克上」を地で行く法律だった。
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6月22日には社会民主党が禁止され、他の政党も解散になった。ご丁寧に、7月14日には「新党結成禁止法」が制定され、唯一の「既成政党」がナチ党ということになって、11月12日のライヒ議会選挙では92.2%を獲得した。ヒトラーの首相任命から半年足らずで、ナチスの一党独裁は確実なものとなった。
ヒトラーはいう。「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」(『わが闘争』平野一郎他訳・角川文庫)と。大衆の忘れっぽさに便乗して、勢いのある、瞬間的な言説を駆使して、大衆の支持をかすめ取っていく。現代の政治家も、フェイスブックやツイッターを使った「瞬間政治」によって、「忘却力」を活用している。
この写真は、ヒトラーの一党独裁体制(ライヒ政府、党指導体制)を分かりやすく描いた鉄製のパネルである。戦後のある時期に作られた年代物で、四方に穴が開いていて、壁に掛けられていた形跡が残る。英語の解説が付いているので、米国のネオナチ団体が作成したものではないかと推測されている(戦後ドイツではこの種のものは販売、掲示等できないから)。15の地方組織(大管区)、17人の閣僚、9人の枢密院委員、多数の議員たち…。唯一の指導者(総統)の真上に、「一つの民族、一つの国、一人の指導者」とある。このような体制のもとで、国家や社会のあらゆる領域で「強制的同質(同一)化」(Gleichschaltung) が進んでいった。この傾向は、思想や文化、人間精神の面でも押し進められていった。
今年、ドイツ人にとって、「黒い記念日」がある。5月10日、「焚書」(Bücherverbrennung)の80周年である。
ナチスが権力を掌握してから3カ月あまり。ドイツ民族は高貴な北方人種による文化的歴史的共同体であるとされ、人種的価値の過度な強調から、「劣等人種」の排除への傾きを強烈に増していった。思想的排除は徹底していて、美しくない文学、ドイツ的でない音楽、アーリアの伝統に反する芸術などは、徹底的に排斥された。ドイツ学生連盟に属する学生たちが「運動」の実行部隊となったが、民族教育の機関としての宣伝省がこれを援助した。焚書の基準は「反ドイツ的精神」や「美しくない精神」である。これは単なる言論弾圧ではない。ナチスの基準に合わないもの一切を浄化する。全体主義体制に共通の「美しくないものの清掃」は「粛清」と呼ばれたことはよく知られている(直言「大粛清から70年」とそのリンク参照のこと)。
歴史上、権力者が政治に「美学」を持ち込もうとすると、ろくなことはない。ヒトラーのナチ第三帝国も、アーリア民族を中心とした「美しい国」「新しい国」「強い国」を目指した。
焚書のためのブラックリストには、マルクス主義や共産主義の文献、ユダヤ関係の書物はもちろんのこと、人文主義、平和主義、社会主義など多様な分野の文献が載せられている。そこには、ハインリッヒ・マン、フロイト、ハイネ、ケストナー、ヘミングウェイなども含まれていた。ヴァイマル共和政を讃えるものもダメ。第1次世界大戦の戦場での体験を悲劇的に描いたものまで焚書対象に挙げられた。大学図書館や市立図書館、書店、古書店などからさまざまな本が持ち去られた。その頂点が、80年前の5月10日であった。
この日の午後8時半から、ベルリンの国立歌劇場前(Opernplatz)、ボンやミュンヘン、ゲッティンゲンなど全国21の大学都市で焚書が行われた。「反ドイツ的精神に抗する行動」(Aktion wider den undeutschen Geist)と称した。ゲッベルス宣伝相らナチ党幹部や、この動きに迎合する大学教授などが演説し、音楽が大音響で流れるなか、学生たちは書物を火炎のなかに投じていった。これをラジオ(Deutsche Welle)がレポートした。一体、何万冊が燃やされただろうか。ベルリンでは25000冊というが。
5月10日だけでなく、6月下旬くらいまで、ドイツ各地で焚書が行われた。学生だけでなく、これに便乗してさまざまな団体も焚書を行った。「書物を燃やす」。まさに知的頽廃の極致である。
なお、焚書の5年後には、「頽廃音楽展」(1938年)も行われた。ユダヤ系のメンデルスゾーンやシェーンベルク、マーラーなどの曲の演奏を許されなかっただけでなく、「頽廃音楽」の展示を行って、これらの作曲家や曲を攻撃した。ヒンデミットなどの現代音楽も演奏が許されなかった。ドイツ音楽の伝統に反して「美しくないから」と。他方、リヒャルト・シュトラウスは、日独伊防共協定の盟友である日本のために、「皇紀2600年奉祝音楽」を作曲している。
ところで、最近ドイツでは、「“火中から書物を”行動」(Aktion“Bücher aus den Feuer”)という団体が活動している。焚書で焼かれた書物のリストを掲げて、焚書の風化を阻止しようというものだ。「反ドイツ的精神の書物を焼く」というような蛮行を二度と繰り返さないために。
「反日的精神の書物を焼く」という派手な運動こそなかったものの、戦前の日本でも、徹底的な思想・言論統制が行われたことは承知の通りである。特定の学説や書物を発禁処分にするという権力的介入に便乗して、大学や一般社会でも、そうした書物を「自主的に」放逐する動きが存在した。それが「天皇機関説事件」である。
憲法学説の一つにすぎない「天皇機関説」を、あたかも反日的、反国家的思想の権化のように仕立てあげて攻撃した。文部省思想局は、天皇機関説を大学の憲法講義や教科書などから一掃しようとした(『秘・各大学ニ於ケル憲法学説調査ニ関スル文書』1935年参照)。学説調べは徹底しており、教科書や著書、講義案などから、関連する文章がピックアップされていった。憲法講義の調査のため、学生の講義ノートも使われた。陰湿である。その結果、憲法担当の教授たちは、著書絶版や講義案「改訂」という形で、世間や学生たちに気づかれないように、密かに天皇機関説から離れていった。「今後、『機関』という言葉を使いません」と上申書で約束して、教授ポストを確保する者まであらわれた。また、教授会での学科目配当の審議・決定を経ないで、事務職員が勝手に文部省の意を忖度して、特定の教授の「憲法」担当を外すということまでが行われた。そうした動きのなかで、文部省は、19人の憲法学者に対して「処置」を決めた。そのなかには、東大の宮澤俊義、早大の中野登美雄(後の第5代総長)、同志社大の田畑忍といった教授たちも含まれていた。
このように、天皇機関説を採用した教科書や著書の絶版や改訂、講義案の改訂という形で抹殺していくやり方は、「火炎を使わない焚書」のようなものではないだろうか。
そんなとき、たまたまドイツのアマゾン(amazon.de)で、『美しき新しき予防国家――安全立法、国家的監視、そこから生ずるドイツ連邦共和国の民主主義と法治国家性にとっての危険』(R.Sonntag,Der Schöne neue Präventionsstaat:Sicherheitsgesetzgebung,staatliche Überwachung und die daraus resultierenden Gefahren für Demokratie und Rechtsstaatlichkeit in der Bundesrepublik Deutschland,2009)という本を購入した。「9.11」後の治安機関による電話や電子メールの傍受、ネット規制などを分析したものである。タイトルだけに惹かれて購入したものだが、そこからいろいろな思考が巡った。例えば、国家が人の思想や言論を、それが書物・文書の形で表に出る前に、事前かつ予防的にコントロールする。紙媒体のアナログ的検閲とは違った、高度の思想統制機能が次々に開拓されていく。そんな火炎を必要としない、「ペーパーレス時代の焚書」の可能性についても心しておかねばなるまい。
実際に燃やした焚書。改訂を促した政策。こっそりと規制されるネット。これらが示しているのは、独善的な政治を導く前提となる論理である。それは、主観的な価値観によって規定された美意識が、価値の多様性を排除し、特定の価値観を賛美させることで、「美しい」という抽象的・超越的・非科学的観念に基づいて、美しくないと政治が勝手に決めた思想・言論を統制し、排除するという論理である。
日本はいま、「美しい国」、「新しい国」、「美しき新しき予防国家」へと驀進している。