平成の「5.15事件」――戦後憲法政治の大転換            2014年5月19日

安倍記者会見

1932(昭和7)年5月15日、犬養毅首相(立憲政友会総裁)が首相官邸において、「昭和維新」を唱える海軍青年将校によって殺害された。首相が力によって葬られた日である。その82年後、首相官邸において、首相が憲法を葬る道に踏み出した。午後6時からの記者会見(録画)を見ながら、背筋に冷たいものが走った。それは、作家の保阪正康氏によれば、まさに「情念的感情的政治」にほかならない。保阪氏はいう。「5.15事件や2.26事件後、軍事指導者たちが盛んに『非常時』という言葉を使い、議員も庶民も世の中全体が『非常時』。しかし、両事件も満州事変も軍が自作自演したものだ」(『東京新聞』2014年5月16日付談話「主観的正義繰り返すな」より。傍点引用者、以下同じ)。まさに憲法を葬り去る「情念政治」のはじまりを象徴する記者会見だった。

本来、安全保障政策の転換をはかるというなら、具体的かつ客観的な根拠を示しつつ、論理的かつ理性的に説明がなされるべきだろう。しかし、安倍首相は冒頭から、イメージと感情に訴え、安保法制懇報告書の極端に単純化されたモデルに基づき、強引な結論に導く強迫的手法を駆使した。この記者会見の要旨を各紙とも5月16日付に収録している。今回、定期講読している4紙に加え、『産経新聞』『日本経済新聞』『山梨日日新聞』の計7紙を入手して比較してみたが、記者会見全文を収録したのは、共同通信配信を使った『山梨日日』だけだった(他に『信濃毎日』なども全文収録)。同紙は『朝日』とともに安保法制懇報告書の全文(ここで読めます)も収録しており評価できる。テレビで見たときよりも、会見全文を通しで読んだ方が違和感はさらに増した。一国の首相の記者会見としては歴史に残る異様な風景だったので、あえて詳しく紹介しよう。

報道記事

この報告書を受けて考えるべきこと、それはを守り、を守るため、は何をすべきかということだ。…海外に住むは150万人、さらに年間1800万人のが海外に出かけていく時代だ。その場所で突然、紛争が起こることも考えられる。そこから逃げようとするを、同盟国であり能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも自身が攻撃を受けていなければ、が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない。これが憲法の規定の解釈だ。…

…一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊と共に汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを。これが現実だ。皆さんが、あるいは皆さんのたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っているや日本政府は、本当に何もできないということでいいのか。内閣総理大臣であるは、いかなる事態にあっても。…

…再度申し上げるが、まさに紛争国から逃れようとしているかもしれない。彼らが乗っている米国の船をいま。そして世界の平和のために、まさに一生懸命汗を流している皆さん、を、私たちは自衛隊という能力を持った諸君がいても守ることができない。そして一緒に汗を流している他国の部隊、もし逆であったら彼らは救援に訪れる。しかし、私たちはそれを断らなければならない。。その責任を有するは、総理大臣は、日本国政府は検討していく責任があると私は考える。…

何と情緒的な説明だろうか。2枚のカラーパネルを使い、オーバーアクションで熱弁をふるう。「私」が何度も出てくる。パネルには米艦に乗る乳児を抱く母親とそれに寄り添う幼児のイラストが。会見前日、「パネルで俺は勝負する」といって、首相自ら図案を決めたという(『産経新聞』5月16日付)。パネルをより大きなものに変更させ、米艦より母子の方を大きく描くことまで細かく指示したため、事務方は明け方まで大変だったようだ。

問題になっているのは、集団的自衛権の行使の問題であり、まさに国と国との関係にかかわる事柄である。日本が攻撃されていないにもかかわらず、他国の武力行使に積極的にコミットするということである。それを「日本人」の命を守るため、お母さん、子どもたちの命云々と声高に語っても、まったく説明になっていない。一夜漬けには限度があるようで、安保法制懇報告書が想定するケースのなかで、集団的自衛権から一番遠いケースを使って、集団的自衛権行使容認の結論に誘導しようとするものだろう。

米艦防護パネル

そもそも女性や赤ん坊が米軍の艦船で日本に向かうような事態が現実にあり得るだろうか。米軍の民間人輸送基準は、米国市民が第一位である。日本人の「おじいちゃん、おばあちゃん」などは低い順位である。韓国には3万3000人を超える邦人がいる。米艦で輸送できる数ではない。安倍首相はまた、「日本近海」での攻撃があるというが、攻撃されているのは韓国である。いまの日韓関係では、韓国が日本に救援要請をするかどうかはすこぶる怪しい。だから、韓国に直接救援に行く想定ではなく、わざわざ米艦が日本近海で攻撃されるケースを創作したのだろう。この想定自体が、周辺諸国から孤立している安倍政権の「自己投影」というほかはない。仮に、邦人の大量避難の必要性が生まれた場合であっても、集団的自衛権の行使でそれを行うというのは安倍首相の妄想である。「見捨てない」方法を冷静に検討し、実施するのが政治の任務のはずである。

さらに言えば、安倍首相は、反撃できずに「見捨てるのか」と言うが、集団的自衛権を行使した「後」のことについてまったく言及していない。日本が反撃すれば、「子どもたち」が乗っている米艦はただではすまない。日本本土への攻撃も行われるだろう。相手国の船にも被害が出るだろう。いずれにしても、たくさんの人が死ぬのである。まっさきに攻撃の目標となり得るのは沖縄である(5月15日は沖縄本土復帰42周年)。そのリアリティなしに、「私は日本人を守ります」とは言えないはずなのだが、記者会見をする安倍首相は自分の言葉に酔っているように見えた。「大本営発表の時代」だけでなく、いつの時代でも、こういう自己陶酔型が危ないのである。

NHK解説委員

『朝日新聞』は「論より情?」の見出しで安倍記者会見を報じ、政権幹部ですら、「本質的な事例を隠したのでは」と批判されることを率直に認めたという(16日付36面)。首相の目指す方向に親和的な論調の『日本経済新聞』でさえ、コラム「春秋」では、「情感にも訴えて得々と持論を説いた。意気込みはわかるが、本当に行使する局面はどんなときか、それがどこまで許されるのか、なお見えてこない」と苦言を呈している。

ところが、これを前向きにフォローしようとしたのがNHK(政治部=政権部?)だった。岩田明子NHK解説委員は記者会見直後に、安倍首相の想いまで懇切丁寧に「解説」していた。報道機関としては異例の踏み込み方である。これまでも彼女やNHK政治部記者の解説は、「安倍総理大臣としては…」という形で、まるで内閣広報室の担当官のような説明の仕方が目立ったが、この日のフォローは際立っていた。特に朝7時のニュースはすごかった。

「(記者会見の狙いは)国民にわかりやすく自らのメッセージを伝えることでした。安倍総理大臣は記者会見でパネルを2枚使い、集団的自衛権の行使を容認しなければ実行できない具体的な事例を説明しましたが、これも安倍総理大臣の発案だったということです。また安倍総理大臣は、日本が再び戦争をする国になったといった誤解があるが、そんなことは断じてありえないなどと強調しました。安倍総理大臣は行使を容認する場合でも限定的なものにとどめる意向で、こうした姿勢をにじませ、国民の不安や疑念を払拭すると同時に、日本の平和と安全を守るための法整備の必要性、重要性を伝えたかったのだと思います」。

「断じてありえない」というところは力がこもっていた。そして、行使容認を「限定的なものにとどめる意向」とやって、最後は「思います」と、自己の見解を披瀝してしまった

首相の思い(情念)は、日米関係を軍事的に対等なものにし、日米安保条約を双務的なものにするということである。これは祖父の岸信介の果たせなかったことである。だが、集団的自衛権行使を憲法解釈の変更で可能にするという無理筋を行うことで、それを達成できると本気で考えているところが、安倍晋三の安倍晋三たる所以なのかもしれない。あまりにも単純なのである。自らの思いが思い入れとなって一人歩きし、さらに思い込みに転化し、ついには思い違いとなって権力を支配してしまった。その結果、壮大なる勘違いが、この国を82年前のような気分と空気が漂う方向に導いているのである。その一つが極端なまでの「友敵」思考である。

安倍首相のやり方は、どこまでも「敵」をつくるやり方、端的にいえば、「味方にできなくてもいいから、敵にしない」の逆をいくやり方である。だから、中国との対話の窓は開かれていると言う一方で、「尖閣には領土問題は存在しない」と言い切り、あまつさえ学校教育の現場で「領土教育」をはじめてしまう。これでは相手は話し合いにのることができなくなる。

ことさらに反感と反発をかう言動の数々は、米国との関係でも繰り返されている。オバマ大統領との首脳会談の前日に、閣僚が靖国参拝をする。首相として、閣僚に参拝を我慢させるのが常識的対応だろう。こうして「味方にできる人まで敵にしてしまう」。

「敵」を増やす一方で、ロシアのプーチン大統領やトルコのエルドアン首相などと、不自然な「友」の作り方もする。石川健治氏(東大教授)は「安倍内閣は、このタイミングで、公式に北東アジアを『敵・味方』に二分しようとしているのである。これは、憲法9条が想定する国際関係観からの大転換であり、ひとたび渡れば引き返せないルビコン川を渡るにひとしい選択である」と的確に指摘している(『朝日新聞』5月16日付2面)。

C.シュミット的「友敵理論」における「敵」とは実存的な他者ないし異質者であり、「友」とは自己の存在を肯定し「敵」とたたかう者であるから、この区別は、敵対性と同質性を強めざるを得ない(田中浩他訳『政治的なるものの概念』未來社、1970年所収)。北東アジアにことさらな「友敵関係」を拡大しようとする安倍政権は、日本国憲法が想定・期待する国際関係のありようとは明らかに異質な道を進んでいる。国連の集団安全保障のあり方とも異なる、19世紀的な時代錯誤の「同盟論」になお固執している。自衛隊員に戦死者が出ることへの「覚悟」を説くのも、そうした「過去」への逆走(武力行使できる日本を「取り戻す!」)の故だろう。

防衛庁生え抜きで、官房長、運用局長、官房副長官補を歴任した柳澤協二氏は、「安倍首相が追求する政策目的が『米艦を守る』といった具体的な軍事技術的なものであるとすると、それ自体、首相が掲げる政策目的としては小さすぎ、法技術的にも他の選択肢があるため、憲法解釈を変更する必然性がない」とズバリ指摘している。そして、「安保政策の説明における抽象性・非論理性は、安倍政権の最大の特徴と言える」(同『亡国の安保政策――安倍政権と「積極的平和主義」の罠』〔岩波書店、2014年〕ⅶ頁)と書いている。私はここに「情緒性(情念性)」を加えたい。この特徴は安倍氏に一貫したものである。

10年前、自民党幹事長だった安倍氏が雑誌『論座』(朝日新聞社)に書いた論文に対して、私は「あまりに情緒的な改憲論」と同誌の次号で批判した(『論座』(朝日新聞社)2004年3月号184-191頁)。そのなかで、自由民主党第2代総裁、元内閣総理大臣石橋湛山のことを紹介した。湛山は戦前から軍部に抵抗し、戦後は、米ソ冷戦のなか、中国やソ連との対話を求めて努力しつつ、軍事力強化の道に警鐘を鳴らした。「国連はまるで無能無力のように悪口をいうものがいるが、私はそうは思わない」として、政府は国連強化の方向に努力すべきであると力説した。「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に政治を託するわけにはいかない」(松尾尊兊『石橋湛山評論集』[岩波文庫、1984年]282頁)と明言した。

湛山が病に倒れたあとに首相になったのが岸信介である。その孫が、父・晋太郎の命日(1991年5月15日没)をわざわざ選んで、祖父と父に「ボク、とうとうやったよ」と目を潤ませたとしたら、それは、隣国の三代目独裁者が、祖父と父を意識して未熟な暴走をしているのとほとんど変わらないだろう。

なお、首相がパネルで説明した二つの事例を含め、安保法制懇の想定するケース・事例が成り立たないことは、拙稿「安保法制懇の『政局的平和主義』――政府解釈への『反逆』」(『世界』〔岩波書店〕2014年5月号80-92頁)で詳しく批判した通りである。その破壊的「結果」についてもすでに指摘したので、ここでは繰り返さない。

一点だけ付け加えておけば、安倍首相が記者会見のなかで、安保法制懇の「ただ一人の憲法学者」の説く「自衛戦力合憲論」を採用しないと述べたことである。これには正直驚いた。これまでの政府解釈と整合しないというのが理由である。多国籍軍への参加やPKO活動での武器使用を全面的に認める提言についてもこれを不採用とした。しかし、これはあまりにも不自然である。集団的自衛権の行使そのものが、「限定的」であれ、これまでの政府解釈と整合しないのである。それにもかかわらず、「自衛戦力合憲論」に基づく極論だけを不採用にするポーズをとることで、連立与党・公明党への秋波を送ったつもりだろう。安保法制懇の北岡伸一座長代理が「報告書の一部不採用に理解を示す」と、『読売新聞』5月16日付だけが報じたのだが、その理由は、「憲法解釈見直しと最初から言うと(公明党が)協議に乗ってこない」からだという。提言が一部採用されなかったことに怒るでもなく、妙に物分かりのいいのも、現代日本のマキャベリスト・北岡氏らしい。この一部不採用の問題を含めて、また別に論じる予定である。

ちなみに、京都女子大教授・市川ひろみさんによれば、安倍記者会見が行われた5月15日は「国際兵役拒否者の日」だという。ひょっとしたら、安倍首相は、「徴兵制違憲解釈」(1970年10月28日衆院内閣委 高辻法制局長官など)の撤廃に向けて、この日を選んだのかもしれない(そんなはずないか)。

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