安倍首相の目つきが危ない。党首討論では民主党代表を軽くいなし、有頂天の安倍首相は、首相の「指示」を次々に出して、勢いづいている。参議院の審議にまで介入した7年前の憲法改正国民投票法の制定過程が想起される。それについて書いた「直言」の終わりの7行をみてほしい。先週、この法律の改正案が成立した(この問題はまた後日論ずる)。
6月13日、自民・公明の与党協議において、高村正彦自民党副総裁は、集団的自衛権行使を認めるための「高村私案」として「新3要件」を公明党に示した。1972年田中内閣のときの政府解釈(集団的自衛権の違憲解釈)をつまみ食い的に使って、まったく逆の結論を導いたものだ。もはや論理の世界の話ではない。法学部出身で弁護士資格をもつ高村副総裁は、「安倍的」なるものに「誠実」であるために、もはや「知的」ではない(注1)。
砂川事件最高裁判決を恣意的に援用したかと思えば、今度は1972年政府見解の超弩級の恣意的利用である。そもそもこの政府見解は、自衛隊は憲法9条2項の「戦力」に該当し違憲であるとする札幌地裁判決(長沼ナイキ基地訴訟、1973年9月7日)の前年に出されたものである。札幌地裁での訴訟の展開などから、1972年当時は、集団的自衛権行使が違憲であることは自明であって、むしろ、自衛隊違憲の主張に対して、(個別的)自衛権に基づく自衛措置の正当性を補強しようとしたという面は否定できないだろう。「その(自国の)存立を全うする」「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」といったやや過剰な表現を加えたのもそのためだったのではないか、と私は推察している(この点、『北海道新聞』6月14日付のコメントで指摘した)。
高村氏はその72年見解で挿入された修辞的部分だけ取り出し、それを、あろうことか72年見解自身が正面から否定した集団的自衛権行使を合憲とするため使ったのである。「幸福追求の権利」という憲法13条の文言を唐突に持ち出したのも、「お父さん、お母さん、子どもたち」といった情緒的文言を連射した安倍記者会見(5月15日)の手法とよく似ている。72年見解にはなかった「おそれ」をこっそり加えている点を含め、72年見解の換骨奪胎的恣意利用については、写真の『東京新聞』6月14日付がわかりやすく解説しているので、そちらを参照されたい。
さて、高村氏は、13日夜の報道ステーションで、さらに驚くべき言葉を発した。「比較衡量」である。記者が集団的自衛権行使によって「(自衛隊員の)血が流れる可能性」「戦争に巻き込まれる可能性」について質問し、高村氏はこう答えた。「血が流れる可能性」「戦争に巻き込まれる可能性」について「心配な点もあります。一方で、それによって守られる日本国民の幸福追求の権利、まあ、経済的なものも含めてあるわけですね。そういうものの比較衡量というのは、ぎりぎりになれば、それは政治の責任者が判断すべきこと」(報道ステーション6月13日)と。
「血が流れる」というのは、戦闘中に自衛隊員に死傷者が出るということである。「戦争に巻き込まれる」場合は、自衛隊員に限らず一般の個々人の死傷者もありうる。生命と「国民の幸福追求の権利、まあ、経済的なものも含めて」とがフラットに比較衡量の対象にされている。自衛隊を使って武力行使をして、経済的な幸福も追求するというわけだ。しかし、経済的利益を確保するために海外で武力行使をして、自衛隊員が命を失うような仕方で幸福を追求することを、そもそも日本国憲法は禁止している。
ドイツ基本法1条(憲法上の「人間の尊厳」の不可侵)は、尊厳と尊厳との比較衡量、命と命との比較衡量を許さない。 人間は、常に目的それ自体であって、決して手段として扱われてはならないからである。ドイツの例を挙げずとも、ましてや生命と「経済」(お金)は比較衡量されてはならず、生命が当然優先する。安易に比較衡量という言葉を持ち出し、「どっちを選ぶかという判断は国民から選ばれた政治家以外ない」と言い切り、それが「歯止めだ」と居直る。もしもその比較衡量が間違っていたら(戦争の悲惨な結果になったら)、そんな政治家を選んだ国民が悪い、ということになる。高村氏のあとにインタビューされた岡崎久彦元駐タイ大使(安保法制懇メンバー)は、「その総理を選んだ国民が悪いんだ。国民全部の責任ですよ」とあっけらかんと語った。
このような集団的自衛権の限定行使が「落とし所」なのか。公明党は、6月14日付各紙の観測によれば、「高村私案」に乗る方向だというが、どうなるだろうか。私は「新3要件」を公明党が丸飲みすることはないと思いたい(もし丸飲みすればアウトである)。
集団的自衛権をめぐる安倍内閣の暴走の根は「安保法制懇」の報告書にある。それについて、『世界』5月号に続き、7月号でも徹底批判を加えたので参照されたい。最近、TBSのニュース23で、佐瀬昌盛氏(防衛大名誉教授)は、安保法制懇の異様な運用と審議の状況を「内部告発」した。安倍首相が成蹊高校から学内推薦で成蹊大学に進学するときの面接委員をつとめた「恩師」の告発だけにリアルである。「オトモダチ」の間ですら、審議がまったく不十分、自由な議論をさせないような状況でつくられた報告書であることが判明した以上、これに基づく憲法解釈変更の閣議決定など論外である。
ところで、私は『世界』7月号拙稿の最初の方で、集団的自衛権行使の問題とは異なる論点を提示した。以下、長いが引用する(『世界』7月号100頁)。
…安倍首相は会見で、解釈変更が必要なら閣議決定すると語った。従来、徴兵制度違憲と海外派兵違憲について「解釈を変更するということは考えられない」(1983年3月3日衆院内閣委 味村内閣法制局第一部長)とされてきた。ちょっとアングルは変わるが、こういう政府解釈もある。すなわち、「宗教団体…が公職の候補者を推薦したり支持をしたり、そうした結果としてこれらの者が公職に就任をいたしまして、そして国政を担当するに至る…状態が生じたといたしましても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的には別個の存在であり、宗教団体が…政治上の権力を行使していることにはならないのであるから違憲の問題は生じない」(1995年11月27日参院宗教法人特委 大出内閣法制局長官)とする解釈である。関根則之参院議員(自民党)は、「創価学会のごとく、宗教団体が、…その教義に基づく政治支配を企て、政権獲得をめざす政治的活動をすることについては問題があり、これはそのまま是認すべきではない」という観点から、この「政府の考え方、解釈を変えてもらいたい」と主張した。大出内閣法制局長官(当時)は、最高法規である憲法の解釈は「自由に変更することができるという性質のものではない」、「国会等における論議の積み重ねを経て確立され定着しているような解釈については、政府がこれを基本的に変更することは困難」(1995年11月27日参院宗教法人特委)と答弁している。
いま、安易な憲法解釈変更の前例を作れば、歯止めはなくなり、右のような宗教団体に関する政府解釈も、時の権力者の趣味や気分によって変更される可能性は否定できないだろう。…
憲法20条1項後段(「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」)と、創価学会・公明党との関係については、自民党は執拗に追及し続けてきた。他方、内閣法制局は、一貫して政府解釈を維持し続けてきた。どことなく、集団的自衛権の違憲解釈と似ている。
創価学会・公明党の関係は、1969年の言論出版妨害事件を契機に鋭く問われ、この点に関して初の政府解釈が示された。それが下記である(1970年3月31日「衆議院議員春日一幸君提出宗教団体の政治的中立性の確保等に関する質問に対する答弁書」)。
…政府としては、憲法の定める政教分離の原則は、憲法第20条第1項前段に規定する信教の自由の保障を実質的なものにするため、国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨であると解しており、それをこえて、宗教団体又は宗教団体が事実上支配する団体が、政治的活動をすることをも排除している趣旨であるとは考えていない。…
また、同年4月24日「衆議院議員春日一幸君提出宗教団体の政治的中立性の確保等に関する再質問に対する答弁書」には、さらに踏み込んだ記述があり、それに対する政府解釈が示されている。
…宗教団体が政権を獲得するというのは、宗教団体が、公職の候補者を推薦し、または支持した結果、これらの者が公職に就任して国政を担当するにいたることを指すものと解されるところ、仮りに、このような状態が生じたとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなつた者とは、法律的には、別個の存在であるばかりでなく、また、…当該国政を担当することとなつた者が、国権行使の面において、当該宗教団体の教義に基づく宗教的活動を行なう等宗教に介入し、または関与することは、憲法が厳に禁止しているところであるから、前述の状態が生じたからといつて、直ちに憲法が定める政教分離の原則にもとる事態が現出するものではなく、したがつて、前述の状態が生ずることそれ自体が、憲法に抵触するものとは解されない。とすれば、前述の意味における政権獲得をめざす政治的活動が憲法上許されないとされるべきはずがなく、その政治的活動の自由は、憲法第21条第1項が「集会、結社及び言論・・・・・・その他一切の表現の自由」を保障している趣旨にかんがみ、尊重されるべきものと解する。…
実は、『世界』7月号が出された2日後に、公明党を恫喝するような発言が飛び出した。ワシントンで講演した飯島勲内閣官房参与は6月10日、公明党と創価学会との関係が憲法の政教分離原則に反しないとしてきた従来の政府見解について、「もし内閣が法制局の答弁を一気に変えた場合、『政教一致』が出てきてもおかしくない」と述べ、変更される可能性を示唆したのである。「宗教団体に関する政府解釈も、時の権力者の趣味や気分によって変更される可能性は否定できないだろう」という拙稿の指摘が、発売後たった2日で現実のものとなった。連立与党に対する官邸内からのこうした声に、安倍首相は何のリアクションもしなかった。
それもそのはずで、政府見解を批判する急先鋒が、当時野党の一新人議員の安倍晋三氏だった。安倍氏は、公明党と創価学会の関係が憲法の政教分離の原則に反すると主張していた自民党有志の勉強会「憲法20条を考える会」の設立メンバーにも名を連ねていた(『東奥日報』2014年5月24日付)。その時の事情は次の通りである。
…首相と公明党との因縁は約20年前にさかのぼる。安倍氏が初当選した衆院選は1993年。同じ衆院選で自民党の下野が決まった。当時の公明党は細川連立与党の一角を占め、自民党と激しい政争を繰り広げていた。野党の新人議員となった安倍氏は政権批判の一環で、公明党と創価学会の関係が憲法の政教分離の原則に反すると主張する自民党有志の勉強会「憲法20条を考える会」の設立メンバーに名を連ねた。
関係者によると、勉強会発足直後、安倍氏の地元・中国地方の創価学会幹部が「父親の晋太郎氏以来の付き合いがあるのに(支援を)考え直さないといけない」と忠告すると、安倍氏は「そんなことを言ってくる方がおかしい」と反論したという。当時から安倍氏の有力な支持基盤の一つは保守系宗教団体だ。公明党や創価学会の一部に安倍氏と相いれない空気が残る背景にはこうした事情もある。…
安倍首相の盟友、菅義偉官房長官も、その本来の主張が、14年前の国会質問(衆議院決算委員会第2分科会)によくあらわれている。
○菅義偉分科員 …巨大な宗教団体であります創価学会、私は、この団体はまさに政教一致の団体そのものである、こう考えておるものであります。…(創価学会の)内部資料…はまさにこの政教一致を裏づけるものなんです。
創価学会の運営する大学に対して、平成6年度に16億3837万円、平成7年度には17億9729万円、こうした莫大な金額が助成金として出されている。私は、このことはまさに憲法に違反するのではないか、こう考えますけれども、これについてはいかがですか。
○小杉文部大臣 創価学会と創価大学というのは、これは形式的には分離された存在であります。それで、私立学校はそれぞれ建学の精神に基づいて設置をされているわけでありまして、学校に対しては、学校教育法とか私立学校法あるいは私立学校振興助成法によってさまざまな監督規定が設けられておりますので、憲法89条に言う公の支配に一応属している、こういう理解でございまして、現行の私立学校に対する助成措置は憲法上問題はない、こう考えております。
○菅(義)分科員 …宗教団体の所有する不動産やその収益と目されるべきものについて課税対象から外しておる。私は、政治と関係をするものについてもやはり憲法違反の疑いというのはあると思いますけれども、これについてはいかがですか。
○小野(元)文化庁次長 お話ございました政教分離の原則でございますけれども、これにつきましては、信教の自由の保障を実質的なものにするということがございまして、そのために国及びその機関が国権行使の場面において、宗教に介入し、あるいは関与するといったことを排除する趣旨だというふうに理解をされておるところでございます。…創価学会さんもいろいろな活動を行っておるわけでございますけれども、一般に宗教法人は、その行う宗教活動につきましては他の公益法人と同様に公益性が認められておるわけでございまして、そういった観点から税制上の優遇措置が行われておるわけでございます。このことは、仮に宗教法人が一部政治活動を行っているといった場合であっても、原則としての公益法人並みの扱いということは変わりがないというふうに考えているところでございます。
○菅(義)分科員 私は一部でないと思っておりますけれども、この論議は避けます。次に、…
(140-衆-決算委員会第二分科会-2号 1997年5月27日)
憲法研究者としては、20条1項後段の理解は、「政治の宗教への介入の禁止」と「宗教の政治への支配の禁止」の両方向からのアプローチが必要だと考えている。しかし、『世界』7月号の拙稿でも指摘したように、「国会等における論議の積み重ねを経て確立され定着しているような解釈」については、政府がこれをその時々の事情で簡単に変更することはすべきでないだろう。その意味で、現段階において、公明党の執行部に対しては次のように言いたい。ここで、集団的自衛権をめぐる安易で簡易な憲法解釈変更に乗るならば、これが前例となって、やがて、宗教団体に関する政府解釈も「時の権力者の趣味や気分によって変更される」ことを覚悟しなければならない、と。