物心ついたときに意識した首相が岸信介だった。「安保反対、岸を倒せ」。小学校1年生だったが、中学教員の父が鉢巻きをして国会前に出かけるのをみていた。だから「岸」といったら、「反対」「倒せ」という言葉が条件反射的に出てきた。この写真はネット上にある、1960年6月18日に33万人(警察発表は13万人)が国会を取り囲んだときのものである。いま、孫の安倍晋三が、祖父とよく似た風景を目撃している。
私より1つ年下の安倍首相は、祖父の膝の上で、「おじいちゃんをいじめる悪い奴ら」への怒りをつのらせていたのだろう。岸以来、首相は26人。これまでの首相は、集団的自衛権行使は違憲という政府解釈に手をつけることはしなかった。しかし、安倍首相は、昨年7月、長官人事に介入して内閣法制局をねじ伏せ、集団的自衛権行使は憲法上可能という政府解釈の変更を行った。この「7.1閣議決定」を具体化した安保関連法案は、9割の憲法研究者、存命中のほとんどの内閣法制局長官経験者、そして、3人の最高裁判事が憲法違反の疑いを指摘している。だが、安倍首相らは、憲法について判断できるのは憲法学者ではなく、最高裁だと繰り返してきた。
先週、ついに最高裁元長官の山口繁氏が「少なくとも集団的自衛権の行使を認める立法は違憲だと言わざるを得ない」として、「7.1閣議決定」を「立憲主義とは何かをわきまえていない」と厳しく批判した(『朝日新聞』2015年9月3日付、共同通信配信『東京新聞』9月4日付)。安倍首相らが法案を合憲とする根拠として持ち出す砂川事件最高裁判決についても、「非常におかしな話だ。砂川事件の判決が集団的自衛権の行使を意識して書かれたとは到底考えられません」と明確に否定した。ところが、この山口元長官の発言について中谷防衛相は、「現役を引退された一私人の発言」と無視する姿勢を示した(9月4日特別委員会)。安倍政権には論理も法理も通用しないようである。そういえば、安倍首相は、「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」(2015年5月20日、国会党首討論で)と言ってのけたことを思い出す。
こういう人物が内閣総理大臣として自衛隊の最高指揮監督権をもっている。安保関連法案が成立すれば、自衛隊の活動範囲は飛躍的に拡大し、日本が攻撃されていなくても、「最高責任者の私」の裁量判断で「存立危機事態」を認定して、部隊の出動(武力行使を伴う)を命ずることが可能となる。国会の答弁はほとんど同じ言葉のメモを読むだけ。テレビに出て奇妙な例え話(不良から麻生クンを守る、母屋の火事は消せないが、離れは消せるというのが集団的自衛権の「限定行使」等々)を懸命にしている姿は無様としか言いようがない。9月4日には、特別委員会開会中にもかかわらず、大阪の読売テレビに乗り込み、ワイドショーに生出演(「首相動静」欄参照)。「丁寧な説明」をしたつもりになっている。
このような人物が国のトップにいること自体が、周辺諸国の軍備拡張傾向(特に中国のド派手な「抗日70周年軍事パレード」〔9月3日〕)を助長する口実を与え、この地域の安全保障環境を悪化させる要因となっているのではないか。早く、本人の口から「私がいることでマイナス」という「真実」を語らせるようにしないと大変なことになる。
安倍政権の立憲主義を踏みにじる暴挙に対して、多くの人が、ふがいないメディアには期待せずに、自ら国会前に行って声をあげるという行動に出ている。このやむにやまれぬ行動は、全国各地で、安保法案に反対する集会やデモという形で持続的に発展している。年齢の広がり(高校生、ママの会から高齢者の会まで)、参加層の多様性(創価学会の会員も)はかつて見られなかったことである。デモというのは、憲法21条により保障される表現の自由の最も「原始的」(プリミティヴ)な形態であるとともに、政治参加の基本権として、議会制民主主義を補完・活性化する機能をもつ。近年、SNSの発展により、集会やデモの規模や内容はかつてなく広まっている。これは、ビラやポスターで集るのとは違った、新しいタイプの運動に発展している。こうした集会やデモは、選挙で選ばれた(といっても絶対得票率24%(小選挙区、比例は17%))安倍政権が、過半数の国民が法案に反対(説明が不十分は8割)しているのに、まったく聞く耳をもたず、採決を強行しようとしていることに対するまっとうな権利行使と言えるだろう。そうしたなか、8月30日(日曜)、国会前とその周辺に12万人もの人々が押し寄せた。私の周辺でも、こんな人がという人たちが国会前に行こうと腰をあげていたから、もし晴れていたらもっと多くの人が参加しただろう。
私は、29日から31日まで新潟と札幌で講演をしていたが、当日13時過ぎから、国会前に行った人たちから写真付きのメールが携帯に続々と届くようになり、まるで国会前中継の様相を呈した。札幌の講演では、この国会前からのメールについても紹介したので、「臨場感あふれる話になった」という感想をもらった。
札幌駅近くのホテルにもどってNHKなどのニュースを見たが、国会前集会のことはほとんどやっていなかった。日曜日だったこともあるが、それにしてもこのスルー(無視)は何だろうか。唯一、外国人客用の国際放送チャンネルで英国BBCのワールドニュースをみていると、23時と翌31日午前1時の2回、それぞれ違ったレポーターで国会前の状況を詳しく伝えていた。23時の分では、上智大の中野晃一氏が英語でインタビューに答えていた。日本にいながら、日本で起きた出来事を、外国のメディアで知るはめになった。
参加者は12万人なのか、3万人(警察発表・産経新聞)なのか。こういう瑣末な議論がネット上にはあふれているが、現場に行ったゼミ生から届いたメールを紹介しよう。
「水島先生、おはようございます。新潟・札幌でのご講演お疲れ様でした。昨日の国会前デモの参加人数について、例のごとく主催者発表と警察発表の間に大きな差が出ています。ネット上では、報道された空撮写真から、主催者発表の数字はあまりにも大きすぎ、実際の人数ははるかに少ないだろう、と推測する論調も見かけました。しかし、私は昨日現地に行き、霞が関の駅から国会前を通り、国会図書館を通って永田町駅まで歩いてみましたが、本当にたくさんの人が参加していること、文字通り肌で感じ(激混みでした)、本当に驚きました。ネット上で現場写真からいろいろと推測することはできますが、やはり実際に現地に行ってみてこそわかること、感じることはとても大きかったです。水島ゼミで常に言われている「現場主義」の大切さを改めて身をもって痛感した気がします。」
さて、当日、国会正門前の「最前線」に行って、刻々とメールや写真を送ってくれた直言スタッフの一人に、当日のルポを書いてもらった。以下、本人撮影の写真とともに掲載する。
国会前からの報告13時に着いた私は、すでにコールを始めているシールズを見つけ、そこへいった。法案に反対している意思を政府に表明したいが、何にも属していない私のような一人参加の人間にとって、シールズの存在は「灯台」だ。毎週金曜に立っているという彼・彼女らの行動の誠実さと努力には感謝してもしきれない。
この時点でシールズは、国会議事堂からずっとずっと手前、200mくらい下がった歩道の植込みで声をあげていた。日曜で交通量が少ないにもかかわらず、国会正門前から真っ直ぐに伸びる車道へは出られないように鉄柵が置かれ、そのため、続々と集まって来る参加者が、狭い歩道にひしめきあっているが、その広くもない歩道にさえ、警察は通行路の確保としてコーンを置き、半分に仕切っている。警官がコーンの外側で立ち止まってコールしようとする者たちに、「通路ですから立ち止まらないでくださ~い」と注意を促す。コールする人の数はもう歩道の半分ではとても収まらない。コーンの内も外もどんどん人で膨れあがり飽和状態だ。給水車も出ている。太鼓の音。拡声器の声。霧雨と汗の混ざった匂いが蒸気になって立ち昇る。コールは続く。
♪センソウホウアン ゼッタイ ハンタイ!(戦争法案絶対反対!)
♪ア・ベ・ゥハ・ヤ・メ・ロ!(安倍は辞めろ!)やがてコーラーの声に「♪前へ、前へ」というのが混ざってきた。シールズの移動に合わせて、その場の者たちも少しずつ歩道をジワリジワリ前進していく。私も続く。すると、給水車のあたりで1人2人3人、次々に鉄柵をまたぎ出した。10人、20人、その勢いはあっという間に広がって、とうとう柵をずらして皆、道路へと出て行った。国会議事堂の正面まで真っ直ぐに伸びる道だ。警官らは、黄色い規制テープを握り合ってバリケードしているが、皆それも突破して前へ。私もそのまま一番前まで進んで行った。
そこからの警察の動きは速かった。黄色い規制テープ突破の小競り合いは最低限にして、その分、行く手へ先回りし、国会正門前へ横断する手前の道路に鉄柵を並べて、そこで人も車も通行を遮断。国会議事堂へ渡る道は封鎖されてしまった。それは思いがけないことだった。そのまま議事堂の前まで行かれると思っていたから、まさかこんなに手前でバリケードされるなんて。
しかも鉄柵だけではない。ほどなく、特10、特11などと書かれた数台の警察車両が横付けされ、私たちの視界から議事堂が消えた…。主権者が国会へ近づけないという、この理不尽感、疎外感。シールズの言う通り、“民主主義ってなんだ?”ろう。
驚いたので、物を知る誰かに尋ねてみたく、運よくちょうど隣でカメラマンと取材をしていた金平キャスター(TBS)に、口に出るまま訊いてみた。「あの、こんなのっていいんですか?」。金平さんは、なんら構えることなくその質問に人として答えてくれた。さすがは『報道特集』。伊達じゃない。あの番組は本物だと実感した。
鉄柵の向こう側を、黄色いひまわりのブローチと「弁護士」の腕章をつけた男性二人が歩いているのが見えた。彼らにもこの封鎖ラインの位置は過剰規制なのかどうか、法的見地を質問してみたかった。警察車両で議事堂を隠して封鎖する門前払いは、真実を隠して国民の意見を聞かない、現政権の姿勢をなんとも象徴している。
♪ドーデモイーナラソーリヲヤメロ!(どうでもいいなら総理を辞めろ!)
♪カッテニキメンナ!(勝手に決めんな!)コクミンナメンナ!(国民舐めんな!)
♪ハイアン!(廃案)ハイアン!(廃案)…最初に、「♪前へ、前へ」のコールで前進したように、私はこの鉄柵も皆で超えて行くのかと期待した。だが、そうはならなかった。コールを続ける私たち市民らと議事堂とを隔て、威嚇的にそびえる警察車両と鉄柵の前で、私は、この規制は正しい規制なのかどうか、自分も含めてこれは温室育ちの抵抗ではないのか、法案反対を求める表現・場所・通行の自由や権利は、本来どう認められるべきなのか、判断つかずにまだモヤモヤしていた。
そこへ後方から大きな布が、皆の手をつたい回ってきて、前へ、上へと送られていく。「ええ?!何コレ?!」風船が100個くらいついている。なんと、巨大な布の風船プラカードが、上空から易々とバリケードを突破したのだ。
「ヒュー!!!ヒュー!!!ヒュー!!!」。バリケードで行く手を封鎖されたうっぷんを平和的に晴らしてくれる風船プラカードに、皆から歓声と拍手があがる。
ずっと見ていると、この「安倍やめろ」と大きく書かれた風船プラカード、途中で少し緩み、ふわ~りと警察車両の屋根の上に着地してしまった。「おおっ!」と思った瞬間、間髪入れずにパトカーのサイレンが「ウーウーウーウー!」とけたたましく鳴った。そんなハプニングも挟み、風船プラカードは再び空へ戻っていった。
この日、どんな人たちが参加していたか。私は国会正面の位置に立っていたが、そこで、背中に厚紙をぶら下げているかなり高齢の方を見かけた。小雨にあたって、その紙はだんだんと破けている。メッセージは手書きだ。「戦争法案反対。学会員の多くは自民党のシッポになり下った公明党の幹部達に怒りを持っています。元創価学会員」。群衆の中で疲労が見え、立っているのも辛そうな様子。生命をかけて「訴え」に来られたんだなと思った。
その他、団体ののぼり旗ももちろんたくさん見られたが、自分の周囲には私のような一人参加も少なくなく、夫婦・親子・恋人などのペアや、家族や友人との少人数型も目立っていた。年齢も、小さな子から90歳くらいとおぼしき方まで、どの年代が突出しているとも思えない、万遍ない層の参加があったのではないか。そして、なんとも普通に、さり気なく来ている人を多く見かけ、それにも新鮮な印象を受けた。そのように、「参加することを特別なことと捉えない」、肯定されるデモ、デモの一般化、デモと日常、デモとの距離の縮まりというのも、新しい形なのかもしれない。
16時まで参加し、帰宅後NHK「ニュース7」を見たが、この件に関しては、おざなりに野党党首を映しただけだった。現場には、国内外のマスコミのカメラや記者がいっぱいで、上空にもヘリが飛んでいた。これはメディアもしっかりと報道してくれるだろうと思っていた、のにである。むしろ、この度の安保法案に関するデモで報道されるべきことは、「個人が目覚めた民主主義行動」という点ではないだろうか。「立憲主義を知った個人の行動」でもいい。それがなぜ、野党党首を映すだけの報道なのか。政治家や有名人が挨拶したことよりも、雨の中、休日、電車に乗って、大勢の名もない市民が、「自分の意思で」そこに出かけて行ったことのほうが、日本の民主主義にとってよほど大きな変化ではないのか?
翌朝、月曜の朝日新聞の冷めた一面のレイアウトにも驚いた。「左の肩」は新聞を4つに畳んだら見えない位置だ。この日一面トップニュースの位置を飾ったのは「住宅耐震82%鈍い伸び」だった…。いったい朝日は、何万人が集まればトップニュースに据えるというのか?
NHKも朝日新聞も大企業であり、条件としていい就職先であることは間違いがないだろう。だが、報道会社に就職する人たちの目的がそれだけで、自分自身の社会問題に対する意識が低いのでは、ジャーナリストでなく、「ジャーナリーマン」になってしまう。それでは国民の「知る権利」に関わる民主主義機能の一役を担えないのではないだろうか。
ところで、国会前のバリケード規制とそれに抗議しなかった点についてモヤモヤ感が残った。鉄柵が置かれた規制ラインに、どれくらいの法的根拠があるのか私は知らない。ただ、あの時連想したのは東日本大震災で、整然と行列に並んだ現象を海外から褒められたことだ。その特徴をこの事象に当てはめてみると、「飼いならされた無抵抗の大人しい国民と褒められて喜んでいていいのだろうか?」となる。なぜそんな当てはめをするのか。念頭に浮かぶのは、衆議院で安保法案の強行採決をした翌日、某大臣の「みんなのとこはどうだ?俺んとこの事務所にはほとんど電話もなかったぞ」=だから国民は法案に賛成なんだ、との発言である。政府にもマスコミ(扱いが小さかった社)にも、国民が真剣に怒っていること、怒りの表現はどうすれば認識されるのか。
この疑問と集会の一部始終を私は電話で母に話した。するとこういう意見がかえって来た。「落ち着いた行動をしたのでしょう。主催者は立派です。政府には、みんなの抗議がしっかりと伝わっていると思うよ」と。そう考えると、警察車両で過剰にガードするということ自体、政府に怒りが伝わっているということか。
8月26日、日比谷野外音楽堂での「法曹と学者の集会」に参加した際、シールズの奥田君のスピーチを聴いた。彼が引いたエーリッヒ・フロムの言葉の中に「うずくまった虎」というのがあった。
≪希望は逆説的である。希望はうずくまった虎のようなもので、とびかかるべき瞬間が来た時に初めてとびかかるのだ。希望を持つということは、まだ生まれていないもののためにいつでも準備ができているということである。たとえ一生のうち何もうまれなかったとしても絶望にならないということである。弱い希望しかもてない人が落ち着くところは太平楽か暴力である。強い希望を持つひとは新しい生命のあらゆる兆候をみつけてそれを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生をたすけようといつでも準備を整えているのである。≫
私には、この虎は「憲法」に思えた。眠っているように見える虎は、真正の危機には決して黙っていない、「吠える虎」である。これまでも勝手な解釈にさらされて来た憲法だが、さすがに今回の解釈には怒って吠えた。
また彼はこうも言った。「私たちは常に「問われている」」と。私はシールズのとる方法や姿勢には、肥大してしまった組織にはない、常に自らに「問う」、哲学を感じる。そこに惹かれる。彼らの有名になったコール「民主主義ってなんだ?」に「これだ!」と応える、あの英語ヴァージョン。
♪Tell me what democracy looks like.
♪This is what democracy looks like.
「これだ!」と言い切らない、「looks like」が付いているところが素敵だ。誰もこれが正解なんて言ってない。常に悩みながらやっている。正解がわからないから何もしないというわけにはいかないんだ。
奥田君:「どうしてこんなに国会前に立ってるかって?うっせー!民主主義だから仕方ねーじゃねーか!」
彼らは今、自分の生き方をとおして、社会に蔓延する「正解思考」、「結果追随思考」にも、問うている。