1997年1月3日にスタートした私のホームページ「平和憲法のメッセージ」は、毎週1回更新のエッセー「直言」が、今日でちょうど1000回となった。週1回といっても、稀に「緊急直言」「特別直言」を連続で出したこともあるので、厳密にいうと1000週には少し欠ける。それでも、18年11カ月1週+4日、計6919日間、約19年にわたり、「平和憲法の危機」をさまざまなテーマや切り口を使って、毎週1回、一度も休まないで訴えてきた。1999年3月31日から2000年3月31日までの52回は、在外研究中のドイツ・ボンで執筆した(「ドイツからの直言」)。2006年6月5日に「500回連続更新に寄せて」を出したときのタイトルは、「人生のVSOP」だった。20代はvitality、30代はspeciality、40代はoriginality、そして50歳以上はpersonalityがその年代の軸になるというものである。友人から500回記念の花束も届いた。あと4カ月で私は63歳。連続更新1500回を迎えるのは、早大定年後の72歳のときである。
7年ほど前からブログが普及して、ネット上で誰もが簡易に容易に、そして安易に自己を表現できる時代になった。最近ではツイッターという形で、分単位(秒単位)の発信が行われている。でも、私はブログもやらず、ツイッターもやらず、週1回のホームページの更新という「鈍行」にこだわってきた。おそらく、これからもこの形をずっと続けることになるだろう。
私自身はホームページ作成のテクニカルなことはまったくわからないし、できない。だから1997年以来、管理人がいる。現在10代目、のべ11人になる。また、私が書いた原稿をアップする前に、事実関係のチェックや、細かな表現に至るまで推敲してくれるスタッフがいる。19年近く連続更新ができたのも、これらの人々のおかげである。この機会にお礼申し上げたい。
さて、1000回のこの機会に、「直言」を始めた「1997年」という年について考えてみたい。
先月、深瀬忠一先生を偲ぶ会に札幌へ向かうとき、「積んどく」状態になっていた新書本を、中身もよく見ずに7冊引き抜いて鞄に入れ、空港に向かった。たまたま一番上にあったのが、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014年) だった。拙著『はじめての憲法教室』(集英社新書、2013年)の半年後に出たもので、出版社から献本されていたが、多忙を極め書斎の本の山に埋もれていた。発刊からはや1年8カ月。すぐ電車のなかで読み始めたところ、最初の頁から引き込まれてしまい、飛行機に乗る前に羽田空港のラウンジで読了してしまった。なぜもっと早く読まなかったのかと後悔した。でも、この時期、このタイミングで読む「運命」にあったのだと考えることにした。
直言を始めた「1997年」は、私が早大に着任して9カ月目。NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のレギュラーになり、ちょうど「山一証券の経営破綻」についても語っていた頃である。
著者水野氏は三菱UFJモルガン・スタンレー証券のチーフエコノミストだが、1953年生まれと私と同世代。「資本主義の死期が近づいている」という冒頭の言葉から、「1997年」という年に注目する。山一証券と北海道拓殖銀行が経営破綻したこの年は、国債の利回りが2.0%を下回り、ゼロ金利時代が始まった年だった。この「1997年」までに歴史上、最も国債利回りが低かったのは17世紀初頭のイタリア・ジェノバだという。
ところで、利子率の低下がなぜ問題なのかといえば、金利は利潤率とほぼ同じで、利潤率が極端に低いということは、資本を投下しても利潤を得ることができない。これは資本主義が終焉に近づいていることを意味する。利潤率が低下した「長い16世紀」は、近代資本主義システムへの移行期となった。
そもそも資本主義は「中心」と「周辺」からなり、常に「周辺」のフロンティアを開拓しながら利潤率を確保し、資本の自己増殖をはかってきた。ドイツの憲法(国法)学者 カール・シュミットの『陸と海と』は、「陸の国」スペインから「海の国」イギリスに覇権が移ったことを「空間革命」と呼んだが、「地理的・物的空間」の拡大が限界に達すると、やがてバーチャルな「電子・金融空間」を創設しそれを続けてきた。だが、アメリカが典型で、「電子・金融空間」でも利潤を上げることはできなくなると、貧しい人々の住宅ローンまで商品化して、「サブプライム層」への収奪的貸付までを行うことに。その金融帝国も2008年「リーマン・ショック」で崩壊した。日本では労働規制を緩和して、非正規雇用を4割近くにまで高めて「賃金の節約」をはかっている。こうして労働者の賃金は増えず、中間層の没落が顕著になっていくと、国民の同質性が失われ、民主主義の前提が崩れてくる。まさに「近代化そのものに、近代を破壊する要因が内包されている」というわけである。
この数十年を俯瞰してみても、バブルが崩壊するたびに、新たな「成長信仰」が強められている。後始末には公的資金が投入され、ツケは国民に広くおよぶ。バブルの崩壊は需要を急激に収縮させ、その結果企業は解雇や賃下げなど大リストラを断行せざるをえない。ここに「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」(ウルリッヒ・ベック)というねじれが生まれる。本書のアベノミクス批判の切れ味もいい。「アベノミクスのごとく過剰な金融緩和と財政出動、さらに規制緩和によって成長を追い求めることは、危機を加速させるだけであり、バブル崩壊と過剰設備によって国民の賃金はさらに削減されてしまう」。
先に述べたように、私が「直言」を開始し、本書が注目する「1997年」は、先進国のなかで最も早く資本主義の限界が顕著になった年である。この間に起きた、非正規4割に集中的に表現される「雇用の荒廃」こそ、民主主義の崩壊を加速させるという本書の指摘には同感である。「雇用なき経済成長」が、日本を政治的・経済的な「焦土」と化してしまうという指摘の正しさは、政治の劣化の極致である安倍政権をみれば明らかだろう。
地球上の最後の「地理的・物的空間」であるアフリカ大陸でいま、欧米、中国、日本がしのぎを削っている。著者がいうように、「「アフリカのグローバリゼーション」という言葉がささやかれるようになった点で、資本主義が地球上を覆い尽くす日が遠くないことが明らかになってきました。資本主義が地球を覆い尽くすということは、地球上のどの場所においても、もはや投資に対してリターンを見込めなくなることを意味します。すなわち地球上が現在の日本のように、ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレになるということです」。この指摘は、安全保障関連法を無理やり成立させた背景に、尖閣諸島での中国との対決という表向きの理由とは別に、実はアフリカ大陸において日本の軍事的プレゼンス(存在)を確保・強化するという狙いがあるのではないかという私の問題意識とも重なる。
「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ」が長く続く日本は、「定常状態」(「ゼロ成長社会」)に最も近いところにいる。そのアドバンテージをいかして「ゼロ成長社会」にカジを切れと著者はいう。本書は、「『より速く、より遠くへ、より合理的に』という近代資本主義を駆動させてきた理念もまた逆回転させ、『よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に』と転じなければなりません」と述べ、「脱成長という成長」を本気で考えよという問題提起でとどめ、その先に具体的にどんなシステムをつくるべきかについてはペンディングにして終わる。本書のラストで著者は、「資本主義終焉を告げる鐘がはっきり聞こえます」と述べるが、これは、明らかにマルクスの 『資本論』第1巻第24章の末尾の言葉を意識したものだろう。ただ、資本主義にかわるべきランディング地点を簡単に示さないところに誠実さを感じる。
いま、安倍政権は、安保法の強引成立により対外的な軍事的覇権国家への道を追求するとともに、国内の民主主義や自由への抑圧、家族や社会、教育や文化などあらゆる分野への過剰な国家介入の強化など、トータルな政治反動を進めているが、アベノミクスやTPPへの悪のりに典型的にみられるように、経済面においても、「長い16世紀」の教訓に逆行する「歴史的反動」を押し進めているといえるのではないか。税制・財政面でも「権力をもてあそぶ悪政」の数々(先週は、消費税の軽減税率の対象品目をめぐる選挙目当ての迷走)はあきれるばかりである。東日本大震災からの復興どころか、それに逆効果の政策のオンパレードである。そして、安倍政権のこうした方向を最終的に完成させるのが「安倍式憲法」(自民党憲法改正草案)の実現にほかならない。この国では、2016年、安倍晋三・橋下徹という二つの危ないキャラが増幅しあって、憲法改正に向かって爆走していく悪夢を見せられることになるのだろう。私はこの「コンビ」が生まれれば、ドイツの1930年代初頭のような状況に接近するのではないかと強い危惧を覚えている。日本の立憲主義、民主主義の真正の危機である。
だが、現実に生きているわたしたちは、それを変える意志と力を持っている。どんなにひどい世界であっても必ず希望はある。これからも「直言」は、 安倍政権の「壊憲」と対峙して、毎週1回、ぶれず、ひるまず、ユーモアを忘れずに、批判的な言論空間を創出していきたいと考えています。読者の皆さん、当面は1500回まで、応援、ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。
《付記》 2枚目の写真はドイツの週刊誌Der Spiegel 40号(2015年9月25日)の フォルクスワーゲン事件特集号の表紙。タイトルは「自殺」。最後 の写真は、津波に流された石巻水産の巨大缶詰広告。2011年4月、 水島撮影。