NHK「新・映像の世紀」第3回「時代は独裁者を求めた」は録画して何度もみた。いろいろな発見があった。国会放火事件を「奇貨」として一気に制定された「授権法」(Ermächtigungsgesetz)(別名「全権委任法」、正式名称は「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月24日)の制定の様子がリアルに描かれていた。議会を突撃隊(SA)が取り囲み、共産党議員は身柄拘束されて議場に入れなかった。議場で反対討論する社民党(SPD)党首の声を初めて聞いた。「強権によってもたらされた平和は認められるべきではない。その根底に正当性はあるのか」と。ヒトラーは猛烈に怒り、「私はお前たちの票など欲しくない。(この法律で)ドイツは自由になるのだ」と叫んだ。この法律は、二重の意味での「法の下克上」(「政府が制定した法律は、・・・憲法に違反することができる」(2条))である点に注意する必要がある。
ただ、「新・映像の世紀」では、国会議事堂放火事件のあとに、ヴァイマル憲法48条2項に基づく「民族および国家の保護のためのライヒ大統領令」(2月28日)が出され、7つの基本権(人身の自由、言論の自由、集会の権利など)が停止された事実に触れられていなかった。この大統領令によって、逮捕令状なしの身柄拘束が行われるという状況のもとで総選挙が行われた。それでもナチスは過半数の議席を獲得できなかった。
授権法(全権委任法)は「憲法改正法律」(ヴァイマル憲法76条)として制定されたので、「3分の2の出席で、その3分の2の賛成」という特別多数が必要である。そのため、大統領令により共産党議員を逮捕して総議員の母数を減らすとともに、保守党、中間政党の議員への脅迫と懐柔を行って成立した。憲法の緊急事態条項の悪用・濫用によって、授権法は誕生したわけである。そうした歴史的体験から、戦後の基本法(憲法)制定過程では、政府に緊急事態権能を安易に与えなかった(当初案にあった111条(緊急事態条項)は削除された)。
ドイツ基本法に緊急事態条項が誕生したのは、1968年の17回目の基本法改正によってである。ベルリン危機やキューバ危機の時代ではなく、むしろ緊張緩和(デタント)の時代になぜ「緊急事態」のための憲法(基本法)改正なのか。これは旧西ドイツが占領3カ国(米英仏)から完全に独立するためには、ドイツが自力で緊急事態に対応できる法制を整える必要があったことに起因している(ドイツ条約5条2項の占領留保権)。戦争に対応するというよりも、ドイツの西側3カ国からの自立が主な狙いだった。したがって、過去の緊急事態条項の「復活」は意識的に忌避され、徹底した議会統制の仕組みが追求されたのである。これは社会民主党(SPD)や自由民主党(FDP)の主張が反映した面が大きい。
例えば、緊急事態の認定権はギリギリまで議会に留保された。両院選出の48人の合同委員会〔非常議会〕(基本法53a条)がその3分の2で緊急事態を認定する(115a条1項、3項、5項、115a条e項)。この48人は、ボンが首都だった時代、自由に旅行ができず、常にボン市にいることが要求された。ソ連がドイツに向けて核ミサイルを発射した場合でも、合同委員会の委員はヘリコプターでアール渓谷のシェルターに向かい、そこで会議を開く。正式名称は「連邦憲法諸機関退避所」(Ausweichsitz der Verfassungsorgane des Bundes) である。収容定員は3000人。核戦争下、閣僚、国会議員、憲法裁判所裁判官がここに入って、国家機関が存続して活動する。897の事務室・会議室と986の宿泊室が備えられていた。現在は観光施設として公開されている。『アール渓谷の政府防空壕とその歴史』も参照。
1999年5月、当時朝日新聞ボン支局長の桜井元氏のはからいで、まだ一般には公開されていなかった政府核シェルターに入ることができた。そのことを17年前に「直言」に書くとともに、早稲田大学学生課の発行する『早稲田ウィークリー』874号(1999年7月1日)に「核シェルターのママチャリ」というレポートを公表した。ちなみに、「合同委員会」の委員の選出は、憲法上の機関のため、定期的に行われている。直近では2014年1月29日に各会派から選出されて、議事録に残されている(PDFファイル)。
さて、基本法改正により緊急事態条項を新設する場合でも、ドイツは長い議論の末、いくつもの「安全装置」をセットして濫用・誤用・悪用を回避しようとしている。日本の議論では、「どこの国にもあるから、日本にも」といった志の低いものから、憲法改正手続条項の改正を強引に進めようとしたり、前回の「直言」で批判した自民党改憲草案98、99条のような、まるで濫用してくれと言わんばかりの杜撰な条文を掲げて「お試し改憲」(webronza上での批判論文を参照〔PDFファイル〕)を押し進めようとするなど、この国はちょっとレベルが低すぎる。憲法改正の頻度(回数)ばかり語る人もいるので、ドイツは何回憲法改正をやったかをこの機会に書いておきたい。2014年12月、ドイツは60回目の基本法(憲法)改正を行った。91b条の追加である。2015年1月1日に施行されている。中身は、大学や研究機関に対して、連邦が州との合意に基づいて助成をするというもので、連邦制改革(連邦と州の財政関係)に関連している。憲法改正の頻度ではなく、その中身もきちんとおさえて議論すべきだろう。「お試し改憲」で緊急事態条項の増設〔PDFファイル〕という議論は、安倍式改憲(情緒的改憲論)の常套なので、ドイツで緊急事態条項を導入したときの「裏の事情」をこの機会に紹介しておこう。私が2002年に法律時報臨時増刊『憲法と有事法制』に書いた論文「緊急事態法ドイツモデルの再検討」を、一部省略して転載する。
《付記》緑色の表紙の本は、『ドイツ連邦共和国緊急事態法』で、1968年の第17次基本法改正法律をトップに、緊急事態関連の全法令が網羅されており、統一前の11の州(ラント)の緊急事態法令も収録されている。1985年に研究費で購入し、その後加除式の追録が毎年送られてきた。赤い表紙の本は、『軍事法』でこれも加除式である。緊急事態法ドイツモデルの再検討
1 はじめに
「今から50年前にできていないとおかしい。当然やるべきことをしていなかった」。二等陸尉から防衛庁長官になった中谷元氏の発言である。これを社説で「一定の説得力はある」と評価してしまう新聞の批判力低下は、ここでは問わない1。ただ、「有事法制がない方がおかしい」とする言説は、「有事」関連三法案の審議過程でもしばしば聞かれた。その背後には、緊急権条項があるのが「普通の憲法」で、それを欠く日本国憲法の方が「おかしい」とする倒錯した発想があるように思われる。
では、「制度化された緊急権の完成形態」あるいは「徹底的に規範化された緊急権」と言われ2、「有事法制」推進側がしばしば引照するドイツの場合はどうだったのか。1949年のドイツ基本法の制定過程において、連邦政府に緊急命令権を与えるヘレンキームゼー草案111条は削除された。当時、「ヴァイマルの経験」(憲法48条2項の非常措置権の濫用)が強烈に意識されており、占領軍の意向も背後に「推定」されている3。緊急権条項が大規模に導入されるのは、1968年の第17次基本法改正法(緊急事態憲法Notstandsverfassung)と呼ばれる)を待たねばならなかった。ドイツでも、実に長い時間がかかつているのであり、「50年前にできていないとおかしい」などと単純に言える問題ではないのである。
ところで、ドイツの「有事法制」問題は、日本と事情が異なり、憲法(基本法)に緊急権条項を導入することにポイントがあった。本稿では、議会内外における激しい議論を経て、最終的に「憲法的妥協」として成立した「緊急事態憲法」について、当時、緊急事態法反対運動の理論的支柱であった一人の憲法学者の個人的総括を紹介しながら、日本の「有事法制」論議への視点を探りたいと思う。
2 10年かけた「憲法的妥協」
ドイツの緊急事態憲法は、ほぼ3つの立法期(一立法期は4年)にわたる、約10年の歳月をかけて成立した。その聞、「緊急事態と法」をめぐる根本問題が徹底的に議論され、法案修正が何度も行われた。その結果、議会内外のさまざまな主張が法案のなかにさまざまな形で反映させられている。それだけ長い時間と手間をかけたことについて、日本ではあまり知られていない。緊急権は、通常の手続きでは克服しがたい事態が生じたとき、立憲主義の仕組みを一時停止して、執行権に危機克服のための特別措置を授権するわけだから、そのような例外的な仕組みは、慎重の上にも慎重にデッサンされなければならないことは当然だろう。そうしたシステムの立ち上げの過程において、一貫して批判的論陣をはったのがJ・ザイフェルト(1928年生。ハノーファー工科(TU)大学元教授)である。彼は、1999年にハノーファー大学で開かれた基本法50周年記念企画(責任者はH・P・シュナイダー教授)のなかで、緊急事態憲法を総括する講演を行っている。そこでは、当時は政治的理由から発言を抑制していた緊急事態憲法の評価にかかわる興味深い指摘も含まれている4。
ザイフェルトは、68年の基本法改正(緊急事態憲法)の過程で、緊急事態法反対運動の果たした役割に着目する。この運動は、ただ「反対」の動機だけではなく、具体的な「代案」によっても規定されていた。その際重要なことは、「民主的立憲国家の諸原則を緊急事態においても存続させること」であった。
当時ザイフェルトは、反対運動の中核だった労働組合(特にIGメタル)や社会民主党(SPD)内批判派だけでなく、野党にまわった自民党(FDP)にも理論的アドバイスを行っていた。「多くの人は緊急事態憲法を68年に制定されたその形式だけで眺め、なぜ当時あんなにも大騒ぎをしたのか、と問うだろう。加えて、防衛事態の諸規定(115a条以下)は、冷戦における脅威状況の往時の遺物として民主的憲法のなかにあらわれたものである。だが、最終稿だけを見る者は、それ以前に提案された諸々の草案を看過しており、なぜ、このもくろみがキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)もSPDも予期しなかった無類の抵抗運動につながったのかを理解していない」。こうザイフェルトは指摘しつつ、「最終的な妥協」に至るまでの3つの草案の違いについて分析していく。
最初の動きは、1958年、アデナウアー政権の内相G・シュレーダー(現在の首相と同姓同名)の発言に始まる。シュレーダーは、「非常時のために国家」を対内的にも備えあるものにするため、基本法の改正をすべきであると初めて主張した。シュレーダーは60年に基本法改正草案を提示する。このシュレーダー草案は、ヴァイマル憲法48条2項の非常措置権を手本にしており、緊急事態は「執行権の時」(Stundeder Exekutive)とされていた。このいわば復古型の草案は各方面から批判され、すぐに頓挫する。基本法改正には連邦議会における3分の2の特別多数が必要なため、SPDが賛成しなければ基本法改正は不可能だからである。SPDは、すかさず緊急事態憲法に同意するための3条件を提示する。(1)対内的緊急事態、緊迫事態、対外的緊急事態(防衛事態)をそれぞれ区別すること、(2)緊急事態は「執行権の時」ではないこと、(3)緊急事態を口実にして、重要な基本権が制限されたり抑制されたりすることがなく、連邦憲法裁判所の機能も維持されること、である。
次の動きは1962年。H・ヘッヒャール内相による修正草案である。これは、緊急事態の認定を議会に留保させる「非常議会」の考え方が初めて採用されているなど、明らかにSPDの反対意見に配慮したものだった。ただ、「対内的緊急事態」(innerer Notstand)の規定は、政府に対して、通常状態から例外事態への移行を曖昧にする特別な権能を与えるもので、労組だけでなく、多くの知識人に「民主的立憲国家の直接的脅威」という印象を与えた。
1967年には、第3番目の草案が出された。前年にCDU/CSUとSPDの大連立政権が誕生していたため、この草案にはSPDの法律家たちも関与することになった。労働組合に基盤をもつSPDは、まず、緊急事態を口実にして、労働争議に介入する道を排除することに全力を注いだ。その結果、労働組合が行う合法的なストライキを緊急事態から明確に区別する規定が盛り込まれた(基本法9条3項3文)。
かくして、与党となったSPDも賛成して、第17次基本法改正法(緊急事態憲法)が成立した。なお、SPDの連邦議会議員54名が、野党となったFDPとともに反対にまわった。ザイフェルトは、憲法的に見れば、緊急事態憲法をめぐる長い対立・論争は、最終的に批判派の成果となる妥協をもって終わったと評価する。60年代に「民主主義の緊急事態」というフォーラム5を主導したH・リッダー(1919年生。ギーセン大学名誉教授)も、「緊急事態立法の制定者が本来意図したことの95%は実現しなかった」と、後に(1989年)回想している。ザイフェルトは、この評価に完全には同意できないとしつつも、「大連立が、憲法史において唯一、多くの安全装置が貫徹した緊急事態憲法を可能にしたと肯定的な見方を示す。だが、リッダーもザイフェルトも、緊急事態憲法が成立した68年当時は、このような評価をまったく口にしていなかった。ザイフェルトはいう。「私は当時、このことをあえて公言しなかった。なぜなら、政治的には、憲法改正の可決は運動の敗北だったからである」と。
ザイフェルトは、緊急事態法をめぐる対抗のなかで憲法的合法性を志向した人々が市民運動の中心となり、J・ハーバーマスが後に定式化する「憲法愛国主義」を発展させていったと指摘する。政治的な判断から、当時は沈黙を守ったが、30年以上が経過し、憲法史的に問題を対象化して考えることができるようになった今、ザイフェルトはこう緊急事態憲法を評価する。「緊急事態憲法が今日なお、憲法論的に注目に値するのは、〔緊急権の〕政治的濫用を排除すべき憲法的安全装置が創出されたからである」と。
3 緊急権濫用を防ぐ憲法的安全装置
では、「憲法的安全装置」とは何か。ザイフェルトは、さしあたり次の3つを挙げる。まず第1に、合同委員会(Gemeinsamer Ausschuβ)の制度である(基本法53a条)。委員は、3分の2が連邦議会から、3分の1が連邦参議院から選出される。現在ドイツは16州あるので、連邦参議院からは1州1人で計16人が選ばれ、連邦議会からは会派の議席数に応じて計32人が選ばれる。合同委員会は、緊急事態は政府が無制限に決定できるものではなく、議会が適時の集会困難や議決不能に陥った場合でも、議会の核(Kern)が、その3分の2の多数をもって緊急事態に関する本質的な決定を行う制度である(115a条2項、115e条)。合同委員会は法律を制定したり、特定の条件のもとでは新しい首相を選出することもできる。「非常議会」または「緊急事態委員会」と言われるが、ザイフェルトはこのネーミングに当初から批判的だった6。合同委員会は公開で開催されないということから、議会の基本的要素を欠いている。他方で、危急の場合、2つの異なるグループが同じ議会内に存在することになる。したがって、緊急事態が立法権の権限のもとにあるという理念は、ただ外面的にのみ実現されているにすぎないとされる。実際には、99年に廃止された、アイフェル地方の巨大核シェルター(連邦憲法機関退避所7)のなかで、小さな機関が、圧倒的多数の連邦議会議員の参加と公開性を排除しつつ、緊急事態の諸規定を施行したり、新たに議決したりするものとされた。この制度ができた68年当時、FDPとSPD批判派は、すべての議員が合同委員会の会議に参加する権利をもつべきだと要求したが、それは実現しなかった8。
とはいえ、合同委員会は、緊急事態の認定権限をギリギリのところで議会に留保する制度として、他に例を見ない工夫と言うことができよう。なお、48人の委員とそれと同数の補助委員のリストは、連邦議会のホームページで読むことができる9。
第2に、「防衛事態」(Verteidigungsfall)および「緊迫事態」(Spannungsfall)の確定手続(115a条および80a条)にかかわる。基本法は、外部からの武力攻撃事態(「防衛事態」)の認定を、連邦議会の投票数の3分の2の多数(総議席の過半数)に委ねている。つまり、議会機関の確認決定は、通常状態の法と緊急事態(「防衛事態」、その前段階である「緊迫事態」「同盟事態」を含む)との間に明確な境界線を引く機能を持つ。この議会決定が確定するのは、執行権の特別権限行使が内容的要件に結びつけられるだけでなく、この要件の存在を確認する議会決議をも前提とする、ということである。かかる確認があって初めて、執行権の特別権限が創設的に根拠づけられるわけである。
武力攻撃が実際になされなくても、「防衛事態」に対する準備態勢に入ることができる。これが「緊迫事態」である。これもまた、連邦議会の3分の2の多数の同意が必要である(80a条1項)。また、基本法は、民間人に対して非軍事的な役務給付をなす義務を課すため労務関係に就かせることができるが、これも連邦議会の3分の2の多数を要件としている(基本法12a条5項、同6項、80a条1項)。民間人に対して、緊急時に特別の勤務義務を課し、また職場移動の自由を禁止する効果を生ずるこの条項には、SPDの要求で3分の2の同意が要件とされたが、これは、第17次基本法改正法案の第二読会の当日、その終了数分前に連立与党間で合意に至ったという10。まさに紙一重の「憲法的合意」であった。
第3に、「対内的緊急事態」の排除である。SPDは一貫して「対内的緊急事態」の導入に反対してきており、結果的に緊急事態憲法には「対内的緊急事態」という条文も文言も存在しない。この点はSPDの功績とされる。だが、「対内的緊急事態」という文言こそないものの、基本法87a条4項という一定の要件のもとで、「組織されかつ軍事的に武装した反乱者鎮圧」のために連邦軍の国内出動を認めている。この点は、連邦憲法裁判所裁判官を務めたK・ヘッセが、その著名な憲法教科書のなかで異例に強いトーンで批判するところである11。ただ、87a条4項の出動の補助的性格や、出動対象から労働者のストライキが除外されるなど(基本法9条3項3文)、「憲法的妥協」のあとは窺える。ちなみに、70年代に入ると、赤軍派(RAF)のテロとの関係で、「対内的緊急事態」から「対内的安全」(innere Sicherheit)へとシフトし、公安・治安機関の権限強化がはかられていく(特に第31次基本法改正法12)。この傾向は9.11テロ以降さらに顕著になっており、新たな問題を生んでいることは周知の通りである13。
なお付け加えれば、通常状態と緊急事態との区別を明確にすることは、第17次基本法改正の過程で批判派が最もこだわつたの一つである。この点では、連邦議会は「防衛事態」の終了をいつでも宣言できることにされた(基本法115l条2項)。ただ、野党FDPの草案は、「防衛事態」が新たに更新されないときは4週間で無効となるという、より明確な提案を含んでいたことを付記しておこう14。
4 「有事法制」論議への視点
さて、本書の他の論稿との重複をいとわずドイツの議論を紹介してきたのには理由がある。それは、一国の憲法に緊急事態条項を導入することについて、修正に次ぐ修正を経て、ここまで時間と手間をかけるその議論の仕方と、批判側の「戦略」から学ぶところが少なくないと考えたからである。ドイツの場合、基本法(憲法)改正のための3分の2の特別多数を必要とするため、与野党の合意が不可欠であるという事情はやはり大きい。最終的に大連立政権という状況のもとで、与党となったSPDが、党内左派や労組などの批判勢力を内に抱えながら、法案修正のイニシアティヴを握ったことも見のがせないだろう。反対運動の理論的指導者だったザイフェルトが、推進側が本来意図したことの95%は阻止できたとする見解を半ば肯定しているように、緊急事態憲法に仕掛けられた「憲法的安全装置」と、それをもたらした「憲法的妥協」という評価は注目に値する。そこには、権力担当者による緊急権濫用を阻止するという一貫した問題意識が、骨太に貫徹していた。「悪法阻止」の課題と同時に、「悪法の無害化」という課題を巧みに組み合わせた法戦略がそこに見てとれる。議会外反対派ないし院外野党(APO)と呼ばれる運動の盛んな時代状況が背景にあったとはいえ、そこでの知識人や学者、法律家の果たす役割という点でも学ぶべきことは少なくない。
翻って日本の状況に目を向ければ、「備えあれば憂いなし」といった無内容な言説が、「有事」関連三法案の立法事実のようにまかり通っている。「先送り」された「国民保護法制」にしても、「国民の安全」を危うくする根本原因の解明なしに、あれこれの手段の議論ばかりが突出している15。日本の状況をドイツの緊急事態憲法をめぐる議論から逆照射しつつ、次の2つの点を指摘しておきたい。
まず第1に、頻繁に改正されるドイツ基本法と、一度も改正されたことのない日本国憲法との違いを踏まえつつ、日本国憲法が国家緊急権について「完黙」していることの意味をどう捉えるか、である。これを憲法の「不備」ないし「欠缺」とする見方もあるが、前文および第9条の徹底した平和主義との関連で考えれば、執行権に権力を集中し、軍事装置に特別の権限を与える国家緊急権の形態を採用する道は憲法上遮断されると解される。もっとも、当面、政府が憲法を改正して、緊急事態条項を導入する提案を行う可能性は少ない。今後とも、通常の法律の形で、実質的な「有事態勢」を立ち上げる道が目指されるだろう。そのため、国会の単純過半数の問題となり、結局、推進側に、ドイツのように修正に応じないと3分の2の多数を得られないという切羽詰まった事情がないことも無視できない。したがって、日本の場合、批判派が対案や修正案を出すという場合、ドイツの場合とは違った緊張感が求められる。憲法の根本問題を棚上げして、法的統制の土俵に安易に乗ることには慎重であるべきだろう。「有事」関連法案の憲法的問題性(違憲性)を正面に据えた批判がなお必要であり、かつ重要である所以である。
第2に、にもかかわらず、「ドイツの68年」からの教訓は、緊急事態をめぐる立法の各論的な批判を徹底的かつ精緻に行い、その「無害化」をはかる法戦略を組み合わせることの必要性である。本書所収の各論稿が随所で指摘しているし、筆者自身も若干の検討を行っているので、具体的な論点は省略する16。・・・関連して、次の3点を指摘しておこう。
その1は、日本の議論には、「緊急事態において誰が統治するか」という問題意識が希薄だということである。武力攻撃事態法案では、内閣総理大臣は、安全保障会議の答申を受けて、対処実施方針を閣議決定し、武力攻撃事態対策本部を設置する。自衛隊の最高指揮監督権者の内閣総理大臣が、対策本部長と安全保障会議議長をも兼ねているから、これらのプロセスは実質的に首相の「一人芝居」となる。ここに国会の関与を幾重にも及ぼせることが鍵になるだろう。国会承認を単に結果に対する承認ではなく、武力攻撃事態の認定そのものを含むプロセス全体に適切に及ばせる工夫が必要だろう。通常事態への復帰の仕組みにもこだわるべきである。
その2は、右とも関連するが、国会関与の形態を、小手先ではなく徹底的に追求することである。ドイツの場合、防衛事態の確定に3分の2を要求しているし、市民に対して非軍事的役務を課す場合にも、連邦議会の3分の2の多数を要件としている。日本の場合は、国会承認は包括的にすぎ、かつ腰が引けているように思われる。その際、憲法九条の規範力の浸透を促進するような、議会統制の骨太の形態を探究する必要がある。
その3は、「対内的緊急事態」類似の形態を安易に認めないことである。テロ対策特別措置法制定の際の自衛隊法改正で、警察や海保の担任領域にも自衛隊がかなり進出してきた(警護出動、治安出動下令前情報収集活動、工作船対応など)。ドイツでは連邦軍の対内活動を厳密に限定する方向が有力なのに対して、日本では、自衛隊の活動領域の拡大は著しい。軍は対外的な防衛任務を行い、「いかなる人民の自由に対しても決してその武力を使用しない」(フランス1791年憲法、第4共和制憲法前文)という観点を貫けば、軍隊の内向きの使用は抑制されねばならない。テロやゲリラ・コマンド対処という理由で、自衛隊の対内的使用拡大の道は危険である。
最後に、68年の緊急事態憲法をめぐっては、批判側は、平時の法と戦時の法との区別を重視した。武力事態攻撃法案の「武力攻撃予測事態」概念は、まさに、政府の幅広い裁量で、「平時の法」に「戦時の法」が乗り入れてくる危険がある。60年代に、H・リッダーの『恒常的非常事態』という書物に序文を寄せた学者たちはいう17。「我々が危惧するのは、提案されている緊急事態法案により、将来の連邦政府が、憲法上の基本権の重要な部分を失効させる諸措置を、平時にすでにとれるよう授権されていることである。これにより、平和の法と戦争の法との間の限界が一層曖昧になる。かくて、自由は、戦争がそれを脅かす前に、すでに放棄され得るのである」と。この言葉は、今後の日本の「有事法制」闘題においても銘記されるべきだろう。
1. 『毎日新聞』2002年4月17日付社説。
2. 水島朝穂『現代軍事法制の研究』(日本評論社、1995)206頁。
3. B.Stover, Die Bundesrepublik Deutschland,2002,S.83.
4. J.Seifert, Die Notstandsverfassung im Grundgesetz-Auseinandersetzung(1958-1968)und Einschätzung, in:H-P. Schneider(Hrsg.),Das Grundgesetz in interdisziplinarer Betrachtung,2001,S.175-189.本論文を紹介する際、該当頁数はそのつど表記しない。なお、ザイフェルトとやや異なる評価として、Vgl. M. Krohn, Die gesellschaftlichen Auseinandersetzungen um die Notstandsgesetze,1981,S.341-343.
5. H,Ridder,u. a.,Notstand der Demokratie,1967,S.194-200.
6. J. Seifert, Der Notstandsausschuß,1968,S.26.
7. 水島朝穂「核シェルターのママチャリ」『早稲田ウィークリー』874号(1999年7月1日)。
8. J.Seifert,Kampf um Verfassungspositionen,1974,S.200.
9. http://dip21.bundestag.de/dip21/btd/18/003/1800370.pdf"
10. J.Seifert, Spannungsfall und Bundnisfa11, in:D. Sterze1(Hrsg.),Kritik der Notstandsgesetze,1968,S.177.
11. K.Hesse,Grundzuge des Verfassungsrechts der Bundesrepublik Deutschland,20.Aufl.,1995,S.317.
12. 水島・前掲『現代軍事法制の研究』230-253頁。
13. H.Prantl, Verdachtig-Der starke Staat und die Politik der inneren Sicherheit,2002,S.9-154.なお、J・ヒルシュは近年見解を改め、「権威主義的国家主義」の特徴をもつフォード主義的「安全国家」から、「国民的競争国家」への移行を指摘する。そこでは、全体主義の新しい「市民社会的」形態の生成の傾向が見られるという(Vgl. J. Hirsch, Herrschaft,Hegemonie und poitische Alternativen,2002,S.176-185)。
14. D.Sterzel,a.a.0.,S.182.
15. 水島朝穂「『国民保護法制』とは何か」『法律時報』2002年11月号4-9頁。
16. 『世界』2002年6月号37-49頁(高橋哲哉・水島対談)参照。
17. H.Ridder,Der permanente Notstand,1963,S.5.水島朝穂「緊急事態法ドイツモデルの再検討」法律時報増刊『憲法と有事法制』(日本評論社、2002年)40~44頁