左の写真は、ドイツ自由協会が、基本権侵害を批判するニューズレター(2015年4月)に使った写真である。ドイツ基本法(憲法)の焼却につながるというかなり過激な表現である。右側は少し古いが、2009年8月、当時のF. J. ユング国防相が連邦軍の国外出動を拡大し、サミット警備に戦闘機を使ったことに対して、また、W. ショイブレ内相がテロ対策のために連邦軍の国内出動を主張したことに対して、これを基本法にドリルで穴をあける違憲行為として批判したブログで使われた絵である。ドリルには、当時の両大臣の名前が書かれている。
日本では、安倍晋三首相が、「いかなる岩盤も、私の『ドリル』の前には無傷ではいられません」などと悦にいっている。第2次安倍内閣が「国家戦略特別区域法」(2013年12月)で創設した「国家戦略特区」の実態とその評価についてはここでは立ち入らない。ただ、今治市の加計学園獣医学部新設問題を見る限り、これが「省益」を突破するという名目で、「総理益」を実現する、いわば「公権力の私物化」をもたらしかねない根本問題を含んでいることは確かだろう。規制にはそれなりの根拠がある。いかなる規制を、誰のために、どのように緩和するのかという視点抜きの、おおらかな規制緩和論が果たしてきた役回りは深刻に検証される必要がある。
さて、権力にとって、究極の「岩盤規制」は憲法ということになる。権力担当者が過度に改憲に執着し、熱をあげるのは、自らに対する規制を緩和したいということであり、最終的には「権力にやさしい憲法」への改変をはかるためである。
4年8カ月前の「壊憲内閣」の発足以来、ひたすらこの憲法にドリルで穴をあけ続けているのが安倍晋三とそのご一党である。安倍ドリルの論理は鋭利ではなく、切れ味の悪い、荒っぽい手法が目立つ分、何としても憲法改正に持ち込みたいという、気持ちの焦りが見えてしまい、改憲に向かって力を集中することができていない。「お試し改憲論」のネタがつきてきたようである。
『日本経済新聞』2017年4月28日付4面の連載記事「憲法 施行から70年(3)」には、維新の会が強く主張する教育無償化について、公明党のある幹部が、「本来、憲法ではなく法律でやるべき話。『あら探し改憲』ではないか」とはき捨てる。」と書かれている。「あら探し改憲」とはいい得て妙である。
参議院選挙の選挙区で県境をまたいだ「合区」ができた状態を解消するために、憲法47条の改正が必要だという議論が自民党内で浮上している。47条は選挙区や選挙の方法を定めた条文で、その具体化は法律(公職選挙法)に委ねられている。ことさら憲法改正するまでもなく、法律改正で十分に対応可能である。この47条先行改正について党内にほとんど同調者はなく、線香花火に終わったようである(『朝日新聞』7月27日付)。
だが、5月3日、安倍首相が、『読売新聞』インタビューと日本会議系集会でのビデオレターによって、憲法9条を主攻正面にすえる改憲攻勢に出てきたのには驚かされた。「モリ・カケ・ヤマ、そしてアサ」(注)という「政治的地雷」を安倍首相はすでに踏んでいるが、なかなか爆発しない。しかし、どれ一つとっても政治生命を奪うだけの破壊力をもっている。そのため、安倍首相は自らの「終わり」を意識して、その「レガシー」として、何としても憲法改正に手をつけようとしている。私は7月3日の直言「「ねじれ解消」からの脱却―安倍「自爆改憲」を止める」において、「「憲法を変える」という一点に向けて、安倍首相の「最後のパワー」が噴射されている。「9条加憲」という実は、けっこう手ごわい禁じ手を使ってきた。これと真剣に向き合わないと危うい。この「9条加憲」の過小評価は禁物である。自らが倒れる傾きと勢いを使った「自爆改憲」を狙っている可能性がある。」と指摘した。
以下、週刊誌に寄せた小論を転載することによって、「安倍流9条加憲」の位置づけを明確にしておこう。
注:森友学園問題、加計学園獣医学部新設問題、山口敬之準強姦事件逮捕状執行停止問題、安倍昭恵大麻疑惑(「大麻で町おこし」で画像検索!)。安倍流9条加憲は「憲法条文内クーデター」
――明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける――安倍首相は、9条1項、2項を存続させて、「9条に自衛隊を書き込む」という新方式を唐突に提案した。だが、現状維持どころか、そのもたらす効果はあまりにも危険である。
第一に、9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定している。政府解釈は、自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力」(自衛力)であり、2項の「戦力」には当たらないとし、自衛のための必要最小限度の範囲内にとどまれば、核兵器を保有することも合憲と解釈している。したがって、「自衛力」の明記で、「自衛のための」核兵器(まるで北朝鮮!)の保有が可能であることが憲法上確定する。
7月7日に国連で核兵器禁止条約が採択されたが、安倍政権は条約に参加しない態度であり、危険極まりないトランプ政権の核兵器に期待し、寄り添う姿勢を明確にした。だが、核兵器はどうみても「戦力」に該当する。「自衛力」の明記で、核武装を禁止する憲法上の根拠が失われる。自衛隊の明記は「現状維持だから安心」ではない。維持されるというまさにその「現状」に危険な内容が含まれているのである。
第二に、安倍政権は、「自衛のための必要最小限度の実力」に集団的自衛権の一部が含まれるという違憲の解釈変更を行ったので、明記される「自衛力」には集団的自衛権の一部が含まれることになる。北朝鮮や中国が米国を攻撃した場合、日本は、北朝鮮や中国から攻撃を受けていないにもかかわらず、「自衛のため」と称して攻撃することができる。これは、北朝鮮や中国からみれば、日本が先に攻撃したことになるから、その報復攻撃は免れない。
集団的自衛権を認める改憲に賛成するということは、報復攻撃により一般市民が殺害されるリスクを覚悟するということである。厳しい言い方であるが、新9条に賛成する人たちは、報復攻撃を受けて自分が死んだり家族、恋人、友人が殺害されたりしても、政府を批判することに説得力がなくなる。「北朝鮮、中国が危ないから」という理由で先に手を出して、外国人を殺害したあげく、報復攻撃を受けたら、「許せない」というのは、身勝手極まりない。安倍流「自衛力」の明記で、「専守防衛」まで引き戻す憲法上の根拠が失われるのである。
第三に、明記される「自衛」の拡大解釈を防ぐ手立てはないことにも注意しておく必要がある。「自衛」の解釈として、政府は従来、「武力の行使」が許容されるのは、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られるとしてきたが、安倍政権は、集団的自衛権を認め、この限定を骨抜きにしてしまった。
昭和13年発行の海軍大臣官房編『軍艦外務令解説』によれば、戦前の軍隊の自衛権行使の条件は、「(1)国家又ハ其ノ国民ニ対シ、急迫セル危害アルコト。(2)危害ヲ除去スルニ、他ニ代ルベキ手段ナキコト。(3)危害ヲ排除スルニ、必要ナル程度ヲ超エザルコト。(4)危害ハ、自己ノ挑発シタルモノニ非ザルコト。(5)危害ガ自衛行為ヲ加ヘラルベキモノノ不法行為又ハ怠慢ニ基クモノナルコト。」であった。この(1)(2)(3)の要件は、従来の政府解釈による自衛権行使の三要件(①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)と文言が似ている。だが、両者には決定的な違いがある。
『軍艦外務令解説』は、満州事変と上海事変を自衛権行使の例とするが、安倍政権による変更前の政府解釈は、①の要件を「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実がある場合のみに限定していたため、満州事変や上海事変が再び起きる余地がなかった。だが、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」を理由とする「解釈変更」により、要の安全装置である①の要件が破壊されてしまった(詳しくは、水島朝穂『ライブ講義 徹底分析!集団的自衛権』岩波書店参照)。だから、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」が「自衛」の範囲の「解釈変更」の理由になるのであれば、新9条の「自衛」の範囲も同じ理由で拡大解釈されないという保証はない。北朝鮮でさえ、憲法60条で「自衛的軍事路線を貫徹する」と定めているところである。無自覚に「自衛」を押し出していくことの危うさは明らかではないか。
第四に、自衛隊の統合幕僚長(旧統合幕僚会議議長)には、政治の統制や防衛省内局などを意に返さない「政治的軍人」が多い。制服組トップの統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣は、「いざ戦闘となれば自衛隊は独断する」「徴兵制は有効だ」「いざとなれば超法規で戦闘突入する」と発言して解任されたし、空の竹田五郎は、徴兵制は憲法違反という政府統一見解を公然と批判し、当時の政府がとっていた「防衛費GNP1%枠」と「専守防衛」も批判した。
第1次安倍政権の時に海幕長から統幕長になった齋藤隆は、「国家革新を唱える右翼的な人物」として、長らく公安当局にマークされていた。現在の安倍政権の河野克俊統幕長(同じく海出身)は、自衛隊を憲法に明記する提案を「非常にありがたい」と述べた。政治に介入しないというプロの軍人としての矜持すらない。自衛隊では、このような危険な「政治的軍人」がトップに座ってきた。元自衛官の佐藤正久参議院議員は「まずは自衛官が誇りを持って任務を遂行できる環境をつくることを優先すべきだ」と述べていた。
警察、海上保安庁、消防は憲法上の機関ではない。自衛隊が憲法に明記されれば、自衛隊は天皇、国会、内閣、裁判所、会計検査院と並ぶ憲法上の機関に格上げされ、自衛隊に一定の権威が与えられることになる。今も暴走している「政治的軍人」やそれを支援する「軍事過多」の政治家たちが新9条により「誇り」を持ったとたん、軍隊が大きな顔をする社会になることは目に見えている。彼らは、新9条をフル活用し、市民社会に軍事的思考が浸透していくだろう。
「改憲により、自衛隊は今や憲法上の権威ある軍隊となった。国民はますます防衛に親しむ必要がある。今後は堂々と、企業や学校での体験入隊の推進、自衛隊入隊者の進学・就職の優遇措置、学校での防衛思想の普及をお願いしたい。自衛隊の軍事訓練に国民は積極的に参加されたい。参加は任意だが、北朝鮮や中国の脅威が高まっており、憲法に明記された防衛思想を真剣に考えるならば、参加しないのはいかがなものか。皆さん参加されていますよ。」。あなたは、こんな社会を望むのか。
最後に、自衛隊を明記したとしても、自衛隊は9条2項の「戦力」不保持の規範的影響は受け続ける。そうすると、一方で、政府は、軍拡を行ったとしても、それは「自衛力」の範囲内であると強弁を続けることになる。結果、「戦力」概念の骨抜き、換骨奪胎が完成する。そして、新たな自衛隊の根拠規定は独り歩きを始める。そうなれば、これまで9条2項が自衛隊に対して果たしてきた立憲的統制のダイナミズムが崩壊して、「自衛隊」のまま「軍隊」となる。「憲法条文内のクーデター」と言えようか。
他方で、新9条で自衛隊「自体」が合憲になったとしても、自衛隊の個別の「装備・人員」が「戦力」に当たることはあり得るから、自衛隊の違憲性は問われ続ける。そうなれば、「神学論争をやめよう」という「印象操作」が蔓延し、9条2項が葬られるのは時間の問題である。
安倍首相は、この改憲により「自衛隊違憲論を一掃する」という。9条の問題は、言論や学問の自由とも深く関わっているのである。
(『週刊金曜日』2017年8月4・11日合併号より転載、一部修正)
《付記》
今週から9月はじめまで中欧に滞在するため、今回から9月4日までストック原稿をアップします。その間に起きた出来事については、9月11日以降の「直言」でコメントします。