夫婦同氏制と婚姻の自由――最高裁判例における反対意見の意味
2021年6月28日
1年ゼミ生の関心が高い夫婦別姓問題
ちょうど20年前、2001年6月25日の直言「雑談(10)朝穂という名前」
にこうある。「先日の1年法学演習でのこと。学生がテーマに選んだのは「夫婦別姓」問題。討論に入る前に、「結婚したら姓はどうするか」を全員でまず語り合った。ある女子学生は、自分の姓が気に入らないから、喜んで相手の姓になるといい、もう一人の女子学生は、姓も名前も気に入っているから変えないと述べた。何人目かに発言した男子学生は、自分の姓はいつも人に間違って発音されるから気に入らない、だから女性の側の姓に変えてもいい、と言った。まだ1年ということもあり、夫婦別姓問題にリアリティをあまり感じていないようだった。私は言った。なぜ、自分の姓と名前が重要なのか。人格権の一部をなすというのはどういうことか。人は誕生して、家族のなかでファーストネームだけで呼ばれる段階を経て、保育園や幼稚園に入ると、名前が中心、姓も少し使われるという世界になる。「社会化」のはじまりだ。そして小学校に入ると、主に「姓」で自分を識別される。就職してからは、姓を変えたら顧客を失いかねない人もいる。大学教員の場合、学生との関係や著書・論文の著者として、職場で戸籍名を使うのを強いられて、不利益を被った方は少なくない(とくに女性)。こうして、学校社会、地域社会、企業社会などを通じて、人は次第に自分の姓と名前の大切さを実感していくのである。」と。
1996年以来、私の1年ゼミ(導入演習) では、毎年のように夫婦別姓(別氏)問題が扱われてきた。テーマも切り口も発表の仕方もすべて学生にまかせているので、学生たちが自分たちの関心のあるテーマを選んできたわけである。2020年春学期は、新型コロナウイルスの感染拡大により、オンラインでゼミを続けてきたが、10月になって対面授業に転換した。その最初の班が夫婦別姓問題を取り上げた。そのゼミ風景が右側の写真であり 、レジュメがこれである。2021年の春学期は、ずっと対面で1年ゼミを実施しているが、5月13日の発表班がこの問題を取り上げた。学生の同意を得てここにリンクするが、高校から大学に入って、最初に真剣に取り組んだテーマが夫婦別姓問題だった彼らにとって、その翌月に最高裁の判断が出されたことで、これからの学習の刺激になったようである。
2015年判決と今回の決定
いまも鮮明に覚えている。2015年12月16日(水)に最高裁で民法750条合憲判決(10対5)が出た週の金曜5限、1年憲法の授業でこの判決について解説した。夫婦同氏を定める民法750条の規定が憲法13条、14条1項、24条1項、2項に違反するとして、この規定の改廃措置をとらないこと(立法不作為)の違法を理由にして国家賠償法1条1項に基づいて損害賠償を求めた事案である(以下、2015年判決という)。終了後、一人の男子学生が教壇のところにやってきて、「先生、傍聴してきました」といって私にくれたのが、当日の傍聴券である(冒頭左の写真参照)。彼は正面向かってやや右側に座り、この写真にある15人の最高裁裁判官のラインナップを目撃したわけである。
民法750条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」と規定する。2015年判決は、この規定が「その文言上性別に基づく法的な差別的取扱いを定めているわけではなく、本件規定の定める夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない」として合憲判断を行った。確かに、「夫の氏を称する」だったなら、一見きわめて明白に女性差別になる。だが、判決は、「夫又は妻の氏」を選択できる、一見中立的な条文の建て付けをそのまま前提にして判断しており、96%の夫婦において夫の氏が選ばれているという現実を過小評価している。背景には、女性の側が氏を変更することを当然視する社会的風潮(圧力)が存在しており、この問題をどう考えるかが問われていたはずのなに、判決はこれと向き合わなかった。学説からは、「文面上は平等に扱っているが、実態・結果においては不平等が生じているということもあり、実質的平等の観点からは、そのような場合も平等問題(間接差別の問題)と捉えていく必要がある」という指摘が出ている(高橋和之『立憲主義と日本国憲法(第5版)』(有斐閣、2020年)169頁)。
先週の水曜、6月23日に、最高裁が民法750条についての大法廷決定を出した。本件は、婚姻届に、「夫は夫の氏、妻は妻の氏を称する」旨を記載して届出をしたところ不受理とする処分がなされたため、本件処分が不当であるとして、戸籍法12条2項に基づき、市長に上記届出の受理を命ずることを申し立てた事案である。「市町村長処分不服申立て却下審判に対する抗告審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件」というややこしいタイトルのものだが、抗告棄却の決定を大法廷で行なっている。口頭弁論を経ないで出される「決定」なので、メディアも現状追認となるのを予測していたようである。実際、合憲11人、違憲4人となり、6年前の合憲10人、違憲5人(女性裁判官3人が全員違憲)よりも後退したイメージを与えた。冒頭左の写真は、『朝日新聞』が6年前に裁判官の顔写真と経歴と憲法判断をビジュアルにした記事を出したものであり、今回も朝日はその手法を踏襲した(こうした記事は、最高裁判所裁判官国民審査(憲法79条2項)のために有益)。安倍人事で最高裁入りした木澤克之裁判官の経歴に「加計学園監事」(ピンクのマーカー) を入れたのは朝日社会部の見識だろう。
決定の全文をダウンロードすると、A4で49頁にもなる(ちなみに、2015年判決は31頁)。そのなかで、多数意見は2頁弱、30行にすぎない。2015年判決の判断を変更すべきものとは認められないとして、憲法24条違反の主張を退けている。その上で、「夫婦の氏についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題と、夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題とは、次元を異にする」というありきたりの指摘をして、口頭弁論を経ない「決定」ということもあって、憲法適合性について新たな判断を加えることなく、国会で論ずるべきという2015年判決の結論を繰り返すにとどまった。ただ、国民の関心の高い問題でもあり、深山卓也、岡村和美(女性)、長嶺安政の3裁判官が5頁ほどの補足意見を書いている。2015年判決以降の事情の変化などに細々触れながらも、結局は、国会の真摯な議論に期待する、で終わっている。
4人の裁判官の違憲の主張
これに対して、4人の裁判官が違憲の主張を展開する。まず、三浦守裁判官は反対意見ではなく、「意見」として、結論は多数意見に賛同しつつ、夫婦別氏の選択肢を設けていないことが憲法24条に違反するとする。10頁ほどを割いて、夫婦同氏を定める民法750条が、婚姻をするかどうかについての自由な意思決定を制約すること、婚姻の自由は個人の尊厳に基礎を置き、当事者の自律的な意思決定に対する不合理な制約を許さないことを中核とすること、個人の尊厳は、法制度が立脚すべき基盤として立法の限界を画するもので、立法裁量の指針や考慮要素にとどまらないことなどを指摘する。結論として、婚姻の要件につき、法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことが憲法24条に違反するとする。
草野耕一裁判官は6頁ほどを使って反対意見を書いているが、選択的夫婦別姓制度の導入により「国民の福利」が向上するか、減少するかを比較するという視点から論じており、民法750条が憲法24条との関係で合憲なのか違憲なのかという憲法論の核心からは距離のある議論を展開する。一種の「メリット、デメリット」思考であり、当事者、子ども、親族にとってそれぞれ「福利」があるのにその「福利」をもたらす制度を導入しないことが、個人の尊厳をないがしろにし、立法裁量の範囲を超えるほどに合理性を欠き、憲法24条に違反するとする。これでは、憲法24条違反の主張としては弱いように思う。
この問題において正面から2015年判決と今回の決定の多数意見を批判するのが、宮崎裕子、宇賀克也両裁判官の反対意見である。26頁近くあり、全体の半分以上を占めている。「決定」にもかかわらず、2015年判決の1.5倍の字数になったのは、両裁判官の力の入った反対意見に負うところ大である。
両裁判官は、法が違憲であると主張するだけでなく、抗告人らの婚姻届の受理を命ずることを求めている。そして、婚姻を、「国家が提供するサービスではなく、両当事者の終生的共同生活を目的とする結合として社会で自生的に成立し一定の方式を伴って社会的に認められた人間の営み」と捉え、これに対する制約は、「重婚の禁止や近親血族間の婚姻禁止等」にとどまり、「夫婦同氏を婚姻届の受理要件とすることは、婚姻をするについての直接の制約と解される」とする。「単一の氏の記載(夫婦同氏)を婚姻届の受理要件とするという制約を課す」と、「婚姻をするについての意思決定を抑圧し、自由かつ平等な意思決定を妨げる」ことになるからである。さらに、「夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは、婚姻後、夫婦が同等の権利を享有できず、一方のみが負担を負い続ける状況を作出させる」ことにも注目する。
宮崎・宇賀両裁判官は、多数意見や他の反対意見と異なり、直球の憲法論を投げかける。すなわち、「抗告人らのように双方が生来の氏を希望する者に対して、夫婦同氏を婚姻成立の要件とする制約を課すことは、抗告人らの婚姻をするについての意思決定を抑圧して自由かつ平等な意思決定を妨げるものであるから、憲法24条1項の趣旨に反する侵害に当たるというほかない」という。そして、同2項については、2015年判決とは、判断枠組みを異にし、結論も異にするとして、多数意見との違いを明確にする。
憲法24条2項は「婚姻及び家族に関する事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。」と規定している。2015年判決は、夫婦同氏制を定める民法750条の憲法24条適合性については、「当該法制度の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し、当該規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から総合判断すべきである」という判断枠組みを示す。だが、両裁判官は、前述のように、婚姻届において夫婦同氏に同意しない者に対して、夫婦同氏を婚姻の成立要件として課すことは、婚姻することについて当事者の意思決定を抑圧し、婚姻することについての自由・平等な意思決定を妨げる不当な国家介入にあたり、憲法24条1項に反するので、本件については、2015年判決の判断枠組み適用の前提を欠いているとする。そして、民法750条は、憲法24条2項の個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した法律とはいえず、立法裁量を逸脱していると断定する。
2015年判決が考慮しなかった3つの事情
両裁判官は、氏名に関する人格的利益が、かつて最高裁1988年2月16日第三小法廷判決において、人格権の一内容であると判示した利益と同質・同等のものである以上、これが個人の人格的中枢に関わることは否定できないことから、夫婦同氏制が個人の尊厳と両性の本質的平等に反する結果をもたらす制度であると断ずる。そして、2015年判決では、この点が考慮されていなかったことを指摘し、ここから、追加的に考慮すべきことを3点指摘する。
第1に、「夫婦同氏制は個人の尊厳と両性の本質的平等に適合しない状態を作出する制度であること」である。妻側が氏を変更する夫婦の割合が約96%にのぼるという実態を重視して、「生来の氏名に関する人格的利益を失い、夫との不平等状態に置かれるのは妻側であるという、性別による不平等が存在している」と指摘し、個人の尊厳と両性の本質的平等に反するとする。
第2に、2015年判決後の旧姓使用の拡大が、夫婦同氏制の合理性の実態を失わせていると評価する。近年の夫婦・家族の実態について踏み込み、夫婦と未婚の子からなる世帯が、2018年統計で3割を切っていること、また、未婚率の上昇、初婚年齢の上昇、離婚・再婚の増加、国際結婚の増加という近年の動向が今後も継続していくという社会の実態に踏み込む。そして、夫婦同氏制を廃止した諸外国でも、家族の一体感が弱まったとする実証的根拠は何もなく、また、旧姓の通称使用により家族の絆が弱くなっているという実証的根拠も存在しないことなどにも言及する。夫婦同氏制の合理性の根拠とされた点をめぐる社会実態がこのように変化するなか、2015年判決以降、女性の旧姓の通称使用を容易にする方策がとられてきたことに触れながら、これを、2015年判決のいう夫婦同氏制の合理性の根拠を質的に希薄化させる重大な事情の変化であると評価する。旧姓の通称使用が、婚姻した女性にダブルネームを認めるのと同じことになるから、それによる本人の人格的利益への影響や、ダブルネームの使い分けの負担増、社会的なダブルネーム管理コストの問題にまで立ち入り、旧姓使用の広がりが、夫婦同氏制の合理性の根拠の基盤を空疎にしていると指摘する。
第3に、国際的事情である。女子差別撤廃条約(1981年発効)2条は、「締約国は、…女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求することに合意し」、そのために「女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること」を約束すると定めている(同条(f))。また、同条約16条1項は、「婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし、特に、男女の平等を基礎として次のことを確保する」(柱書き)として、同項(g)において「夫及び妻の同一の個人的権利」を挙げ、その例示として「姓…を選択する権利」を明記している。両裁判官は、女子差別撤廃条約の法的拘束力があることを、英文を細かく指摘して裏づけていく。判決(決定)の反対意見に英文の動詞(agree to)や助動詞(shall)が出てくるのはきわめて珍しい。
両裁判官は、日本国が女子差別撤廃委員会による夫婦同氏制についての最初の指摘を受けた2003年から本件処分時までの15年間の長きにわたり、国会が民法750条の改正をしていないこと、2015年判決の翌年に、女子差別撤廃委員会から日本国に対し、この義務の履行を要請する、通算3度目の正式勧告が行なわれたことを重視する。国会の懈怠への厳しい指摘である。両裁判官は、この勧告が、「夫婦同氏制が国会の立法裁量の限界を画するとされる個人の尊厳と両性の本質的平等という憲法24条2項の理念にも反していたことを映し出す鏡でもあったといえる」として、「夫婦同氏制が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものであることを基礎付ける有力な根拠の一つとなり、憲法24条2項違反とする理由の一つとなると考えられる。」とする。
両裁判官の反対意見は、1996年に法制審議会の検討も終わり、夫婦同氏制の改正の方向を示す法案要綱まで答申されたことに言及しつつ、「国会においては、全ての国民が婚姻をするについて自由かつ平等な意思決定をすることができるよう確保し、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した法律の規定とすべく、本件各規定を改正するとともに、別氏を希望する夫婦についても、子の利益を確保し、適切な公証機能を確保するために、関連規定の改正を速やかに行うことが求められよう。」と呼びかける。
宮崎・宇賀両裁判官の反対意見こそ、実は多数意見として、この時期、このタイミングで立法府に向けて発せられるべきものではなかったか。今回の決定の多数意見が「国会において論ぜられ、判断されるべき」といったり、3人の裁判官の補足意見が、国会における「真摯な議論」を期待するといっても、何ともか弱い、リップサービス程度のものとしか感じられなかったが、宮崎・宇賀両裁判官の反対意見は、国会に対して、法改正の根拠、改正の方向と内容を説得的に提示しているように思う。少数意見は将来の多数意見である。だが、加計学園監事の木澤克之裁判官などからなる多数意見が急に変わるとは思えず、これは国会を変えるしかないだろう。
夫婦別姓は家族を壊す!?
古い携帯電話の写真を整理していたら、こんな1枚が出てきた(冒頭右の写真)。近所を散歩した時に撮影したもので、日付は2010年10月24日。その年7月の第22回参院通常選挙に向けた国民新党(当時)のポスターである。民主党(当時)と連立政権を組んでいたため、選挙では「外国人参政権反対」「選択的夫婦別姓制度反対」などの保守色を鮮明にしていた。だが、議席を獲得できず大敗。消滅に向かった。2012年12月に安倍晋三政権が誕生すると、この二つのスローガンは、女性天皇反対
とともに、安倍首相の強い信念としてこの8年あまり貫かれてきた。「夫婦別姓は家族を壊す」といった極論は、安倍政権下では力をもっていた。
『朝日新聞』2021年6月23日(デジタル)の「進まぬ夫婦別姓議論に安倍氏の影:自民が抱えるジレンマ」によると、自民党にはもともと性的役割分業の明確化などを求める伝統的家族観を重んじる議員が多く、安倍晋三前首相はその代表的存在で、この間、党内論議も事実上封じられてきた。LGBTの問題でも、女性天皇の問題でも、足を引っ張るのは安倍晋三ということになる。「政治的仮病」を使って「敵前(コロナ前)逃亡」lした安倍前首相が、いまだに自民党内保守派をおさえているという状況が背景にあって、2020年末に策定された第5次男女共同参画基本計画の自民党内論議では、安倍氏に近い慎重派の激しい巻き返しがあり、第4次計画まで明記されてきた「選択的夫婦別氏制度」の文言自体が削除されてしまった。
しかし、菅義偉首相自身は、夫婦別姓には、むしろ理解を示してきたとされている。この写真は、『読売新聞』2006年3月14日付3面である。見出しは、「民法改正「答申」放置状態 夫婦別姓、棚上げ10年 非嫡出子の相続格差も」。記事のなかには、「…自民党内で別姓導入に理解を示す菅義偉衆院議員は「例外制でもダメならもう無理という雰囲気になってしまった。しかし、不便さや苦痛を感じている人がいる以上、解決を考えるのは政治の責任だ」と話す。」という菅議員のコメントが載っている。
ボールは投げられた、国会を変える国民に
6月23日の最高裁決定の宮崎・宇賀両裁判官の反対意見が、今日の最高裁で多数意見になれないとするならば、この意見を実現するには、国会の構成を変えるしかないだろう。夫婦同氏制について、最高裁から国会に投げられたボールは、国民に投げられたものと考えるべきだろう。その意味で、11月28日までに確実に行なわれる衆議院議員総選挙 における国民の判断が重要となる所以である。これについては、また稿を改めて書くことにしよう。