今週の出来事について、新聞を読みながら考えてみたいと思います。
今日お話ししたいのは、とくに次の三つの出来事です。まず、4大証券の一つである山一証券の経営破綻の問題、二つ目は東京都の管理職昇任試験で、外国人の受験を拒んだことが憲法に違反するという判決が出たこと、三つ目は、海上へり基地建設をめぐる沖縄県名護市の市民投票(12月21日)に関連した出来事です。
1.山一証券の経営破綻
まず、はじめに、何といっても、その質と影響の大きさからいって、巨大事件といえるのが山一証券の経営破綻の問題でしょう。関連企業を含めれば1万人以上が失業する「戦後最大の倒産」です。25日付各新聞は一面トップから社会、経済、国際面を含め全体として大きく扱っています。
インターネットの諸外国の新聞のサイトでも大きく扱われていました。たとえば、ドイツの『Die Welt』紙は26日付で「日本は、投資家にとって、タブー地帯となった」と書き、『ワシントンポスト』紙は25日付で「さようなら、日本株式会社」という論説を掲載。山一の経営破綻は、政治・官僚機構・業界の密接な結びつきを基盤にした日本の経済システムがもはや通用しなくなったことを示したと書きました。
3兆5000億円といわれる負債の巨大さもさることながら、重大なことは、いわゆる「飛ばし」と呼ばれる、含み損のある有価証券を決算前に別の企業に転売させ、損失の表面化を避ける取引が大規模かつ組織的に行われ、簿外債務という隠された債務が、2600億円以上あったことです。こうした行為は、取引の公平と情報開示を求める証券取引法に違反する行為で、刑事責任の対象となります。もし外国ならば、責任者はことごとく刑事訴追されるでしょう。『朝日』25日付は、メインバンクの富士銀行がこの「飛ばし」の事実を先月の段階で知っていたと報じました。また、日頃、金融業界に対しては「護送船団方式」といって、手取り足取り丸ごと指導をしてきた大蔵省が、山一のこの違法行為に適切な手をうたなかったことを各新聞とも共通して批判。山一問題が金融界、大蔵省にも責任があると指摘しています。
ところが、大蔵大臣は山一破綻の当日、すぐに公的資金導入の方向を示唆しました。公的資金とは国民の税金です。住専問題とのときに、6850億円の公的資金導入が国民の厳しい批判を浴びたことは記憶に新しいと思います。『朝日』26日付社説は、銀行と証券を同列に論ずることは妥当ではないこと、ハイリスクも覚悟の上の投資家場合、返済金額は銀行よりはるかに少なくてすむこと、山一の場合、莫大な簿外債務があることなどを指摘し、安易な公的資金導入論を批判しています。
27日に山一の前会長が参議院決算委員会で参考人として呼ばれ、そこで「飛ばし」は「ノーマルな形だった」と述べました。これを受けた、『読売』28日付夕刊コラム「よみうり寸評」は、「証券界の常識は世間の非常識」と書き、「世をはばかるような奇異な取引がノーマルというのだから、それが業界の目にもアブノーマル(異常)に変形したら、世間の常識から一層離れ……、最後にはすべてが沈んでいく」と書いています。山一トップにも、業界にも、大蔵省にも、「誰かが何とかするだろう」という依頼心と認識の甘さがあり、この点、『朝日』26日付「天声人語」は、実務面のトップである大蔵省証券局長の事件後の第一声が「ことばにならない、というのが私のことばであります」、橋本首相の第一声が「事実関係を掌握していないから、コメントしようがない」だったことを挙げ、「ことばにならない」のは国民の方である、と厳しく指摘しています。
山一ショックの翌日26日付『読売』が最初に報じた、仙台の「徳陽シティ銀行」の経営破綻。北海道拓殖銀行に続くもので、まさに山が崩れだしたという感がします。『毎日』25日付夕刊コラムは、これらの問題の奥に、「近代日本国家の構造的欠陥」があると指摘し、精神分析医・岸田秀氏の「日本人の現実感覚不全症」を紹介しています。岸田氏は、戦争中の日米の戦死者数の桁違いの差を指摘し、米軍は一つ失敗をおかすと、同じ失敗を二度と繰り返さないようにするが、日本軍は失敗から教訓を引き出さず、同じ失敗を繰り返す。『毎日』コラムは、今回の問題の原因も、努力不足でも物量不足でも能力不足でもなく、窮地に陥っても改められない「方向感覚」のなさだと結んでいます。かつて政治学者丸山真男が名著『現代政治の思想と行動』で、戦争になだれ込んでいった日本のもつ構造的弱点をえぐり出した数々の指摘を思い出します。
責任という点でいえば、厳しい指摘をしているメディアもまったく責任がないとは言えません。簿外債務のようなことを、ある程度の常識として黙認する雰囲気がなかったかどうかも問われています。私は、憲法研究者として最も大切だと思ったのは、どのような場面でも、情報開示、情報公開が貫かれるべきだということです。この事件ではそのことを特に痛感させられました。
2.外国人にも管理職への道――東京高裁判決
さて、次は26日の東京高裁判決です。『朝日』27日付は、「自治体の管理職昇任試験、外国籍門前払いは憲法違反」の大見出しで一面トップの扱いでした。
在日韓国人二世の女性が88年に東京都に保健婦として採用され、94年に管理職試験の申込みをしたところ、日本国籍がないことを理由に受験を拒否され、受験資格の確認と損害賠償を求めた事件です。昨年5 月、一審の東京地裁は、外国人を採用できるのは、補助的・専門的事務に限られ、都の管理職は「国の統治作用にかかわる職種」にあたるからこれにあたらないとして訴えを退けましたが、今回、東京高裁は、直接国の統治作用に関わる職種を除けば、外国人が管理職に就任できる職種が存在するのに、それを一律に認めないのは憲法の職業選択の自由、法のもとの平等に反するとしました。
たとえて言えば、水道局で水質管理の仕事をする場合と、総務部で人事管理をする場合とでは、水道局の場合、技術的・専門的だから可能だけど、人事管理のセクションには就任できないということでしょう。判決は東京都の場合、2500ある管理職ポストのうち、事案の決定権限をもたない管理職が一割強存在することを挙げ、こうしたポストからも外国人を排除することは憲法違反だと述べました。判決が具体的な検討の上で一定の管理職ポストに外国人就任の可能性を広げたことは評価に値します。ただ、判決は、「外国人は公権力の行使にかかわることはできない」という既存の枠組は依然として維持しているという問題は残ります。
とはいえ、今回の判決は、国籍条項をたてに一律に外国人管理職登用への道を閉ざしてきた実務への問題提起として、その意味は決して小さくありません。いま、自治体も国際交流や国際協力を盛んに行っていますが、自分の内側での国際化が遅れていたように思います。外国人を採用する自治体は川崎市を皮切りに、少しずつ増えていますが、まだまだ不十分です。
『読売』27日付解説は、「行政が必要以上に国籍に固執することなく、国際化に対応した多様な人材を受け入れるよう要請した判決と言える」と書きました。今回の判決は、国家公務員についても同様の問題を指摘しているので、国民の間でも、公務員制度全体との関わりで根本的な議論が必要になってきたといえましょう。
3.沖縄の名護市民投票を目前にして
海上ヘリ基地建設の是非をめぐる沖縄県名護市の市民投票がちょうど3週間後に迫りました。今週は、それに関連した出来事が色々と起きました。
『朝日新聞』28日付は、防衛庁は、長官名で、沖縄出身の自衛隊員・防衛庁職員3000人に、市民投票での賛成票獲得に協力を求める文書を送付したことを伝えています。地元名護市では、海上基地建設をめぐり意見が対立し、市を二分した運動が続いています。
地元『琉球新報』『沖縄タイムス』は28日付朝刊・夕刊は「異例の要請文書」という形で懸念を表明しています。地方の住民投票における一方の側を、国家機関が組織的に応援する結果になりかねず、慎重な姿勢が求められています。
ところで、『沖縄タイムス』18日付によると、名護市の基地建設予定地に近く、米軍ヘリの騒音の被害を受ける可能性のある山のなかに、知的障害者施設・名護学院がある。職員は基地建設に反対の意思表明をしたのですが、ハッと気付いた。平均年齢42歳で24時間ここにいる250 人の障害者に意見を聞いていなかった。彼らにも投票権がある。そのことに気付かなかったことへの反省に立って、職員たちは海上基地の問題についての紙芝居を作って彼らに問題を伝える努力をしているという記事です。こういう問題では、賛成か反対かというところに目が行きがちですが、「ここで24時間過ごす障害者にも、ヘリ基地の問題について知る権利がある」という職員の言葉は、とても大切なことを教えてくれています。基地がつくられるのは、沖縄のなかでも貧しい北部の、さらに貧しく、高齢化率の高い二見以北地区。その山の中の施設に20年以上暮らしている障害者がいる。経済振興策というのも、こういう最も弱い人々への眼差しを忘れたとき、強者の論理となります。『沖縄タイムス』の記事は、そのことをさりげなく教えてくれています。見出しは、「人権取り戻す紙芝居の試み」。きらりと光るいい記事でした。3週間後に、沖縄の名護の市民がどのような決断を下すか、注目したいと思います。
最後に、山一の経営破綻の問題でも、沖縄の海上基地の問題でも、何かを決めるときには、必ず情報の公開が必要だということ、情報の公開こそ、民主主義国家の基本前提だということを改めて教えてくれていると思います。
今日は、このへんで失礼します。