戦争とたたかう
〜一憲法学者のルソン島戦場体験〜
久田栄正・水島朝穂 著
毎日新聞 1987年3月2日付
画期的な軍隊研究
太平洋戦争について、私たちの前にようやく『坂の上の雲』に匹敵する本が生まれた。司馬遼太郎氏の名作が、日露戦争の刻々の経過を追体験させるのと同じように、この本は私たちがそこに配置されていたかもしれない戦争の局面を再現し、息もつがせぬ迫力をもっている。
しかも、小説とは違って二人の憲法学者によるこの戦記は、記憶と記憶とをとことん付き合わせて検証された事実の集大成である。フィリピン戦線という領域に限定されていることは、けっして本書の功績を殺ぐものではない。著者の一人・久田氏があくまで誠実に自己の体験と内面を語っていき、その聞き手でもある水島氏は大本営や前線司令部など軍の命令系統の各段階の決定過程をこまかく調べて、戦闘局面の全体構造をみごとに再現していく。
つまり『坂の上の雲』が秋山好古・真之という主人公の判断と行動を、状況の構造連関のなかで描きぬいたのとひとしく、この本は、兵役に従っても倫理にそむく行為はすまいと決意していた一青年が追い込まれていった現代戦を、この上なく具体的で切実な経過のなかでたどらせてくれる。
戦争体験を風化させないためにどんな手だてが必要か、という問題に、著者たちは実践によって鮮やかな回答を提示した。個人の置かれた状況の決定的条件群を的確に再現してはじめて、その時、その場での迷い、苦しみ、怒り、悲しみが追体験可能なものとなる。その方法を切り開いたことにこそ、ここかしこの記述のみごとさを超える貢献がある。
兵営の内務班で公認されていたビンタなどの私情による制裁の慣習が、ひとたび敗走となると将軍や参謀のほうが我先に逃げだしてゆくエゴイズムの縦社会にぴったりと照応している。二人の著者は、いま学校で横行するいじめこそ、内務班的な日本の社会心理のよみがえりだと警告している。戦後の開幕期になされた「日本の軍隊」の研究は、社会科学の再出発を象徴する出来事だった。いま軍隊研究がこの量感あふれる業績によって画期を示したことは、日本の文化科学の充実を告げる標示であろう。
北海道新聞 1987年5月3日付コラム「卓上四季」より
憲法学者で札幌学院大教授の久田栄正さん(72)の戦争体験をつづった「戦争とたたかう」という本を読んだ。戦争を知らない同大助教授の水島朝穂さん(34)が聞き書きや膨大な資料をもとにまとめた労作だ。
京大を出て会社勤めをしていた久田さんに召集令状が来たのは昭和17年だった。人一倍臆病で、兵隊とか軍人とかに嫌悪を感じていた久田さんは「おちこぼれ」の兵隊になり、「順法闘争」に終始することを決意する。
当然、独りぼっちの抵抗にはさまざまな迫害が襲いかかる。劣等兵よばわりされる。みんな上等兵になっても一等兵のままだ。極端な音痴なのにむりやり歌わされる。歌うと「なぜ編曲するのだ」といってなぐられる。
ルソン島ではすさまじい弾幕の中をただ一機敵艦に体当りする特攻を目撃した。そして、「特攻というのは、強制された自殺に過ぎない」とつぶやく。戦場でも平和にこだわりつづける目は冷静でさえある。飢餓をくぐり抜けてやがて終戦になる。
捕虜収容所では仲間と憲法の改正について論じる。が、新憲法の改正に戦争の放棄が盛り込まれているとは考えもしなかったという。「草案を初めて見て跳び上がって喜んだのは、9条についてでした」。戦争のみじめさと9条の喜びが久田さんに一貫した憲法擁護の道を歩ませた。「恵庭事件」では特別弁護人として法廷に立った。
この本は戦争にさからった英雄の話ではない。平和の問題は人権の問題であると説く一学者の人間として生きるため戦争とたたかった記録である。平和憲法は今日40歳。
朝日新聞 1987年3月9日付
己を通す抵抗の記録
戦争を知らない世代から戦争体験者への素朴で痛切な質問に「なぜ、戦争とたたかわなかったのか」というのがある。
古希を超えた憲法学者の従軍体験を、同学の後輩が聞き書きする一方で資料を渉猟、太平洋戦争の歴史の中に位置づけたこの本は、その見本答案の一つと評価できよう。「戦争する兵隊ではなく、戦争に対して自分なりに抵抗する兵隊になろう」とした人間の優れた記録だ。とくに若い人たちにすすめたい。
1915(大正4)年に生まれ、北海道の屯田兵村で育った久田は、反骨精神の盛んな父親の影響で、幼年期から権威と暴力を嫌う。天皇機関説事件さなかの35(昭和10)年、入学した旧制四高では軍事教練服拒否事件を起こし、京大では憲法研究会を隠れみのにマルクスを読んだ。
「戦争拒否ならば、刑務所に行くか自殺するしかない」時代であり、四高時代「帝国主義戦争反対」に正面から挑んで捕まり、発狂して死んだ生徒を見ており、「国賊・非国民といわれないようにして国賊・非国民をやろう」と決心する。
就職、結婚して間もない42年、補充兵として金沢に入営。陸軍の内務班生活の規則主義、管理主義、「人より物」の思想、「私的制裁」の内側が、水島の調査もあって構造的に明らかにされている。満州転属。拒んだが、強いられて「戦争をしない」ために経理部将校の道を選んだ。44年10月、ルソン島上陸、ボソロビオ駐屯。
後半の比島(フィリピン)体験がやはり読みどころだ。悲惨なレイテ戦の後、山下奉文軍事司令官以下のルソン決戦も敗北に次ぐ敗北だった。続出する軍高級幹部の逃亡、部下を見殺しにする大隊長、自分だけ食べて当番兵を餓死させた高級主計。敗走……。「人間人格は胃袋だと錯覚するような状態」の中で「餓死の階級性」があらわになる。比島方面の戦没者は陸海軍合わせてほぼ50万人。満州を出るとき1,738人だった久田の部隊の生存者は331人。ただ、久田は敵を殺すことはせずにすんだ。
久田はいう──「あえていえば、ルソン島で死んだ兵死たちは無駄死だったという視点が必要だ。私のまわりで死んでいった兵隊は、こんな馬鹿な戦争で死ねるかといって死んでいった。(しかし)ルソンのあの多大な犠牲は、平和憲法を生みだす大きな礎になったと考えるべきだ」と。
(文責・山本 武)
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