武器を持たない兵士たち
−−東ドイツ人民軍建設部隊・「見えないもの」と「小さな人々」
 市川ひろみ
 〜『三省堂ぶっくれっと』No.120 September, 1996




のを壊し、人を傷つけ、さらには自分が殺されたりするのが「仕事」である人たちがいます。兵士たちです。彼らは、どんな命令でも疑問を抱かずに自分の気持ちを殺して、絶対に服従しなければなりません。ところが、兵士でありながら、傷つけあったり力で物事に対処することを拒んだ人たちが東ドイツにいました。徴兵制のもとで兵役を拒否することが許されていなかったので、しかたなく兵士になった人たちです。彼らは「建設部隊」に配属されました。この部隊は、国家が兵役に応じない人々に直面して設置したものです。
 東ドイツでは、ベルリンの「壁」が構築された約5カ月後の1962年1月に、徴兵制が施行されました。その時、兵役に就くことを自らの良心に従って拒否する若者が続出しました。国家が国民の義務として要求することを独りで拒否するなんて私には気が遠くなりそうです。国家権力を前に、ひとりひとりはとても小さな存在ですから。しかし、彼らにとっては、国家がどれほど大きな権力を有しているかは重要ではなく、自分の内面、良心が大切だったのです。彼らのほとんどはキリスト教徒で、社会主義国東ドイツでは「小さな」存在でした。
 兵役を拒否した若者は、逮捕され拘禁刑を受けるにもかかわらず、2年間で1550名に及び、国家は対応を迫られました。教会は若者らを支援し、良心に基づいて兵役を拒否することを権利として認めるよう国家に働きかけました。西ドイツではすでに良心的兵役拒否が、基本法(憲法)に権利として保障されていたという事情もあり、この点で東ドイツ政府も政権の民主性を国際社会にアピールする必要がありました。そこで、1964年6月に「建設部隊」が人民軍内に設置されたのです。
 この制度は同時に、国家が、兵役を拒否しようとする「反社会主義的」で「反国家的」な若者さえも人民軍の中に取り込んでしまおうとしたものです。東ドイツでは、国家による諸組織に国民を組み込もうという包括的な社会統合政策が採用されており、建設部隊もその一環でした。ところが、国家のこのような意図とは逆に、建設兵士らは80年代に注目を集めた市民運動の原点となったのでした。
 私は、統一後1年経った1991年の秋からほぼ2年間、ベルリンに滞在しました。当初、私は生活や資料収集に便利だろうと思ったので、西ベルリンに住むつもりだったのですが、丁度同じ時期にベルリンにいらした日本人の先生方のおかげで、東ベルリンのある家庭に間借りすることになりました。これは、私にとって大変幸運なことでした。東の人たちのなかで暮らす間に、いかに自分が西側の偏見の中にあったかに気づくことができたからです。
 私が間借りしていた家には毎日誰かが、ジリジリと呼び鈴を鳴らし、裏口の扉をどんどん叩いていきなり訪ねてきました。私が独りで留守番をしていると、近所のお兄さんがやってきて、パンが切れて無いからと台所から勝手に持って帰ったこともありました。もっと大勢の人が「壁」のあった頃には出入りしていたそうです。東ドイツの時代には、恒常的なモノ不足のために、人々はどうしても助け合わねばならなかったという事情もこの背景にあります。私が来てから1年ほど経つと訪ねてくる人がめっきり少なくなりました。突然放り込まれた資本主義の社会で、みんな食べていくのに精一杯、時間的・気分的な余裕がなくなったからだと、大家さんは嘆いていました。
 私の大家さんは、21歳のカールステンでした。彼は統一後の混乱と社会の急激な変化にうまく適応できず、家に閉じ込もりがちだったそうです。そこへ、日本からやってきた間借り人の面倒を見るという仕事ができたわけで、彼は私をまるで遠くから訪ねてきた友達のように世話をしてくれました。
 彼の友人のなかに、黒い瞳が印象的なカイがいました。カイは禅や武道、俳句に興味をもっている熱心なクリスチャンで、東ドイツの時代には平和運動にも参加していました。彼は、兵役の義務を建設部隊で果たしていました。  彼に、建設兵士だったころのことを訊ねたことがあります。「妥協だった。一度もこれでいいんだと思ったことはなかった」。という答が、即座に返ってきました。私は、建設兵士を選択することによって被る教育・職業上の不利益を顧みず国家に対して明確な意志表示をしたことや、市民運動を担ってきたことなどに自負があるものと思っていたので、彼の言葉には驚きました。その時の彼のとても悲しそうな目は、以来私が建設兵士を考える際、いつも、いつも、目の前にはっきり浮かんできます。
 私が住んでいたプレンツラウアーベルク地区を、ジャーナリストの熊谷徹氏は、「表通りから一歩脇道に入ってギョッとした。剥がれ落ちた漆喰、外れたベランダ、むき出しになった煉瓦の壁……。中庭に入ると、焼けただれた車の残骸が転がっている。一つや二つの建物ではなく、地区全体がゆっくりと崩壊に向かっている。」と『ドイツの憂鬱』(丸善ライブラリー、1992年)の中で描写しています。幽霊でも出てきそうですね。でも、もう一歩入って部屋の中に招き入れられていたら、別の世界が見えたかも知れません。外見は廃屋のようでも、室内には明るい壁紙が貼られていて、窓際に置かれた植木鉢の緑は透き通り、テーブルには自分でミシンをかけアイロンをあてたクロスが掛かっていたでしょうから。
 私の会った東ベルリンっ子はみな、このプレンツラウアーベルクを自慢にしていました。そこには、1900年代からの石造りの建物がまだ多く残っていて趣があります。「壁」のあったころから、若い芸術家らを中心とした新しい文化の盛んな所でもありました。いくつかの平和、人権、環境運動の市民グループもこの地区に居を構えていました。  そこで、私はそれらを地図で探して訪ねて歩きました。統一後、活動が急速に弱体化してしまったところが多いからでしょうか、教会の扉が閉まっていて寂しい思いで帰ることも幾度かありました。扉が開いていて誰かがいると、「こんにちは」と話が始まります。彼らは自分たちの活動について語ったり、「そのことだったら、彼に聞けば教えてくれるよ」と言って、たった今言葉を交わしただけの私に活動の中心メンバーだった人の連絡先を教えてくれたりします。私も、いきなり電話をしてその人の家や教会まで会いに行きました。
 彼らは、ドイツ語の不自由な私にも理解できるようにゆっくり繰り返しながら丁寧に話します。それぞれの活動の詳細、運動に対する思い入れ、他のグループへの批判などを語ってくれました。西側の文献には見られなかったグループ内の対立といった問題も聞くことができました。
 なかでも、彼らの活動を空洞化させた「運動家」にはきびしい眼差しが向けられます。私が日本で入手できた、つまり西側の文献では著名な運動家の名前を出すと、一様に批判的なコメントが返ってきました。この元建設兵士である「運動家」は地味ではあるが中身を伴った活動をするのではなく、西側のメディアにうけるように綺麗な言葉を並べただけだと言うのです。なるほど、だから活動の具体的なイメージがつかめなかったんだ。東ドイツの市民運動について私が表面的にしか理解していなかったことが、これで分かりました。そして「反体制」市民運動に対する評価が、多分に西側で人為的に作られたものであったことを痛切に思い知らされました。誰が西側のメディアにインタビューされるかが内部のいざこざの原因となり、地道な活動を阻害したこともあったそうです。メディアに取り上げられやすい派手なアピールに気を取られていては、運動の本質を見誤ることになります。
 こうして話を聞いていると、時間はどんどん過ぎてゆくのですが、「お茶」は出されません。「おもてなし」は、ほとんどの場合「話」だけでした。彼らのこのような態度は、物質主義や見た目ばかりのものへの批判となっていました。そして、現状について彼らは異口同音に人々が利己的になったと嘆いていました。その姿に、彼らを統一後覆っている「無力感」と「危機感」を感じとることができたように思います。東ドイツだった頃の方が活動し易かった、今では人々は見た目ばかりを気にするようになったと言うのです。
 ところで、建設部隊の設置が審議されていたときの興味深いエピソードがあります。武器を持たないという新しい部隊は、当初「労働大隊(Arbeits-bataillone)」と名付けられていました。それが、公文書に手書きで、「労働大隊」を消して「建設部隊(Baueinheiten)」と書き直されたということです。誰が、いつ、なぜ、「建設部隊」と変更したかは分かりませんが、これが私には、建設兵士らの将来を暗示するような出来事に思えます。
 というのも、「労働大隊」ではナチス政権下の懲罰組織を想起させるそうですが、「建設」には前向きな響きがあります。それに、今までに無かった新しい名前だったからこそ、市民からも偏見なく受け入れられたのではないでしょうか。建設兵士らが休暇で帰省したときなど、彼らの肩にあるシャベルのマークは人々の目を惹きました。「何をする部隊ですか」と、市民との会話が始まったりしたそうです。そんな時彼らは、大抵「市民的勇気」を表す存在として暖かい目で迎えられました。武器をもたないという選択をすることが勇気のいる行為であることを、市民らはよく知っていたのです。建設兵士と他の徴集兵らが一緒に宿をさがしているとき、ある料理屋の主人が建設兵士らのみに部屋を提供したという例もありました。
 しかしながら、建設部隊での生活は厳しく、彼らは良心に苛まれるばかりでした。日常的になされる上官からの誹謗、嫌がらせ、軍事施設での任務、良心の自由が権利として認められない状況、除隊後の教育・就職での差別、さらには建設兵士をも拒否すると法を犯すことになるからと妥協したことへの悔いは、彼らを部隊の外での運動へと向かわせることになりました。建設部隊は若者たちの出会いの場でもあったのです。建設部隊での経験を、「困難に立ち向かう訓練期間となった」「建設兵士としての体験から私は成長した」と振り返る人は少なくありません。
 そこで、建設兵士らは除隊後、建設部隊に入ることさえ拒んだ人たちとともに平和のための活動を始めました。彼らには「暴力という楽器で、平和の歌を奏でることはできない」との確信がありました。そして、「小さな人々なしには、大きな戦争もない」と考えていました。ひとりひとりの心のなかに「敵」がいたり、良心に逆らうような事態に陥った時にも上官の命令を受け入れてしまう「服従」があるからこそ戦争も遂行することができるというのです。彼らは、小さなひとりひとりの内面を重視し、平和の源をそれぞれの心の中に求めていました。
 私は、日本に戻ってから建設部隊についての論文執筆にあたり、20カ所ばかりの研究所や資料館、平和・人権などの市民運動グループ、兵役拒否支援団体に書面で問い合わせをしました。同時に、手元にあった資料に連絡先が書いてあった数名の運動家たちにも手紙を出しました。それが3カ月あまりのうちに60名以上の人々に手紙を出すことになったのです。返事をくださった研究所やグループの方々が、次々に元建設兵士や、兵役完全拒否者、教会関係者、運動家などの住所を教えてくれたおかげです。
 返事がなかった人もいます。そっけない手紙しか返ってこないこともありました。しかし、大勢の方が、私が手紙と一緒に出した不躾な質問に答えてくれ、何人もの人が、「あなたがドイツに来たときには、会ってゆっくり話をしましょう」と提案してくれました。また、見覚えのない名前の人がお便りを下さったり、資料を送ってくれたこともありました。私の手紙を受け取った人が、自分の知り合いに私の手紙を回してくれていたからです。こんな具合に、建設部隊というテーマを通して多くの人と、手紙という限られたものでしたが交流を持つことができ、論文執筆の準備はとても楽しい作業となりました。
 一番初めに手紙を出したのは、知り合いの牧師さんに紹介してもらったトーマスに宛てた1994年の11月のものでした。彼ら夫妻にとって、日本からの手紙が、建設兵士になった25年前のことをもう一度振り返るきっかけになったそうです。彼は、ぎっしり6ページにわたって返事を書いてくれました。95年1月17日の地震の時、私が神戸に住んでいたので夫妻も心配してくれて便りをくれました。嬉しかったです。もう見ず知らずの遠い存在ではないのです。  文献のなかではすっかりお馴染みだった、教会で責任ある立場にあった人たちの名前も、いくつかの返事の中に連絡先として、無名の若い運動家らと並べて書かれていました。福音教会代表として、ホーネッカー第一書記と重要な会議に臨んだシェーンヘア司教はその一人で、丁寧な返事をくれました。ザラ紙にタイプ打ちされている手紙は、見かけにこだわらない彼の人格を象徴しているように思えます。これと対照的だったのは、先に述べた元建設兵士の「運動家」です。サインが印刷されている短い手紙と、一九九三年に出版された彼の著書が送られてきました。その本の表紙で彼は、はみでんばかりに微笑んでいるのです。地位としては高いところにあったシェーンヘアは、「小さな」私を無視するようなことはしませんでした。小さなものに見て見ぬふりを決め込むのはたやすいことですが、小さな、しかも見えないものを大切にするには強さが必要です。
 小さなひとりひとりが自らの良心に従って選択をしたことが、建設部隊を生み出しました。そこでの経験から彼らは政治的自覚を深め、内面を重視した平和のための運動を展開しました。小さな人たちの目に見えない内面が、静かなかたちで社会の意識を変化させることに寄与したのでした。小さくさせられているからこそ、大きな人には見えないものが見えるのです。見えないものの大きな可能性を教えてくれたのは、今はなくなってしまった国にいた小さな人々でした。

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いちかわ・ひろみ
 今治明徳短期大学講師 神戸大学法学研究科博士課程後期課程単位取得退学。
東ドイツの市民による平和運動、教会と市民運動、建設部隊をテーマに研究を進めた。現在、兵役拒否の問題に取り組んでいる。