小さな非常識のこと 1997/9/15
今回は、ある私的な体験を通じて、「小さな非常識」の罪深さについて考える。台風に追われながら九州から帰宅した14日夜、8日分の郵便物の山に向かっていたときのこと。一通の郵便為替を開封して、目が点になった。先月ある新聞で著名な放送作家と対談した際の原稿料が送られてきたのだが、何かの間違いではないかという金額だった。
通常、新聞やテレビ・ラジオにコメントをすると、忘れた頃になにがしかの金額が振り込まれてくる。新聞やテレビの取材に対して何らかの発言をするのは、研究者として当然のことであり、時間と日程の許すかぎり、できるだけ応じることにしている。記者の問題意識や真剣さが応ずる際のポイントであることは言うまでもない。ただ、このところ、依頼や取材の仕方に常識を欠いたものも少なくない。深夜に電話してきて、突然用件から切り出すとんでもない記者もいる。ちょうど原稿書きが佳境に入っているときに、別のテーマで30分も話すと、仕事のペースを回復するのに倍の時間をくう。そういう人に限って、その後掲載紙は来ないし、当然コメント料なんて眼中にない。コメント料は、人の仕事を妨げた以上、当然の「迷惑料」にも思えてくる。一本の電話でアイデアが吹っ飛ぶこともあるからだ。ところで、先の新聞の対談は、仕事がかなり立て込んでいるときに無理に入れられたものだが、都内のホテルの一室で2時間、それなりに充実した時間だった。翌々日、発言のテープ起こし原稿がドサッとFAXされてきたので、仕事を中断して一晩で訂正。ゲラをFAXで送り返す。その新聞の1頁をさいて、対談は大きく掲載され、それなりに評判だったようだ。その後、担当記者から電話が何度も入り、振込先の確認かと思いきや、この機会に読者になれという勧誘だった。そして、1カ月後に送られてきた原稿料は0が3つ。準備からゲラの訂正までを含めれば、大変な手間隙がかかっている。この新聞は政党機関紙だから、「商業マスコミ」とは違って、高い原稿料など誰も期待してはいないだろう。「これこれの趣旨なのでぜひお願いしたい。ついてはお礼はできません」と最初から言われた方がよほどすっきりする。この新聞に登場した「学者・文化人」は、「政党機関紙だから当然」と思っているのかも知らないが、ここに依頼する側の甘えはないか。「善意の搾取」とまでは言わないが、「親しきなかにも礼儀あり」という言葉があるように、気持ちよく仕事ができる心配りが必要だろう。「政府の貧困な文化政策」を批判してやまないこの政党は、自らの側にある「小さな非常識」に気づくべきである。