オホーツク海側のサロマ湖に近い勇別川。その10キロほど上流に、紋別郡上勇別町札富美がある。近くの国道242 号線を走ったことがあるが、信号がほとんどない。100ha を超える大きな牧場もある。ここの郵便番号は099-6506。最終番号である。沖縄の900 番代、山形県飽海郡遊佐町菅里の999-8531の上が、1001番代の札幌市北区。1 が省かれて001 。秋田010 、岩手020 、青森030 、北海道函館040 ときて、北海道の099 番代、オホーツク海側の上勇別町が「郵便番号のどん尻」ということになる。では、郵便番号の始まり、100-0001はどこか。ご存じ東京都千代田区千代田 1丁目 1番地、「お掘りの向こうの面々」の住所である。この点は、『週刊金曜日』1 月16日号の投書「郵便番号にみる天皇制」が指摘していた。ところで、この郵便番号 下4桁化は、利用者がとくに頼んだわけではない。同じ市内の10人に手紙を出すとき、だいたい同じ郵便番号ですむ。これからは、すべて一つひとつ 下4桁の番号を確認しなくてはならない。面倒である。一体、誰のための「サービス」か。郵便番号の下4 桁化がもたらす「効果」は何だろうか。これまでの都道府県だけでなく、市町村までも省略できる。でも、これがメリットか。人間どこまで不精になればいいのか。このところ、裏も表もパソコンで打ち出した年賀状が少なくない。ヒヤリと冷たい感触がする。こんなのほしくない。一行でも添書があったら違ってくる。昔の友人・知人だったら、あの彼、彼女のくせのある字が1 年に一度は見ることができる。虚礼とは思いつつ、年賀状にはその程度の役回りがあるように思う。でも、来年の年賀状はもっと白けたものになるだろう。まず表。7 桁の郵便番号が打ってあり、住所は、○○が丘2 の17の5 だけ。もっと不精な人は、2 丁目17の5 だけ。これでも十分届く。表には数字と私の名前だけが打ち出されている。裏を見ると「謹賀新年」と相手の 7桁番号と丁目・番地と名前だけ。何だかシラーッとした感じがする。手で書いた紙という「手紙」の意味がますます失われていく。もともと下4 桁化は利用者が要求したものではない。同じような奇妙な「サービス」が電話の発信番号表示だ。私は全回線表示拒否を通知したのに、NTT 側からの通知には通話毎に非開示の操作を必要とするものだった。まったく不愉快である。これも「大きなお世話」の最たるものだろう。結局、便利さを追い求めるなかで、何が便利なのかをじっくり考えることもしなくなった。そうした間隙をぬって、東京千代田から始まる「中央集権国家」の発想がさりげなく擦り込まれていく、と見るのは穿ちすぎだろうか。 |