オリンピック憲章第9条は、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めている。
だが、実際には国家間のメダル争奪合戦と化していることは承知の通りである。オリンピックほど、「国民国家」が露出してくる場面はない。日頃、ボーダレスだの、国際化だのと言っていても、オリンピックが始まるやいなや、「がんばれ、ニッポン」状態と化す人もいる。私は野球もサッカーもほとんど観ない。あのアナウンサーの妙な明るさがいやで、スポーツニュースが始まるとチャンネルを切り換える。一昨年に東京に戻って家族と生活を始めた直後は、その癖が直らず家族から顰蹙をかったものだ。オリンピック観戦に熱をあげること自体は本人の趣味・嗜好の問題だから、とやかく言う必要はない。問題はスポーツを利用した「場」の機能に対する自覚である。オリンピックと政治の関係は、存外深い。
話は変わるが、7年前に東ベルリンに滞在していたとき、私のアパートを訪ねてきた雑誌編集者が夜中に突然、腹痛で苦しみだした。タクシーで連れていったのが、「シャリテー」(フンボルト大学医学部病院)だった。医者も看護婦もぜんぜんやる気がなく、一晩かかって、たらたらといい加減な治療をされてひどい目にあった。統一直後で、東の体制下の職員が解雇寸前というところに飛び込んだための「悲劇」だった。
ところで、この病院では、オリンピックのメダル獲得用の選手を「製造」していた。ある保守系紙が「ホラー病院」と書いたこともある。旧東独が金メダル獲得のトップを走っていたのは記憶に新しい。オリンピックが終わってから、後遺症に苦しむ元選手もいたという。もっとも、メダル獲得のための「国家的ドーピング」は、程度の差こそあれ、あちこちの国でやられていた。薬を使わなくても、褒賞金や各種の特権を与えるという手法は、途上国ではとくに有効だ。このようなオリンピックの現実は、オリンピック憲章9条の理念とはかけ離れたものである。
だが、最近のオリンピックで特徴的なことは、「国民国家」を意識せず、「自分のため」といって競技する若い選手が少なくないことだ。「あっけらかん」とした態度は、ときに「爽やか」と形容される。「日の丸」の掲揚の際に帽子をとらなかった選手に、「けしからん」という抗議が来たそうだが、本人は全然気にしていない。こういう選手が出てくると、私も家族と一緒に観戦することになる。オリンピック憲章9条は、こうした「あっけらかん」世代が増えることで、実質的に蘇るかもしれない。