参院選の結果と「衆愚政治」 1998/7/27


世紀最後の参院選挙は、「人類普遍の原理」を再確認するものとなった。憲法前文はいう。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」。
   頼みもしない負担(消費税5%)や、同意もしていない「公的資金」投入(無責任な銀行を救済するための)、さらには経済不況に対する無策など。これらに対する国民の怒りは強くかつ深く、その一票を使って一内閣を吹き飛ばしてしまった。
   私は投票日当日、あえて19時50分に投票に行った。投票所前には車が何台もとまり、若い人が急いで投票に向かう姿に驚いた。国民は、一票で政治を動かせることを体感してしまった。今回躍進したどの政党も、次回の保証はない。国民にしっかり監視されている。この国において、代表民主制がようやく機能しだしたのだろうか。


   そんな参院選から5日後の7月17日。「防衛庁首脳」が海上ヘリ基地をめぐる沖縄・名護市の住民投票について、「やるべきではなかった」「住民投票は衆愚政治だ」などと発言したことが報道された。朝日新聞7月18日付は、西部本社版の方が東京本社版よりも詳しいが、某政治学者の「カルピスウォーターの水割り」みたいなコメントを付けて批判した気になっている点では同じ。安易な紙面づくりだ。西日本新聞が、宮崎県小林市の住民投票を念頭に、「ごみ処分場と同じこと」という発言を加えたり、地元沖縄の2紙のように、「民主主義への挑戦だ」という市民の声を拾っているものもある。
   「防衛庁首脳」といえば、長官か事務次官を指す。後者の場合が多い。今回は長官が記者懇談会で話したこと。なぜ「防衛庁首脳」と腰の引けた書き方をしたのか。7月21日付朝日新聞夕刊は「衆愚発言は『不適切』防衛庁長官」と書き、「首脳」が長官だったことを明らかにした。各紙も同じ。こうしたケースでは、最初から長官と書くべきだったろう。無様だ。

   久間長官は内閣総辞職直前でホッとして思わず本音をもらしたのだろうが、ここには根本的誤りがある。日本国憲法は代表民主制を基本としつつも、直接民主制をも採用している(憲法改正国民投票や地方自治特別法の住民投票など)。さらに、地方自治法が直接民主制の仕組みを具体化している(条例制定の直接請求権やリコール権など)。現在のところ首長や議会を拘束する住民投票は困難だが、諮問型の住民投票ならば、実践例は増加の一途である。憲法92条の「地方自治の本旨」は地方自治の発展方向に対して開かれている。住民投票制度が情報公開と結びつきながら定着していけば、地方議会の活性化もはかられよう。直接制か間接制(代表制)かの二項対立ではなく、両者のメリットを活かした、その適切な組み合わせが大切なのだ。憲法はそうした組み合わせに対して開かれている。各地の実践例の蓄積を踏まえ、将来的には地方自治法の改正で住民投票に明確な法的根拠を与えることも必要だろう。住民投票を「衆愚政治」と罵倒する久間氏は、衆愚院議員というべきか。

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