19日、那覇で講演した。沖縄のマスコミ関係者が主催した講演会で、台風直撃のため一ヵ月延期していたものだ。4日間前の県知事選挙の結果について、講演の半分を割いた。この選挙は一地方選ではなかった。9カ月間にわたる、大田県政打倒の国家的プロジェクトといってよいだろう。 仕掛けも巧妙。中央政府と自民党は表に出ることを極力控えた。その上で、あらゆる手法を駆使した。たとえば、11月1日にコーエン国防長官が「海上施設にこだわらず」と発言をして、読売2日付夕刊が「スクープ」。3日付で「政府、海上施設断念、新たな移転先検討」と断定的に報道した。読売を伝達役とした、日米政府共演による稲嶺候補への援護射撃であった。 大田知事が2月に海上基地受け入れを拒否するや、振興策を事実上凍結し、県との協議の場(沖縄政策協議会)も中断。パイプが詰まっているという閉塞感を意図的に演出した。こうした状況は、経済的にも萎縮効果を促進する。まさに「兵糧攻め」である。沖縄の失業率は本土の2倍以上。経済は冷えきっていた。「県政不況」というコピーは絶妙な効果を発揮した。政府の経済・財政政策の失敗のツケまでも大田知事に負わせたのだ。「Change 11.15」「理想より現実」等々。内容抜きのムード的な言葉が飛び交った。那覇国際通りでは、サポーターのノリの若者たちのお祭り騒ぎが演出された。これに対して大田陣営は有効な手を打てなかった。変化を求める若者を中心とする「浮動票」は稲嶺氏に流れた。かくして大田知事打倒の「戦略」は成功した。選挙結果が出るや、日本政府は振興策の推進を明言。知事就任前なのに首相との会談をセットするなど(24日)、大田知事への態度とは大違いである。 だが、政府のあまりに露骨な態度変更は、かえって事柄の本質を見えやすくしたともいえる。世論の状況を子細に分析すれば、稲嶺当選は、沖縄県民が基地容認に変わったことを意味しない。稲嶺氏も海上基地反対を表明している。ただ、稲嶺氏の「軍民共用空港」案はきわめて怪しい。普天間基地の「代替ヘリポート」といっていたものが、いつの間にか「空港」となった。民間との「共用」を条件としているが、れっきとした基地の新設だ。米軍が一番ほしいのは、MV22オスプレイという垂直離着陸機の初の海外展開基地である。オスプレイは単なるヘリコプターではない。時速483キロ、兵員搭載で航続距離370キロ。沖縄から朝鮮、台湾などに自力展開できる。米軍文書では、沖縄配備機数が36機と書かれている(石川巌氏)。稲嶺氏は15年に期限をきったが、米軍が返還する保証はない。しかも、海上案も完全に消えたわけではない。キャンプシュワブの「陸上・海上の折衷」もあり得ない選択肢ではない。沖縄県民は、政府の掌返しの意味をやがて知ることになろう。 ここで忘れてはならないことがある。95年の少女レイプ事件後の県民大集会の壇上に、稲嶺氏は大田氏と並んで座り、基地縮小を訴えたことだ。稲嶺氏を基地容認派として政府の側に追いやるのではなく、彼の「公約」と実際とのズレを各論的にチェックしつつ、稲嶺氏を厳しく「育てていく」という視点が必要だろう。大田氏の主張は勝てなかったけれども、負けてはいない。 |