「私立大学教官」と「大学生徒」 1998/11/30


「先生は広末涼子の面接官をやるのですか」と知人に問われて、「残念ながら学部が違います」と言いかけ、全然違う返答をしてしまった。「早稲田には面接官はいません」。

  私は地方の私立大学と国立大学に計12年半勤務した。9年前、私立大から国立大に移ったとき、「水島教官室」という表示に抵抗があり、前任校で「永久貸与」してもらった「水島研究室」というステレンレス製プレートをドアに付けていた。「教官!」という言葉に、堀ちえみ(最近、満面の笑みを浮かべて離婚記者会見していた)の顔を連想する人はもういないだろう(笑)。大学院時代にご指導をいただいた故・有倉遼吉先生は、国立大から編入してきた院生が何気なく「指導教官の○○先生は……」といったとき、「早稲田には教官はいません!」と厳しく諭された。「在野精神」の早稲田で、「教官」という呼び名は論外だ。国立大でも、場面によっては教員という言葉が使われることもあったが、私立大学には教官はいない。「官」という言葉は教育の世界には馴染まない。私が勤務した地方私大に国立大から赴任してきたある助教授は、自分のことを「教官」、教務課職員を「事務官」と呼び、なかなかその誤用に気づかなかった。とはいえ、国立大時代、助手も教授も、ともに○○教官という言い方で「平等」に扱われるメリットもあると同僚教授に教えられた。それでも、「水島教官」と呼ばれると、何ともいえない違和感が残ったことは否めない。

  話は変わるが、学生と会話していると、彼らが自分たちのことを「生徒」と呼ぶ瞬間にしばしば出会う。その度に私はこう言うことにしている。「生徒のいない高校は存在しないが、生徒のいる大学も存在しない」。一瞬キョトンとするが、学校教育法上の児童・生徒・学生の違いを話すと納得する。大学には「生徒」はいない。まだ高校生のつもりか、ということだ。
  一方、「私は学者として……」などと、自分のことを「学者」と呼ぶ大学教授がいたら、その感覚もかなりおかしい。「主人は学者ですので……」と胸をはる奥さんも同様。「あの人はさすがに学者だ」というふうに、「学者」という言葉は他人に言われる言葉だと思う。自分のことは、大学教員とか研究者と言うべきだろう。
  いっそのこと、「学ぶ人」という意味で、学者、研究者、学生、院生をひっくるめて「学人」というのはどうだろうか。「学問の旅人」という意味もある。「学人」。これは一生もの。永遠である。私も永遠の「学人」でありたい。広末涼子さんは来年4月から、「生徒」から「学生」になる。周囲がよけいなお世話やお節介をすることなく、彼女の「学問の旅」を静かに見守りたいものである。

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