戦時下の基本法50周年(その1) 1999/5/3 ※本稿はドイツからの直言です。


4月中旬に車を買った。その週、家族の希望で、ダッハウ強制収容所(KZ)やノイシュバンシュタイン城などをまわった。1日平均800キロ。アウトバーンでは、時速140キロで「安全運転」する私の横を、何台もの車がビューンと追い抜いていく。飛ばす時は徹底して飛ばすが、速度制限の標識が見えると一斉にスピードを落とす。住宅地には30キロゾーンがあり、交通マナーは全体としていい。ダッハウKZはミュンヘン郊外にある。拙著『ベルリンヒロシマ通り』に書いた旧東独のKZやポーランドのアウシュヴィッツに比べ、「あっさり」した印象だ。20年前に来たときも同じ印象を受けた。それでもKZ訪問初体験の妻や娘のショックは大きかったようだ。気分を変えて、ビスコンティ監督の映画で有名になったバイエルン王ルートヴィヒ2世の世界へ向かう。ノイシュバンシュタイン城、ホーエンシュバンガウ城、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城。これでもかというほどの贅沢の限りを尽くしたつくり。そのため、バイエルンは財政が逼迫。この「危ない王様」は湖で謎の死をとげる。現在、これらの城がバイエルン州の観光収入に貢献しているのは皮肉だ。

  ノイシュバンシュタイン城のなかに一枚の地味なポスターを見つけた。「ドイツ基本法50周年記念展示」。オーストリアのザルツブルクまでアウトバーン8号でわずか40キロの距離にあるキームゼー。そこに浮かぶ二つの島、ヘレン島(男島)とフラウエン島(女島)。前者にあるヘレンキームゼー城。
   なぜ、ここで基本法50周年の記念展示なのか。実は、このルートヴィッヒ2世の城と基本法は深い関係にある。戦後、ドイツは米英仏ソの4カ国占領統治となり、1946年のヘッセン憲法やバイエルン憲法をはじめ、まず西側の州(ラント)レヴェルで憲法が制定される。日本国憲法と並んで「戦後憲法」と呼ばれるのは、フランス第4共和制憲法とイタリア憲法、そしてこれらの州憲法である。冷戦が激化し、ドイツは分断国家となる。日本と同様、占領下の憲法制定。1948年8月、ヘレンキームゼーに招集された「憲法委員会」が草案を作成する(「ヘレンキームゼー草案」)。ボンに集まった州政府代表65人の「議会評議会」でこれが8カ月間審議され、1949年5月8日に可決された。米英仏3カ国軍司令官の承認と、州議会での採決を経て、5月23日公布、翌24日施行された。制定された場所の名をとり、「ボン基本法」と呼ばれる。旧西ドイツは統一までの暫定性にこだわり、「憲法」(Verfassung)という言葉を敢えて使わず、「基本法」(Grundgesetz) と称した。今年 5月8日から23日まで、50周年記念行事がボンやベルリンを中心に行われる。

  基本法はこの半世紀の間に46回も改正されたが、50年間変わらない条文もある。その一つが26条だ。侵略戦争の遂行を準備する行為などを違憲とし、そうした行為は処罰されると定めた「平和主義条項」だ。日本国憲法9条と異なり、自衛のための戦争は禁止されていない。だが、今回の戦争参加は、ドイツやNATO加盟国への武力攻撃が一切存在しない以上、この 26条に違反する疑いが濃厚だ。ヘレンキームゼーの美しい湖水を眺めながら基本法草案を練った人々の頭には、半世紀後にドイツが「人道的戦争」に参加するなど、想像だにできなかったに違いない。(この項続く)

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