7月1と2日は「ドイツの民主主義50年・ボン祭り」。主催は連邦議会と連邦参議院。50年間、首都の役割を果してくれたボンに、議会が感謝するというお祭りだ。1日はボンでの最後の本会議。午前中は「ボンに感謝する」演説を各党代表が行い、午後1時から連邦大統領の宣誓式が行なわれた。夕方からは市内のマルクト広場で「お別れ式典」。どしゃ降りの雨のなか、たくさんの市民が傘をさして待つ。
17時の鐘が鳴る5分前にピタリと雨はやんだ。ファンファーレのなか、旧市庁舎バルコニーには、連邦大統領、両院議長、首相、連邦憲法裁判所長官、州政府首相、ボン市長らが勢ぞろいした。市民が拍手で迎える。日本で「三権の長」が揃って並ぶのは、天皇の前だけで、市民の前に最高裁長官を含めて勢ぞろいすることはまずない。ティールゼ連邦議会議長は東ベルリン出身だが、彼は「ボンなくしてベルリンはない。ボンを引き継ごう」と呼びかけ、大きな拍手を浴びた。シュレーダー首相の挨拶の時だけ野次が飛んだ。サミットなど対外政策面ではご機嫌だったが、財政改革や保健・年金改革など、内政問題では針のむしろの日々が続く。連邦憲法裁判所のリンバッハ長官だけは紹介のみで、挨拶はなし。連邦憲法裁判所はいまも、これからもカールスルーエが所在地。
司法のトップが静かに見守るなか、各国家機関の長が挨拶を終えると、私の大好きなバンベルグ交響楽団の野外演奏が始まった。大統領らもバルコニーから下りて、市民と一緒に鑑賞した。歴史的一回性の「ボン祭り」2日目は連邦議会周辺で。本会議場ではジャズやクラシックのコンサートが行なわれている。家族と中に入った。閣僚席や議員席に市民が座る。傍聴席も満席。つい昨日までテレビ中継されていた議会にドラムやベースの音が響く。外では、ロックバンドが大音響で演奏している。議会周辺はビアガーデンと化している。色々な果物を山盛りにした皿がたった1マルク。議会援助のサービス価格(?)。議員も市民も私も皿を持って、果物を食べながら歩く。焼きソーセージの出店で娘と一緒に並んだのは、ティールゼ議長だった。護衛も連れず、市民と談笑している。
連邦総理大臣府がこの日だけ開放された。広い庭園が美しい。アデナウアー初代西独首相の執務室がそのまま残されていた。鞄や椅子や書類は当時のまま。デスクには、チャーチル、ドゴール、ルーズベルトの写真と並んで、昭和天皇と皇太后の写真も置いてある。いずれも茶色に変色している。現首相の執務室や閣議室まで、この日だけ市民の立ち入りが許された。日本では考えられないことだ。95年7月にベルリンで「クリストの芸術」(帝国議会を白い繊維ですっぽり包む)を間近に見た時も驚いたが、4年後の同じ7月に、今度は「首都ボン最後の日」に立ち会うことになるとは。
ところで、娘が通っているボンの学校には68カ国から生徒が来ている。大使館関係者の子どもが多いため、夏休み中にベルリンに引越しする生徒が多い。学校での会話も、「あの子もベルリンに行くの?」。ベルリンの人口は約340万人、ボン31万人。小さな首都は、Bundedorf(連邦村)と言われた。政府機関の建物も簡易なつくりで、統一したらベルリンに立派なものを作るという意志を示すため、「仮の姿」を維持し続けた。こじんまりとした首都での半世紀は、ボン民主制として世に知られた。「ボン、素晴らしきかな暫定性(Provisorium)」というエッセーには思いがこもる(Die Welt vom
1.7)。本会議場はガラスばりで、青色の椅子も安っぽい。歴史に残る数々の重要決定がここで行なわれたのだ。議場でジャズコンサートを聞きながら、青色の椅子にそっと手をあててみた。
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