今でも忘れない。10年前の89年12月13日水曜日。早朝の山陽本線に乗って、広島大学(東千田キャンパス・当時)の朝1コマ目の授業に向かった。札幌学院大時代の同僚久田栄正氏(北海道教育大名誉教授)の戦争体験を聞き取ってまとめた仕事『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』のことを講義で話そうと考えながら道を歩いていたとき、先生の声が聞こえた(気がした)。思わず返事をした。大学に着いてしばらく準備をしたあと、8時半に研究室を出た(講義は当時8 時40分開始)。忘れ物に気づき、研究室に戻ると電話がなっている。妻からだった。「久田先生がお亡くなりになりました」。頭が真っ白になった。
「久田栄正先生とお別れする会」に出席するため札幌に向かった。雪の札幌斎場(豊平区平岸)。正面にはたくさんの花と先生の遺影。その横に拙著が一冊置かれている。多くの参列者がいたが、菊の花を手向けるだけで、それぞれの別れの思いを遺影に伝えている。友人・知人・教え子の挨拶一つない。香典も丁重に辞退された。義理や建前による葬儀はしないよう言い残した久田氏らしい別れの会だった。
帰りの機内で追悼文を書いた(『北海道新聞』90年1月21日付夕刊掲載)。結びで、別れの会の様子に触れ、「死して後もなお、個人の尊重を貫いた」と書いた。
久田氏は、フィリピン・ルソン島北部、人肉喰いが横行した「人間廃業の戦場」で、「猫は食べたが、猿は人間の赤ん坊に見えたので食べられなかった」という極限状況を体験する。マラリアとアメーバ赤痢を併発しながら、所属部隊の8割以上が餓死・病死した戦場から生還する。
1945年秋、マニラ近郊の捕虜収容所で、他の将校たちと「憲法論争」を展開。彼だけが婦人参政権導入など、いまの憲法に近い内容を主張し、孤立する。将校たちの頭は帝国憲法のままだった。「論争」の模様は、彼が米軍用紙に細かく書き残した「メモ」の発見で裏づけられた(拙著第9章参照)。
日本に帰還したのは46年1月。その帰還船のなかで、彼は「日本は満州事変以来5年ごとに戦争を拡大してきた。次の戦争は米ソ戦争になる。自分の兵役義務はまだ残っており、今度はソ連と戦うのか」と暗澹たる思いになる。2カ月後、マラリアの再発に苦しむ枕元に届けられた新聞の一面には、戦争放棄をうたう日本国憲法草案が。彼は涙を流し、「日本は二度と戦争をしない国になった。この憲法のために一生を捧げよう」と決意する。
こうして憲法学者になった久田氏の主張は、頑固一徹だった。その核心は、「平和を人権の問題として捉える」という視点。「個人の尊重」(憲法13条)を貫けば国家は戦争をできない、と。34年前、札幌地裁で恵庭事件特別弁護人として法廷に立ち、「平和的生活〔存〕権」を主張し、その根拠を憲法13条に求めた。この久田13条説は、学界では私を含め支持者が少ない。14年前、私は久田説の逆用の危険も指摘していた(拙稿「戦争体験と憲法学」)。久田氏からの反論はなかった。私が『戦争とたたかう』で明らかにしたかったのは、学説の整合性ではなく、それを主張する学者のこだわりの「原点」だった。そこからこの憲法の深層海流が見えてくる。そう考えたのだ。
出版から12年(現在、絶版)。いまの日本では、「邦人救出は、個人の尊重を保障する国家の義務である」という論理が通りやすくなった。コソボ戦争では、「人権のための戦争(爆弾)」が語られた。EUが緊急対応部隊をもち、より公平・客観的な「人道的介入」の可能性も生まれている。そのとき、平和と人権を対立させることなく、「非軍事的紛争解決」の方法を探究することが重要になっている。平和を人権の問題として捉える久田氏の先見的主張も、いまの状況のもとで、平和と人権をどのように実現するかという方法論の問題として精錬していく必要がある。それは後に続く者の課題だろう。なお、没後10年にちなんだ拙稿が『北海道新聞』2000年1月に掲載される。北海道方面の読者は文化欄にご注目下さい。