滞在日数は3カ月を切った。早いものである。2年まで可能だったが、98年秋に在外が決定したとき、「憲法が危ないから1年で帰る」と宣言した。その時、皆が笑った。ドイツ滞在中、日本は大きく変わった。今は誰も笑わないだろう。
昨年7月に国会法が改正され、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うため」、憲法調査会が衆参両院に設置された(102条の6)。扱う事項は各議院の議決で決まるので(102条の7)、調査内容に特別の制限はない。20日に国会召集。改憲を射程に入れた議論が公的に始まる。
だが、ドイツから見ていると、日本の改憲論議は妙に浮ついた印象を受ける。憲法そのものより、憲法を改正すること自体に妙な力みが感じられるのだ。「改正オブセッション(強迫観念)」とでも言えようか。「日本国憲法は一度も改正されない世界最古の憲法」といったエモーショナルな物言いがその一例だ。「環境権やプライバシー権を入れるために憲法改正を」「私学助成が違憲になるから、憲法89条を改正しよう」といった、学説・判例もわきまえない荒っぽい議論が横行している。私立大学に勤める人間として言わせてもらえば、私学助成と憲法改正を絡める人々の顔ぶれを見ると、私学助成に果して積極的だったのか疑わしい人も少なくない。
なお、「押しつけ憲法は改正すべし」という議論もあるが、この苔むした改憲論の勢いはいま一つ。むしろ、「とにかく変えてみよう」式の軽やかで、「分かりやすい」議論の元気がいい。その代表が鳩山由紀夫氏。若者のトークショーなどに登場しては、「現実に合わなければ憲法を変えればよい」といった「大人の議論」を吹いているという。まさに「改憲軽チャー」だ。
だが、憲法は変えればいいのか。よく例に挙げられるドイツ基本法は、半世紀の歴史のなかで46回も改正された。40箇条が追加され、3箇条が削除された。同一条文内の追加・修正を加えると、191箇所に手が加わったことになる。だが、この頻繁な改正には批判もある。例えば、最近退官した連邦憲法裁判所のD・グリム裁判官は、「憲法は政治を抑制することに意味がある。だから、政治は自己の必要性に合わせて憲法を作ってはならない」と述べ、住居の不可侵の制限(盗聴)を認めた第45次改正などを批判した。
一般的に言って、本来憲法によって規制を受ける側の人々が、改憲に熱心であるという場合、これは疑ってかかるのが筋である。なぜなら、憲法は、国家権力を抑制するところに存在意味があり、権力の側がこの拘束を弱めようとするとき、市民には決して利益にならないからだ。
それに、新しい人権条項を設ければ、その権利が保障される考えるのも錯覚である。現行憲法のもとでも、環境権やプライバシー権を求める市民の運動と判例の蓄積のなかで、不十分ながらもそれらの権利が保障されてきたのだ。通信傍受法を推進した人々が、プライバシー権導入のための憲法改正を説く。ここに、現在の改憲論議の危なさがある。
今の改憲論の主要な目標が9条改正にある点は大方の指摘する通りである。だが、その本質的問題性は、それにより日本が「軍事大国」になるかどうかにあるのではない。問題は、違憲行為を続けてきた側が、もはや違憲と言われないように憲法を変えてしまう。これを国民が支持する。こうした状況が生まれることで、憲法は「存在の耐えがたい軽さ」を際立たせ、結果として立憲主義を軽んじる風潮が定着するおそれがあるという点にある。調査会発足の時点で直言する。憲法規範と現実とのズレを埋めていくというならば、個々の条文の弱点をあげつらうよりも、憲法に反する現実政治のありようを正すことこそ先決である、と(なお、本稿を圧縮したものが、国会召集日以降、全国の地方紙を中心に談話として掲載される予定である)。