たまたま昔の手帳を開いたら、余白に短い詩が記してあった。1993年8月23日午後。私は広島県三原市にある極楽寺の境内を散歩していた。そこで、坂村真民「二度とない人生だから」(抄)の詩碑を見つけた。
二度とない人生だから一輪の花にも、無限の愛をそそいでいこう。一羽の鳥の声にも、無心の耳をかたむけていこう。二度とない人生だからつゆくさのつゆにも、めぐりあいの不思議を思い、足をとどめてみつめていこう。
三原城内から移築した山門の前に蝉の脱け殻があり、そこから2メートルほど先に蝉の死骸があった。この蝉は、おそらく山門の近くで「外の世界」に出て、わずかな距離を移動して、命絶えたのだろう。この詩を手帳にメモした直後だったので、そこにしゃがんで、しばらく蝉を見つめていた。この1、2年の間、ドイツや日本で、人の「運命」を感じる出会いを体験したこともあって、この詩との7年ぶりの「再会」は心に響くものがあった。「二度とない人生だから」を枕詞にすれば、そのあとに続く文章を、人それぞれに思いを込めて綴ることができるだろう。一回きりの人生のなかで、人はそれぞれの「夢」を持ちつづける。それでも、いつかテレビのインタビューで、「将来の夢? 生活が安定する公務員になることかな」なんて言葉を小学生が吐いていた。ウーン、と唸る世界だけど、リストラが吹き荒れるなか、大人も夢を失っていることの投影だろう。ところで、私は「夢八分目」ということに心がけている。腹八分目と言われるように、健康上は満腹状態にしない方がいい。それに、飲み会があっても、少し余裕を残しておくと、帰宅したとき、ちょうど娘が作っていた蛸焼きと遭遇できる、なんてこともある。もし満腹で帰れば、翌朝「冷めたピザ」のような、味の落ちたのを食べることになる。人生も同じだろう。人それぞれに目標があって、それに向かって歩み続ける。でも、ある地点に到達したとき、そこを「あがり」と思い込むと、その人の進歩はそこで止まってしまう。何かが足りない、満足できない、という部分をむしろ大切にする。挫折したり、失敗したりすることも、人生を豊かにしてくれる貴重なスパイスなのだ、と考える。こういう心の置き方を「夢八分目」と私は呼んでいる。では、私の夢は何かって? これは内緒にしておこう。私がいまの職場で定年を迎えるのは2023年。それまで生きられるか分からないが、この仕事に全力を尽くしながら、自分の夢も実現したいと思う。「二度とない人生だから」、人は自分がこの世にいる意味をたずね、この世にあった証を残そうとする。人生とは、その人に課された命の使い方、つまり使命(Aufgabe)を探し求める旅ではないか。今日、ちょっぴり落ち込んでいたあなた。少し元気になったでしょうか。
※坂村真民(1909生まれ)。松山市の仏教詩人で「癒しの詩人」と言われる。真民詩碑 43都道府県と海外を含めて460基もあるという。私が見た三原市の詩碑もその一つだろう 。