「日本は変わったのか」第4部(朝日新聞文化面)の連載4回目を担当した。1回から3回までは作家・辺見庸、精神医学・香山リカ、社会学・大澤真幸の各氏だ。大阪本社学芸部の依頼によるもので、関西方面では7月8日付夕刊に、統合版10版(夕刊なし)の地域(広島、山陰など)では9日付朝刊に掲載された。ただ、朝日新聞の東京、西部(山口、九州・沖縄)、名古屋の各本社管内の方々は読むことができない。そこで今回の直言は、この記事を転載して読者の便宜をはかることにした。
「普通の国」に落とし穴―― 気分はルート3
この三月末まで一年間、ドイツのボンに滞在した。朝は新聞5紙を読むことから始まる。天気のいい日はライン川沿いのベンチで切り抜きをすることもあった。
日本に関する記事は、経済の扱いが大きいのに比べ、政治はいたって地味な扱いだ。それでも、オヤッと思う事柄が大きくとりあげられることもある。「フランクフルタールントシャウ」紙に載った「日の丸・君が代」に関する長文の記事は特に印象に残った。そこでは、自殺した広島県立世羅高校の校長がフルネームで紹介されていた。経済のグローバル化が進むなか、日本でいま、なぜナショナリズムを押し出す動きが強まっているのか。国旗・国歌法の異例のスピード成立という点も含め、記者の戸惑いが感じられた。
帰国後、大学院生と雑談していると、一人が、「日本はルート3 の気分にあります」とかけてきた。
「そのこころは」と問うと、1.7320508 「人並みに驕(おご)れや」。自分の国のことを、もっと外に向かって誇ってもいいではないか。他の先進国並みに、軍事力行使を含む国際的な責任を果たす「普通の国」になるべきだ。こういう意見ないし「気分」はこの間、一般の市民、特に若者のなかにも広まっているというのだ。
確かに、日常生活のなかで他人の目を過度に意識する横並び志向は、国のありように関して、内容抜きの、「他国並みに」という方向と結びつきやすい。国旗や国歌といったツールがことさらに強調される背景には、ナショナリスティックな「気分」の広がりとともに、こうした横並び志向があるように思う。だから、ナショナリズムの突出に見える現象が、「国際化」や「グローバリズム」と対立せず、それらと同時並行的・親和的に進行することが可能となるのである。
戦前のそれが、個人の精神生活にまで浸透し、執拗に支配する「粘着質のナショナリズム」だったとすれば、いまのそれは「サラッとしたナショナリズム」と言えるだろう。そこでは天皇でさえも、必要な時に呼び出される、選択可能なトッピングの役回りを与えられているように見える。
ただ軽視できないのは、横並び志向が、歴史的刻印を帯びたそれらのツールを過剰に機能させ、市民的自由に抑圧的効果を生むおそれがあることだ。教育現場における「日の丸・君が代」の事実上の強制は、この危惧を裏づける。
ところで、統一後のドイツでも「普通の国」(normaler
Staat)という物言いがなされるようになった。ドイツはナチス支配への反省と分断国家という現実のなかで、「特別の道」を歩み続けてきたが、冷戦終結とドイツ統一によって国家主権が回復され、「普通の国」になったというわけである。
K・ナウマン元連邦軍総監。北大西洋条約機構(NATO)軍事部門の要職も歴任したこの人物は、統一後の安全保障政策の転換を方向づける文書(91年のナウマン構想)のなかで、「普通の国」のありようを明快にデッサンしてみせた。その際、全世界の市場および原料資源の確保をドイツにとっての「死活的な安全保障利益」と位置づけ、連邦軍の任務も、「国の防衛」から「国の利益の防衛」に重点移行させた。国防軍から「危機対応軍」への変身である。
ナウマン構想はその後のドイツの対外政策に具体化され、8年後には、NATOのユーゴ空爆への参加という形で「結実」した。ドイツは米英仏と同様、必要な場面で軍事力行使ができる「普通の国」になりつつある。周辺事態法をもった日本は、そのドイツよりも数周遅れで、アジアにおける軍事的役割分担を高めようとしている。
では、両者の違いはどこにあるか。ドイツでは、「ヨーロッパ」の枠組が重視され、どのような問題や場面においても、ドイツだけが突出することは慎重に回避されている。ウルトラ・ナショナリズムの勢力が依然として存在し、最近ではインターネットを利用した活動も活発化しているものの、それらがドイツ全体に大きな影響力をもつとは考えられない。ただ、元反戦派の緑の党と社民党の連立政権のもとで「人権のための戦争」(ユーゴ空爆)を行なった結果、国民のなかに、武力行使への抵抗感が相対的に下がったことは否めない。NATO(将来的には欧州連合[EU]介入軍)がヨーロッパの「共通の利益」を守るために「公的武力行使」に乗り出すとき、それを正当化する論理はもはや「国益」やナショナリズムではない。
他方、アジアにはまだ、全欧安保協力機構(OSCE)や欧州連合のような広域的枠組が存在しない。だから、日本は、アジア・太平洋地域の市場および原料資源を「死活的利益」と位置づけ、これらの確保のために軍事力を海外展開する場合でも、それを「アジアの共通利益」の実現という形で正当化することは困難である。日米安保体制の枠を維持しながら、ナショナリスティクな要素を動員せざるを得ない。この点が「普通の国」という場合における日独の違いと言えよう。
いま、「普通の国」に簡単に取り込まれてしまわない市民のありようが問われている。
なお、大学院生と雑談した際の喫茶店代はすべて私が支払った。ルート3 には「人並みに奢(おご)れや」という意味もあるから。
「『普通の国』に落とし穴――ナショナリズムの影(4)」『朝日新聞』(大阪本社)2000年7月8日付夕刊文化欄