改憲を唱える本のなかで、女性の書いたものが二冊ある。桜井よしこ『憲法とはなにか』とクライン孝子『歯がゆい日本国憲法--- なぜドイツは46回も改正できたのか』。前者は元テレビキャスターのものだが、中身は一読してネタもとが知れる代物。ソフトな語り口でノッペリと現状追認思考を流布する。後者はフランクフルト在住日本人による「歯がゆい日本」シリーズの一冊。ドイツが46回も憲法〔基本法〕を改正しているのに、日本はまだ一度も改正していない。46対0でドイツの勝ち。日本は憲法を改正できないという点で、はがゆい存在となる。「竹村健一氏感嘆!初めて客観的に語られる憲法論」という推薦文を見て、まったく期待せずに読み始めたが、ものの数頁で中身が知れてしまう上げ底ぶりにあきれた。政府の広報パンフや数冊の新書・一般書、郵便局が出した憲法記念切手の解説文、あとは産経新聞と『サピオ』『諸君』『正論』の類を使って、『これが日本の憲法だ』という本を日本在住ドイツ人が出したようなもの。ドイツ憲法の入門書さえ参照せず、基本法の条文もすべて日本語訳(『ドイツ憲法集』信山社)で済ます。ドイツの書店ならどこでも入手できる新書サイズの『基本法』(ベック社)くらいは、条文確認のために使ってほしかった。インタビュー相手も、「ボンの元NATO将校」「あるドイツ人ジャーナリスト」「日本の企業とも取引があるドイツ人企業家」という怪しげなもの。「押しつけ憲法=日本国憲法」の制定過程については、桜井氏の本を長々と引用するだけ。もともと桜井本が西修氏(駒沢大)の情報に丸ごと依拠して書かれているので、カルピスを飲もうと思った読者は、カルピスウォーターを5 倍に薄めたものを飲まされたようなものだ。まさに「金返せ」である。この本では、連邦軍のNATO空爆参加が手ばなしで称賛される。「悪人ミロシェビッチ」対NATOという単純構図で、空爆によるユーゴ市民の殺傷など眼中にない。彼女がヒステリックに叫ぶ「民族浄化」の犠牲者数も、とうのドイツのマスコミも空爆1周年の頃までには、過大な数字に疑問を呈しはじめた。ところが、空爆批判は、朝日新聞の記事も含めて、彼女にとっては「セルビアが世界にはなったスパイ」による反NATOキャンペーンと映る。そして、ドイツが空爆参加で「安全保障大国」になれたのも、状況に応じて基本法を改正してきた結果であると、憲法改正に強引に持っていく。だが、これは間違いである。50年代半ばから70年代はじめにかけて、NATO加盟や連邦軍設置、緊急事態法制の整備、国内治安体制の強化のため、断続的に基本法改正が行われてきたが、今回の空爆はこれまで改正されてきた基本法の枠内では、合理的な説明は困難なものである。94年7 月の連邦憲法裁判所判決が連邦軍のNATO域外派兵の枠組を提示したが、それとても、国連安保理決議を欠いた空爆への参加を整合的に説明することはむずかしい。ドイツ国内にある空爆への疑問や批判論は、彼女にとっては存在しないものと映る。本書には、相互的・集団的安全保障体制への加入を定めた基本法24条2 項が94年10月に改正されたとあるが、まったくの事実誤認である。あたかも基本法改正で空爆参加まで進んだかのような記述はいかにも恣意的。基本法を「その情勢に応じて自由自在に変えていく工夫が必要だ」という「ドイツ人ジャーナリスト」なる人物の声を肯定的に紹介しているが、一国の憲法をその時々の政治の必要に応じて頻繁に改正することについては、連邦憲法裁判所のD・グリム裁判官も批判的コメントを出しているほどだ(拙稿「ドイツ基本法 50年と軍事法制」参照)。ドイツは基本法を46回も改正して状況に適応しているのだと、その改正頻度だけを強調するのは、ドイツの憲法論議を矮小化するものだろう。なお、本書の読者は、フランクフルト在住の彼女から国際派としての知見を期待するだろうが、その性根はすこぶる古風である。日本は有色人種の国家で唯一サミットに入っているから、優秀な民族の国だ、と素直に書いてしまう。一体、本書のどこに「客観的な憲法論」があるというのか。本書に感嘆した竹村健一氏の思考の簡単さを改めて確認するだけなら、1600円は高い。