活字の世界で訂正はつきもの。各紙(誌)の訂正を拾って毎月1頁にまとめているのが、『噂の真相』だ。『訂正人語・おわびスペシャル』という臨増号まである。そこには、自誌の訂正・お詫び文まですべて収録されているから「立派」である。最近の号からいくつか紹介しよう。『産経新聞』8月17日付。「『一九九四年のシンガポール陥落』とあるの は『一九四二年のシンガポール陥落』の誤りでした」。軍拡を煽る産経らしいミスではある。『読売新聞』7月1日付。「EU域内の喫煙による死者が年間『五百万人』とあるのは 『五十万人』の誤りでした」。おお、怖い。さて、私もよく執筆する『法律時報』の「お詫び」まで載っている。同誌7 月号は、司法改革関係のアンケート収録が予想より増えた ため、掲載予定の連載を次号まわしにした。そのお詫びの文には、連載名を列挙した末尾に「ほか」とあった。『噂の真相』誌は、「『ほか』って一体何だ(笑)」と茶化してい る。法律時報編集部のために弁護しておくと、「ほか」というのは連載執筆者を省略したものではなく、最高裁新判例紹介などの資料部分を指すものと思われる。とはいえ、こんな専門誌までチェックしているとはさすがである。ものを書く人間にとって、校正ミスは常に冷や汗もの。新聞社内では、ミスをした記者がハンコをもって関係部署をまわって詫 びを入れる。結構大変な仕事である。「訂正人語」の数々は、いずれ我が身と思えば、誰も笑えないだろう。その一方で、訂正しようのない言葉というものもある。一言でその人の人格が透けて見えてしまう言葉。石原都知事の「三国人」発言もその一つだが、いま日本の首相をやっている男と番記者とのやりとりには、何とも殺伐とした「言葉の荒野」が 広がる。例えば、『朝日新聞』政治面下の「首相ことば」という欄。「記者:ユーゴスラヴィアの大統領選で、選管が決選投票の実施を発表しましたが、首相の考えは。首相:あっ、そう。考えなんて、ひとの国のことだから、ないよ」(9月28日付)。ユーゴのミロ シェビッチ大統領に対する国民の批判が一気に高まり、20万人の野党集会が行われた日。 緊張するベオグラード。世界中が、「武力弾圧がないか」とヒヤヒヤ見守っている時に、一国の首相の発言がこれだ。「人の国のことだから」。この発言の1週間後、ミロシェビッチ政権は崩壊した。いま首相をやっている男は歴代首相のなかで、最も言葉を粗末に扱っているように思う。そのもう一つの例。9月28日の衆院 予算委。野党から、現内閣は密室の談合政治で誕生したと批判されるや、「私生児のように生まれたと言われると、大変不愉快だ」と応答した。誰もそんなこと聞いていないのに 、あえて「私生児」という言葉を選んでしまう。予算委理事会で不適切な言葉とされ、議事録から削除された。この夏、広島の平和資料館の記帳簿に、「栄光の20世紀」という形で、広島の人々の心を逆撫でする言葉を記入し、『中国新聞』コラムにたしなめられたことは、NHKラジオでも紹介した。私はそこで、「記帳の言葉まで、首相秘書官はメモを作ってくれなかったようです」と皮肉ったが、すぐにハガキが届いた。石川県の消印。毛筆で、「君は一国の総理を馬鹿にしておる。もっと 公正な発言をしなさい」とあった。だが、そもそも私は彼を「総理」として認めていない。だから、この欄でも彼の名前を使ったことがない。なぜかと言えば、私は依然として4月2日にこだわっているからだ。小渕首相がまだ「欠けた」(憲法70条)わけでもないのに、青木官房長官(当時)らと共謀して「首相の座をかすめ取った」。最初の国会指名の際、国会を欺いた事実は消せない。この人物に言葉の訂正はいらない。「存在の訂正」(総辞職)が必要なのである。